本郷にある東京信販株式会社本社ビルは、地上十階建ての重厚感あふれる建物だった。 受付に、髪の長い女性が二人座っている。カウンターの上には、イメージキャラクターであるピエロの人形が置かれてあった。 訪問を告げ、ロビーで待っていると、イトウちゃんと白髪混じりの大柄な中年男性がやって来た。 いしやまおさむ監督だ。 テレビのドキュメンタリー番組で見たことがあるので顔は知っていた。 イトウちゃんに紹介され名刺交換すると、緊張で手が震えだした。 いしやま監督は私の名刺を見ることなく、使い古した名刺入れの中にそれをしまい、再びイトウちゃんと話し始めた。 名刺の裏面には、これまで監督したCMが小さな文字で列挙されている。そのどれもが一度は目にしたことがある作品だった。 きっとリアンの依頼なんて受けてくれないだろうな。そもそもギャラはいくらするのだろう……。 そんな事を考えていると、東京信販の社員が迎えにきて、私たちは九階の会議室へ案内された。 今日のイトウちゃんは別人のようだ。なんだかキビキビしている。 「制作進行を担当する、リアンの勝野さんです」 私を紹介してくれたが、東京信販の担当者は軽く受け流したように感じた。 まだプレスリリースしていない情報のため、あまり大勢の人間がかかわることを良しとしていないのかもしれない。それに無名の制作会社の、それも小娘(?)の担当者なんて、私が逆の立場でも不安に思うだろう。 そんな空気を察したのか、イトウちゃんが情報を追加してくれた。 「リアンさんは、広報堂にいたメンバーで組織されていますし、これまで多くのイベントや映像作品を手掛けていますのでご安心ください」 少しオーバーだが、その言葉で担当者の表情が好意的になった気がした。 いしやま監督は、これまで東京信販のコマーシャルを何本も撮っているせいか、担当者と気心が知れているようだ。冗談を言い合いながら、使いこんだ手提げ袋の中から絵コンテを取り出し、テーブルの上に置いた。 「東京信販 懐かしい街シリーズ ~フランク・ディレオ編~」 絵コンテから、温かい雰囲気が伝わってくる。 監督は、東京信販のキャラクターとして定着しているピエロとマネージャーの雰囲気をマッチさせ、心温まるコマーシャルにしたいと話した。 「いいですね」 担当者が目を細めながら頷いた。 かつてフランクはマフィア役で映画出演しているらしく、それをオマージュしたと、監督が制作意図を伝えた。 「ゴッドファーザーをイメージしてみました」 悪の限りを尽くし故郷を離れていた男(フランク)が帰郷してみると、町はすっかり寂れて見る影もない。暫く通りを歩いていると、ショーウインドウの中に置かれたピエロと目が合った。男は幸せだった頃の家族との日々を思い出す――。 「いいですね。フランクはマーロンブランドに似てますもんね」 担当者はいしやま監督の信望者だろうか。しきりに「いいですね」と繰り返した。 資料としてフランクの写真が添付されていたが、元俳優らしく整った顔をしていた。目つきも鋭い。私はマーロンブランドをよく知らなかったが、ゴッドファーザーならイメージがつかめた。 「素敵ですね」 制作進行担当者として、その程度しか口を挟めなかった。 翌日、駅売りのスポーツ新聞に『マイケル・ジャクソン ジャパンツアー1988』の見出しが躍った。 これは正式なプレスリリースだろうか。それともどこからか情報が漏れたのだろうか。 込み入った事情は分からなかったが、記事はかなり詳細なスケジュールまで伝えていた。 コンサートは、12月に、東京ドームで九日間開催されるとある。 イトウちゃんから聞いていた通り、「これが見納め、ラストツアー?」と小見出しがあり、さらに小さな文字で、東京信販が協賛することが報じられていた。 駅の売店で新聞を買って出社すると、既にヤッシーがスポーツ新聞を広げていた。 「出ましたね」 少し得意げに言うと、 「でも、コマーシャルのことは書いてないな」 ヤッシーが水を差した。 「そりゃそうですよ。まだ撮影してないし、なんたってマネージャーですもん」 「そういうことじゃなくて、どうでもいい情報だからだよ」 デスクの電話が鳴り、ワンコール待たずに受話器を取ると、予想にたがわずイトウちゃんからだった。 『見た?』 「はい、出てましたね」 『クライアントの文字ちっちゃかったなー。まぁそんなことは世間にとっちゃー、どーでもいいことだぁらなー、まぁいいっしょ』 広告代理店なら、そこは気にするところじゃないの? っと思ったが、「そうですね」と同調しておいた。なんだか気分が高揚していた。 『それよかさ、かっちゃん花詳しい?』 「花ですか?」 「はい」とも「いいえ」とも言い難い。 『あさって、ジャーマネが来日すんだよね。そいで急遽成田に迎えに行くことになったから、かっちゃん花持って一緒に来てよ』 「私が、ですか? というか、もうあさってに来るんですか?」 『そっ、てきとーにみつくろって麹町の日テレ集合。予算はまかせる。あとで精算すっから』 「ちょ、ちょっと……」 イトウちゃんは用件だけ伝えると、一方的に電話を切った。 「人使い荒いなぁ」 ひとり言のつもりだったが、ヤッシーは聞き逃さない。 「人使いも金遣いも荒いんだよ、代理店ヤロウは」 「マネージャーを迎えに成田まで行くから、適当に花を見繕って持ってくるよう言われました。これも制作進行の仕事なんですか? なんか、いいように使われてません?」 「へぇー、勝野さんが愚痴とは、珍しいね」 私は驚いてヤッシーを見た。 「いいよ。どんどん愚痴ればいいよ。勝野さんはなんでも器用にこなしてくれるけど、何考えてるか、イマイチよくわかんなかったからね」 「そうなんですか?」 確かに私は自分の周囲に壁を張り巡らせ、感情をさらけ出せない性分だ。 理解してもらえなければ、すぐにあきらめてしまうし、わかり合おうともせず自分の殻に閉じこもる。そして安全な場所から、誰かが手を差し伸べてくれるのをじっと待ってる、卑怯な人間だ。 「なんだか、すみません」 「謝る事じゃないよ」 ヤッシーが笑いながら、コピー用紙に地図を書きだした。 「日テレの近くに花屋があるから、そこで買ってくといいよ。テレビ局の人間もよく利用してるみたいだし、センスいいから」 はい、と手渡され、道順を教えてくれる。絵心のないヤッシーだったが、地図一枚で嬉しくなった。 「ありがとうございます」 丁寧に折って手帳に挟むと、ヤッシーから一万円を渡された。 「花束ってけっこう高いからこれで払って。領収書貰っといてね」 「……ありがとうございます」 私はもう一度お礼を言った。
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