破滅の町 第一部
第六章 喜びの気色(けしき) 3.暗闇のかたち

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 彼らは十ほど年齢が違いました。ハルロスは、聞けばそれまで女性とは付き合ったことがないと言いました。彼には趣味がありました。他国の言語を解するということ、それぞれの文化に触れるということ…彼だけが、どうやらこの国ではそうした趣向を持っていたらしく、誰も理解者がいなかったと彼はこぼしました。ハルロスは、いずれ自分一人だけで他国に渡り、各々の文化を見て聞いて、感じたいと訴えました。国は滅びてしまったのだから、死者たちを慰めるべく弔う他に、こうしたことを夢見ているのだと言いました。イラはうっとりとその話を聞きました。ああ、海の外など彼女は考えたことがありません!彼女の一生はこの街で潰えると思い込んでいましたから!膨大な未来が途端に開け、目の前にはいくつもの可能性が広がっているかもしれないと、彼女はハルロスの話を聞いて思いました。私にも、私にもそんな夢が見られるのだろうか…?この人と一緒に、この街をあとにして。例えば私の好きな歌を、歌いながら気ままに過ごすことが、できるのだろうか…?  望みは半分だけ叶えられました。彼らはある秘密の入り江に小舟を見つけたのです。他の舟は、生き延びた人々にすべて取り壊されていました。何より木材が大量に必要でしたし、海の外へ出て行くことも、外から入ってくることも、同時に拒まれたからです。彼らは海岸にたくさんの暗礁をこしらえました。何人も界隈に近づけまいと、臆病に、いくつもの方策を講じたのです。ですから運良く出来合いの舟を見つけることのできた二人は、飛び上がるほど喜びました。けれどもそれは見るからに一人用の小さな舟でした。  ハルロスは死者たちの弔いに一つの区切りを設けました。始めの頃こそすべての人間を火葬しようと死体と木材を集め回っていたのが、どちらも無理があるとわかって、戦場における戦死者に向けた祈りと祭儀をだけ行うように務めていたのですが、それを六十日間続けると決めたのです。彼は、その祈りと祭儀を手伝った経験がありました。旗を立て、それを魂蔵たまくらと見立て、霊魂をそれにつどわせ、生き残った者たちと死者たちの霊が共に酒を酌み交わすといったものです。その旗の下には死者たちの装飾品が集められました。彼らの身につけていたものが彼らの魂を呼ぶと考え、イラに見せたあの時計も、そのうちの一つでした。  日が経ち、彼はイラに外海へいよいよ向かう旨を伝えました。イラは、胸を押しつぶされるほどの不安に苛まれつつも、彼を外へ送り出しました。彼は、意気揚々と海へ乗り出していきました…。  ハルロスには気になることがありました。彼の母国の滅亡が、今、どのように伝わっているだろうかということです。事に依れば、彼のふるさとは、すぐにも攻められて滅ぼされてしまうかもしれません。亡国には、まだ、貴重な黄金が数多く眠っていたのですから。しかしハルロスは訪れた国々で、そう大して彼の母国が噂にも上っていないことを確認しました。彼らが支配下に置いた町は、逗留者がちゃんと政治と治安を行っており、何不自由なく故郷からの連絡もないことを不思議にも思いませんでした。(外国では彼らはきちんとした統治を行っていました。それは各国に押しつける政治上のルールも流儀もないからで、支配権だけがあったからです。)まもなく、彼らは後ろ盾が存在していないことに気づき、慌てふためいてその場から逃げ出すかもしれません。ハルロスは、各地に散らばる亡国の戦士たちをどうすることもできないと諦めました。彼らが一念発起してふるさとへと戻ろうとも、それを拒むことはできません。そして、彼らがふるさとへの戻り方を誰かに教えたとしても…生き延びた人々の努力が灰燼に帰すともわからない事態になったとしても…仕方のないことでした。彼らは、故郷を守る力を失ったのです。  各国の言葉を操る彼は、自由な旅を気のままに堪能しました。ここに、イラがいればどれだけ喜ぶだろうかと彼は思いました。今度行く時は、きっと彼女を連れて行こう。そのまま二人は、海外で生活してもいいかもしれない…時折街に戻り、供養を続けるのだとしても。彼は、その未来が見えるようでした。彼の故郷は滅びるも、彼らの行く手は、きっと明るいものであると信じられました。  彼は戻り、外国で見聞きしたことをイラに教えてあげました。イラは、彼の話を何でも目を輝かせて聴きました。時々頷き、興味ある話題に疑問を差し挟みながら、きらきらと陽光にきらめく泉のごとく輝く未来を、思うままに望める気分に満たされました。  二人は固い誓いを交しました。いつか、二人でこの場所を出て行こう。そうして新しい命を育むのだと。人々のこしらえた暗礁は彼の舟を沈没させるに至りませんでした。ハルロスは慎重に舳先を進めて、唯一無二の航路を発見していたのです。  その頃、彼は海外で買った黒表紙の日記帳に、自分のこれまでの来し方を書きつづっていました。