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 そういえば、私はイトウちゃんに電話を掛けたことがない。  いつも絶妙なタイミングで連絡がくるし、どこかで会う時は、あらかじめ待ち合わせ場所と時間を指定されていたので、当日連絡を取らなければならないような不測の事態も起こらなかった。  自分のスケジュールの空白を埋めるために、誘われていると思っていた。  それならそれで、彼が飽きるまで私も楽しめばいいと、卑怯にも開き直った。  危険な目に遭いそうになったら、潔く海にでも飛び込めばいい。瀬戸内海の海辺で育ち、泳ぎは得意な方だ。命を落とすことはない。  けれど、イトウちゃんが会社を辞めた。  私に何の相談もなく、いや、相談なんかしてくれなくてもいいけど、でかい事や新しい事を考えていたのなら、いつもみたいに呼び出して、「かっちゃんだけに教えてあげるよ」と、意味ありげな物言いで打ち明けて欲しかった。  なんだかがっかりした。  裏切られた気分にもなる。  イトウちゃんは何を考えているのだろう……。  知ったこっちゃないけど、それはないだろうと――思う。 「気になるなら電話してみれば?」  やっぱりヤッシーは勘が鋭い。 「……そうですね。お礼も言わなきゃならないし」  私は素直に認めた。  でも……どこへ?   何度目かの食事の時、互いの名刺に自宅の電話番号を書いて交換したことを思い出した。    とはいえ、自宅に電話を掛けた事も、掛かってきた事もない。  名刺フォルダーをめくると、イトウちゃんの名刺が二枚重ねてファイルしてあった。  初対面で交換した名刺と、自宅の電話番号が書き込まれたものだ。   ――南葛西じゃ一番高いマンションだぁら、すぐわかるよ。あ、家賃が高いっつーことじゃないかんね。バァみたいな家賃払って見栄張るヤツって頭悪いっしょ。それに、おれ、人の足の下には住まないからさ、そーゆーこと」  言われて、私はイトウちゃんが近隣では一番高層のマンション最上階に住んでいる事を理解した。  なんで葛西? それも南葛西? と疑問に思った。  それこそイトウちゃんが毛嫌いするウォーターフロントじゃないの? とツッコみたくもなったが――、「葛西は違う」と先手を打たれた。  新しい町で道幅も広く、夜中に車で走っていると、エンジン音が響いてマシンが喜ぶというのだ。  ――それにさ、まだ手垢がついてないっつー感じがいいっしょ。   「勝野さんが電話しづらいなら、誰かに聞いてみようか?」  一向に行動を起こさない私を見兼ねたのか、ヤッシーが気遣ってくれた。 「いや……」  時計を見ると、十二時になるところだった。  平日の昼間に、会社を辞めた(らしい)イトウちゃんがひとり暮らしのマンションにいる姿は想像できない。というか、そんな状況なら却って問題だ。 「てゆうか、八嶋先輩も知らなかったんですか?」 「イトウがやめたこと?」 「はい……」 「知らないよ。初耳だよ。広報堂にはイトウと仲のいいヤツなんかいないから、みんな知らないんじゃないかな」  そういえば、日本テレビの太田さんと一緒にいるところしか見たことがなかった。 「まぁ、イトウの家は老舗の石鹸屋だから心配ないよ。一人息子だし跡継ぎ確実だから」 「え? せ、石鹸って」 「聞いてないの? 学校の手洗い場にあった『もくもくせっけん』って覚えてない?」 「もくもく、って……。水色のネットに入って蛇口にぶら下がってた、雲の形の石鹸ですか?」 「そう。あれ、イトウ石鹸。でもたかが石鹸と侮るなかれでさ、化粧品メーカーとも取引があるし商売は安泰なんだよ。広報堂に入社できたのも、大いなるコネが働いたんじゃない?」  私は絶句していた。  イトウちゃんともくもく石鹸との違和感に。いや、イトウちゃんが身分を偽り(?)、明らかに育ちが違う私を誘ってくれていた事実に――。  御曹司の気まぐれだろうか。  ドラマならシンデレラストーリーに転じていくが、現実は違う。  きっと彼は新しいおもちゃで遊びたかったのだろう。そしてそれに飽きてしまったのだろう。    そんな勝手な想像が、石鹸の泡のようにもくもくと湧き上がる。 「お昼、行ってきます」  私は財布をつかんで立ちあがった。 「あ、おかめや行くなら豚汁定食頼んどいて」 「おかめや」は母親と息子が切り盛りする人気の定食屋でランチも安く、リアンのスタッフがよく利用する店だ。しかし今日は気分じゃない。 「銀行に用事があるんで、食事は近くで済ませてきます」 「あ、そう」  私はおかめやと反対方向に歩き、道沿いにある電話ボックスに入った。  こっそり財布に入れて持ってきたイトウちゃんの名刺を取り出し、自宅の番号を押す。  しかし呼び出し音が鳴るだけで、留守番電話にも切り替わらない。  やっぱり留守だ。    諦めて電話ボックスを出ようとしたが、ふと思い立ち、広報堂にも電話を入れてみる事にした。  番号を押すと、ワンコールも待たずに女性が出た。 『はい。広報堂営業局五の二、シノザキです』  よく通る声と共に、騒々しいフロアの様子が漏れ聞こえてきた。 「リアンの勝野と申します。イトウさんは、いらっしゃいますか」 『イトウですか……』  女性はしばし沈黙した後、『少々お待ちください』と通話を保留にした。  子どもの頃、習っていたピアノ曲が流れる。  バッハのメヌエットだ。  暫く聞いていると、 『お電話替わりました』  突然男性が電話口に出た。 「うそ……」 『イトウですよね』 「あ、はい」  勘違いだ……。  私は誤魔化すように、敢えて元気に応えた。 「いらっしゃいますか?」 『イトウ、辞めちゃったんですよ』  やっぱり……。    私はそれを初めて聞いたように驚いてみせた。 「えっ? いつ、やめられたんですか?」 『去年の暮れかな。突然だったからご挨拶もなかったんでしょ?』 「はい……」 『すみません。もし何か進行中の案件があったら引き継ぎますけど』 「いや、特には。イトウさんはどこへ行かれたんですか?」  男性は「誰かイトウの事聞いてる?」と、フロアの誰かに問いかけてくれた。 『――すみません、誰も知らないみたいで。……なんかわかったら電話しましょうか?』 「いえ大丈夫です。お昼休みにすみませんでした」 「いえいえ。お役に立てず――」  受話器をフックに戻すと、小さな穴が開いたテレホンカードが戻ってきた。

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