僕は重たい扉を押した
2018年8月17日

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2018年8月17日     腰に重心を置き、全体重を掛け、左肩からもたれかかるような格好で扉を押した。2、3秒の間があって、扉はきしんだ音を立て、僕が体重をかけ続けていく限り、確実に開いていった。いつでもそうだ、この扉はひどく重たい。  「こんにちは」  ねずみ色の金属製の業務机に両手を置き、回転椅子に座ってじっと動かない男は言った。  きょう保管室にいたのは、Aのやつだ。いつもはしないことだけれど――僕は思い切り扉を閉めてやった。でも扉はあまりに重たく、蟻の歩みよりもずっとゆっくりとしか閉まらなかった。何の音も立てず、部屋は閉鎖空間に変わった。  開口いちばん、僕はまくし立てた。僕はワイルド・ターキーを煽ってきた。アルコールを身体に入れてこの部屋に足を踏み入れたのは初めてのことだった――つまり僕の記憶が確かな限りでは。  「僕は物心ついた時から、毎日欠かさず、決して欠かさず日記を付けています。これは確かなことです。信用して貰うつもりはないですが、僕はあなたたちを信用していないから。僕は丸々2日書けて、その日記を読み返しました。僕の時間認識は一貫しているんです。 だけど……あなたがたに関する記述はどこにも書かれていなかった。信用して貰うつもりはないですが、僕の記憶は確かです。毎日、毎日、寝る前には必ず日記を付けるのです。それが僕の信条であり、習慣だからです。  僕の日記には、この面談が始まったいきさつも、いつ始まったのかも、なぜ始まったのかも、書かれていなかった! そんなことがあり得ると思うか? ……失礼しました。決して感情的に話したいわけではないのです。  最も強調したい点を伝えます。    必要書類とは、一体何なんだ?  そして、あなたがたにそれを渡して、あなたがたが僕に返却すべきものとは? 一体何なんだ?  はっきりさせてくれ。テコでも動くつもりはないよ。僕の質問に答えるまではね、いつでも、いつでもはぐらかしてきたじゃないか。これ以上僕には耐えられそうにない。  あんたたちの秘密主義にはね」  「秘密主義」Aは冷笑的に僕の言葉を繰り返した。「私たちがあなたに隠していることなんて1つもありません。そもそも、こんな風に……酷く飲んだようですが、酒の匂いをぷんぷんさせて面談に訪れたのだって決して初めてのことではありません。その度、いつも私たちはあなたの義務と、権利を説明しています。書面では渡してはいませんが……それは取り決めなんです。何度も説明したんですが」  「義務?」僕は叫んでいた。「権利?」  乾いた室内に響き渡った僕の声は、埃っぽく、乾き切っていた。僕は耳鳴りを催した。低く、鈍く、重たい、不吉なモーター音のような。  誰かが入室した。僕はそいつの顔を見やった。たぶん、Bだ。いや、こいつはBだ。僕には確かに見分けがついた。 「何か問題でも?」僕に話しかけていたのか、それともAに話しかけていたのか、僕には分からなかった。Bの視線は虚空へと溶けていたか、吸い込まれていた。「ずいぶんと大きな声が聞こえましたが……」  「あとは任せてもいいでしょうか」Aは新たな入室者に尋ねた。「ええ、われわれ2人が同時にこの部屋にいるというのは……あまり褒められたことではありませんからね」Bは言った、Aは影のように消え去った。何の気配も残さずに。 3度深呼吸をしてから、僕はBに話しかけた。気づけば涙が流れていた。何の涙かはわからない。僕はたしかに飲み過ぎていた。56%のアルコールのために、化学反応による、激情の渦に呑まれていた。たしかにその通りだった。  「あんたらは、何の書類を求めているんだ? そして、何を返そうとしているんだ?」情けなかった。僕は泣きたくなんてなかった。  Bは言った。今度は僕の目を見据えて。タールのように淀んだ瞳が僕を見据えていた。瞳の奥に、激情の灯火が宿っている―――僕と同じ種類の激情の灯火―――ことを見い出した。このように、ある特別な一定の環境と情況下では、今まで何の共感も感じ得なかった人間同士でさえも、感情は伝播しうるのだ。  「あなたは、私たちに対して、大きな、とても大きな借りを作った。どうにもこうにも、あなたはいつでもそれを忘れてしまうようだが。ええ、思い出せるまで待ちますよ。日記がどうとか、習慣がどうとか、そんな話を今日もしたんでしょう……ウィスキーの匂いがする。酔っ払ってここにくる時は、いつもそうだよな。  その借りというのは、あんたが思い出さない限り、返却ができないものなんだよ。なあ、わかるか? いや、わからないだろうな。  書類……それは便宜的な言い方さ。あんたが馬鹿だからな。肝心なことは全部忘れちまう都合のいい脳の作りのクソ馬鹿だからな。わかりやすく伝えているのさ。さあ、早く、思い出せ。  さもなくば……お前のものは返せないよ。お前のいちばん大切なもの。それすら忘れちまってる。まったく救いようがないが、俺の知ったことじゃあない。まあ、そういう決まりなんだ。あんたが思い出さない限り、あんたが貸しを返さない限り、それを返却することはできない」  「教えてくれないか? 僕はどんな貸しを作った? 僕は何を奪われたんだ?」  あんたがそれを思い出さない限り、それは伝えられない。何度も言うが、そういう決まりなんだ。悪いな、とは思うさ。でもこれが俺たちの仕事なんだ……さて、1つ個人的なアドバイスをしようか。これを聞いたことは、他の2人には言うな。  Bの沈黙。僕は唾を飲み、深く頷いた。  聞け、よく聞けよ……日記なんて燃やしてしまえ。そんなものはクソだ。あんたがそこに何を書いたか、俺は知っているよ。そのことについても、きちんと把握しておかなければいけないというのがわれわれの決まりなんだ。あんたのこと、全部知ってるんだよ。  で、お前を縛り付けているものはその日記だ。  そろそろノートが18冊になるところだよな。知ってるんだよ、ちゃんとな。 そいつら全部、灰にしちまうんだ。忘れないうちに、一刻も早く。  ほら、見てみな、ここにあるぞ。デスクの中だ。開けてみろ。ほらな、あっただろう。これを全部捨てちまえ。どんな方法でもいい、全部消し去るんだ。完全にこの世から抹消するんだ。  その時、全部、思い出すだろう。あんたが俺たちに返すべきものと、俺たちにあんたが奪われているものがな。ま、俺に言えることはそれだけだ。  なあ、いいか、いいか、今度という今度は、かならず、忘れるなよ。次にあんたが同じことを繰り返すようなら、俺はあんたをぶち殺しちまうかもしれない。  Bはそれだけ言い切ると背を向け、部屋から立ち去った。重たい扉を引く際に、振り返り、僕の目を見た。重たく淀んだタールのような瞳は、みるみるうちに、AやCとそっくりの、ハリボテのような瞳に変わっていった。湯船の栓を抜いたように、重たい色味は、失せていった。   ☆  手記はここで途絶している。  僕はたったひとりで、重たい扉のその先の保管室に取り残された。どうやら、そうらしい。  で、とにかくそこから先の記憶は無い。この手記に関する記憶も、僕は保持していない。いま、僕の手元に、18冊の日記はない、1冊たりとも存在していない。  ともあれ、このようにしてやつらから取り戻したものを、いまの僕は明確に認識している。そして、代償として、この手記の時期についての記憶を失った。 結局、それだけのことだった。  

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