内容は、失われた故国への思慕に溢れていました。誰もがそれを読めば、筆者の亡国への愛情の深さに気づかされることでしょう。彼にとって、亡き祖国は、忌まわしい記憶のみを語る暗黒の経験ではなくなっていました。隣にはイラがいます。彼が愛する、彼が愛される、相手です。彼は、いつかふるさとの辿った破滅の物語を吟遊詩人の歌にしてみたいと望むようになりました。各国を経巡って、出会った芸術の数々が、美が、あらゆる思い出を慰めてくれるものだと教えてくれたのです。  隣にイラがいればきっと叶えられる望みだと思われました。彼女は、歌をもって彼の沈痛な物思いも吹き飛ばしてくれたのですから。…  ところが――  人間とはあさましい生き物です。どうして、誰かが自分より優れていると思うと、それを欲しがったり、憧れたり、奪おうとしたりするのでしょう。彼に向けられた人間の意識は、ともに激烈でした。イラは、誤って彼の存在を皆に報告してしまいました。それはしてはならないことでした。しかし、彼女は今こそハルロスのやっていることの意味を、彼らに教えて、自分たちが海の外へ出て行った後も、その志を引き継いでもらいたいと思ったのです。  人々はただちにハルロスを探し出しました。彼は、すっかり身体も腐れ落ち、鼠たちのなすがままとなった大量の遺骸のそばに静かに寝ていました。人々は彼を起こして、なぜ死者の葬儀など勝手なことをするのか、海外に出るなどどうして我々の身を危険に晒すような真似をするのか、と尋ねました。彼は、彼らにそう言われるだろうことは予想していましたが、歯がゆさと、いたたまれなさを感じました。人々は、彼を罵り、責め、次第に言葉だけでなく行為に及び、彼を捕らえ、晒し、槍の矛先で突付いたり飯を取らせぬようにしたりしました。彼らは非常に悪魔のように混濁した気持ちになっていました。  磔にされたハルロスは、これも運命だと、笑いました。彼は笑うことができました。あの暗闇から逃げおおせた人々が見せたあの時の笑いとは違う、いかにもさだめを受け入れた微笑みでした。彼の見たものと、人々の見たものとは違いました。彼は、人々が見たものの只中にはいなかったのです。そこにおいてのみ感じられる非常な苦しみと迸る死と生命の慟哭を、かわして、ここにいたのです。人々と彼は違いました。集合は暗澹たる苦痛を味わったために、それに囚われていたのです。  しかし、何事も当然のように自然に行われるものです。彼の火葬は許されませんでした。人々は彼を地上へ連れ出し、木の幹にくくりつけ、歌を歌い、灯火を照らし、月光の下で、一刀両断の下、彼を退治しました。その時、何かが彼らの間を閃きました。運命が定まったのです。イラは、充血した目を見開き、恋人の死に様をそこに焼きつかせ、人々を強く強く恨みました。  その恨みに導かれて、彼女は一人の子供を生みました。彼女は、その子供に教育を施してやりました。彼女自身が作った、それはきっとハルロスが目指した非情な美の歌を、彼女は我が子に教え込んだのでした…。  彼女の恨みの念の強さは、子々孫々、代々に受け継がれました。カルロス=テオルドは、地下から持ち出した彼の先祖の書いた書物を、真面目な眼で見通しました。彼は、忍びやかな冷気が足元から立ち昇ってくるのを感じました。少年は今こそ自分自身の来し方を理解したのです。彼の性質は、代々の母親たちよりハルロスの妻イラにずっと近いものが具わっていました。  それはハルロスとは違いました。愛情の影に潜む反対の感情を、克服の対岸にあるともし火のような執着を、そして、強烈な思慕の裏側にある歪んだ怨恨を、この時少年は自分のものとして理解しました。彼は…日記の最後に、イラによって書き込まれた否定の言葉を目にしました。彼は、その最後の章を破りました。そこにはこう書いてありました。  彼の情熱は反古にされた。私の命も反古にされた。二人の明日は断ち切られた。ああ、雄大なる精神と壮大な愛は、一刀の下に、壊された。私は生きる。私の霊魂が、未来の私へ。この思いを忘れぬように、いくつもの歌をつくろう。いくつもの物語をつくろう。私の体が産む者へと、その体がまた産む者へと、あやまたず伝えられるように。きっと人々は否定される。私たちの明日を拒んだ彼らは、未来、きっとこの恨みを受けるであろう。彼らの明日が、反古にされるように。  …大波が、少年の心に襲い掛かりました。それは、土蔵から出てきた無数の人間の死骸に呑まれた以上に、彼の心を、素晴らしい明日へといざなう役目を果たしました。彼は生きる意味を手に入れました。まるで、三百年前生きた彼の先祖のイラと、同質の魂を手に入れたようでした。  こうして彼の暗闇はかたちを持ちました。それまでは、その恐怖から自らを守るために、暗がりと同化するような振舞いをしていたのが、闇そのものを手に持つことができるようになったのです。彼は知りました。自分自身のなすべきことを。この町を…潰さなくてはならないだろう。

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