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 イトウちゃんが毛嫌いする言葉がある。  それは「ウォーターフロント」だ。  都心の地価や家賃の高騰で、江東区の埋め立て地「有明」が注目されるようになった。  一件なんの魅力もない廃れた場所が、空間プロデューサーの手にかかり、レストランやライブハウス、そしてディスコが立ち並ぶ魅惑的なウォーターフロントに生まれ変わったのだ。 「モノは言いようだな。要は倉庫街だろ。あんなへき地に誰が遊びに行くか、っつーハナシだよ。不便だしさ」  しかしイトウちゃんのヨミは、はずれたようだ。   欲望で動くバリライトが湾岸を照射する。  夜の街の勢力図が、塗り替えられようとしていた。  きっかけは、多分、あれだと思う。  あれね、あれからだよ、と囁かれるあの出来事。 『六本木ディスコ照明落下事故』だ。  経理の渋川さんが訳知り顔で話していた。 「ほら、社長がよく行ってたディスコだけど、あんな事故があったから潮目が変わったのね。六本木はあれからもうだめみたい」  さすがグレーな交際費を工面しているだけあって、彼女はハッシーの(夜の)行動を把握している。  あんな事故があったディスコとは、六本木にあった「トゥーリア」だ。  昨年の五月にオープンして話題をかっさらい、今年の年明け早々、一年ももたずに閉店した。  天井に吊るしていた十八トンの巨大な照明が落下して、死傷者を出してしまったからだ。 「トゥーリア」は、オープン前からその斬新なコンセプトが話題になっていた。  テーマは、惑星に不時着した宇宙船。  未完成のままオープンし、三年後の完成をもって閉店させると発表したもんだから、世間は驚いた。  ハッシーも興味津々で、ツテをたどってオープニングセレモニーに出かけていった。  イトウちゃんとは違い、六本木界隈が大好きな彼は、夜の営業活動で、せっせと人脈を構築していたのだ。  翌日、興奮冷めやらぬハッシーは、身振り手振りで、その様子を語り聞かせた。 「いやー、すごいのなんのって、今まで体験したこともない空間だよ。でかい照明が宇宙船みたいに上下するんだよ。空間プロデューサーの考える事は違うなぁ」  一方ヤッシーは冷静だった。 「三年で閉店なんて、嘘に決まってるだろ? コンセプトとやらに騙されんなよ」 「相変わらず疑り深いなぁ、でもさ、思ったんだよ。建物や建造物って、完成した途端、古くなるだろ? だから未完成のままオープンさせて、客と一緒に進化する。これ、新しい発想だと思わない?」 「サクラダファミリアか。どーせ工事が間に合わなかったんだろ? 話題作りかも知んないし」    大きなため息をついたヤッシーは、そう言い捨てた。  そんなハッシーの希望を乗せた未完の宇宙船は、結局未完成のまま消滅してしまった。  死傷者が出たのでは、仕方ない。  後の事故調査で、大型照明に絡む瑕疵が露呈した。  でかい照明を昇降させる頻度が、設定した回数を上回っていた事。  また、でかい照明は、アメリカ製のバリライトだとうたっていたのに、実は日本でコピーされた偽造品だった事――。  潮目が変わるとはこのことだ。  六本木の夜に、不穏な空気が漂い始めた。  遊び足りない人たちが行き着いた先は、ウォーターフロント。  湾岸で、別の「祭り」が始まった。 「ヤッシーも、今度一緒に行こうよ。ワニ料理なんか食べた事ないだろ?」  変わり身の早いハッシーだ。  けれど、六本木にも足が向かなかったヤッシーが、有明に興味を持つわけがない。 「今度はなんだよ。クロコダイルダンディーか?」 「そんなダサいもんじゃないんだって。有明はディスコもバカでかい倉庫の中にあって、中がひとつの街みたいになってんだよ。『よしはら』っていうゾーンに芸者がいるから驚いたよ。一晩中遊べるぞ」  二人三脚でリアンを軌道に乗せてきたハッシーとヤッシーに、最近意見の相違がみられるようになった。 「ヤッシーはもっと毎日を楽しんだ方がいいぞ。よくわかんないマイナーな映画ばっか探してくるより、商売の種はいろんな場所にあるんだからさ」 「俺の仕事をバカにしてんの?」 「そうじゃないけどさ」  ヤッシーは今、海外ドラマや映画を翻訳をして、有料チャンネルで放映する準備をしている。  ――衛星有料チャンネルなんだけど、日本でも見られるようになるから。  ――エロ番組か?  ――違うよ。世界のあらゆる番組が見られるんだ。スポーツや格闘技だって、リアルタイムで放送できるようになるらしい。  ――有料だろ? 誰が見るんだよ。  二人の描く未来が、微妙にずれていくのを感じていた。 「品がないよな」  イトウちゃんはそう言い捨て、広報堂の封筒を私の前に置いた。 「なんか、ごめんね」 「謝んなくてもいいよ。これはかっちゃんにあげるために持ってきたんだからさ」  少し不機嫌な様子でプリンアラモードを食べた。  そう、私は招待券を受け取りに、またまた千疋屋まで来ているのだ。  マイケル・ジャクソンの東京ドームツアーは、12月9日を皮切りに、ド派手にスタートした。  以降26日まで合計九公演もあるが、チケットはすでにソルドアウト。東京ドームのある水道橋駅界隈には、違法なダフ屋が出没していると噂に聞いた。  東京信販のキャンペーン商品である招待券も、高値で売買されているらしい。  なんだか嫌な感じだ。  ――あと十枚、できれば二十なんとかなんない?  ハッシーの頼みをスルーしていた私。  けれど彼はあきらめない男だ。  僅かにつながっている広報堂の制作局の後輩に、チケットを依頼していたというから抜け目ない。  ――もし間際になってキャンセルとか出たら、何枚でもいいから融通してほしい。  コンサートの直前に、そんな都合よくキャンセルなんか出るわけがない。  そう思っていたところ、イトウちゃんと日テレの太田さんが頼まれ確保していたチケットの行先がダブってしまい、十枚の招待券が宙に浮いた。    回り回ってハッシーからの依頼を聞いたイトウちゃんは、私の顔を立てるという名目で、宙ぶらりんになった十枚のチケットを譲ってくれる事になったのだ。  ハッシーは本当に運がいい。 「こめんね、忙しい時に」 「忙しかないけどさ、ハッシーもせこいな」  プリンアラモードを味わうイトウちゃんは、いつになくゆっくりしている。 「今日もこれからドームに行くの?」 「そ、チケットを当日渡す招待客が来るからさ。スポンサー関係も来るし、代理店の大事なおしごとっつーわけ」  東京ドームの裏口で待機していると、芸能人が次々やって来るから、けっこーヒマがつぶれると話した。  ヒマなんて、らしくない。  確かにイトウちゃんの仕事は、コンサートが始まるまでが忙しいのかもしれない。 「かっちゃん、17日は裏口から入りなよ。開演まで控室で待機してればいいよ」 「芸能人でもないのに、ダメでしょ」 「関係ーねーよ。ギョーカイ人が用もねーのに、うようよたむろってるだけだからさ」 「……そうなんだ」 「会場が暗くなったら、芸能人に紛れて席に行きなよ。アリーナ最前列ど真ん中。気分いいぞ」  イトウちゃんがニヤリと笑った。  少し曇った窓の外は、冬の雨が降っている。  風も強くなってきたのか、街路樹が揺れていた。 「雨、止むかなぁ」 「そりゃ、止むっしょ」  結露を手で拭うと、指先からしずくが滴り落ちた。

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