破滅の町 第一部
第一章 白き町と破滅した街 1.ルイーズ・イアリオ

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 海の向こうから、大きな獣がやってきました。その獣は、海を飲み込み、川を飲み込み、全世界のありとあらゆる所の水を飲み込むと、違ったものを吐き出したといいます。再びの海の他に、川の他に、山、大陸、岩、石ころ、植物、動物、人間、さまざまなものを、その口から外に出しました。世界は昔とは違う形になりました。  ところが、それでその獣は死んだわけではありませんでした。世界と同じように、形を変えていたのです。身体はばらばらにされましたが、その一つ一つの断片がなお生きています。例えば、星になったもの、歌になったもの、神様になったもの、そして人間を食べる悪霊になったものなどが…。  ルイーズ=イアリオは、二十二歳のうら若い独身の女性でした。彼女は今歴史の授業で子供たちに様々な国の興亡史を教えているところでした。子供たちは皆真剣に耳を傾けています。イアリオの凛とした声は透きとおり、小さなま四角にくり抜かれた石塀の窓の外にも涼やかに響いていました。 「皆が知っているように、この世界にはたくさんの国が存在して、歴史上、それ以上の数の国が滅びています。盛者は必ず衰えるもので、一度もまったく同じ場所に最初から続いた国はないわ。これは、仕方のないことね。  でね、もしこの町もそれと同じで、一つの国と見立てるなら、やっぱり、悲しいかな、いずれは滅びるわ。けれど、なくなる運命の王国はその後夢ある人たちによって立て直されることもあるのよ。国とは人々の胸の中にあるものです。失われてしまった国も、現在こうしてある国も、人々の心の中に思い描かれていないのならばないのと同じで、そうしているならば地上から消えてしまってもあるといえるかもしれない。なぜなら、無数の国が、今でも発見されずにいるかもしれないし、それ以上のたくさんの国が、誰かに知られぬまに滅亡しているかもしれないから。」  イアリオは子供たちの面々をぐるっと見渡してみました。今の説明はどうも難しかったらしく、眉をしかめる生徒が大勢でした。これではいけない、と彼女は手を打ち、もう一度最初から話す構えを取りました。すると、一人の生徒が手を挙げて彼女に質問をしました。 「今の、不思議な言い方で、よくわかりませんでした。でも、この町はいつかなくなるかもしれないってことなの?」 「いつかはわからない。でもいつかはなくなるわ」 「それってさあ、先生の言い方だと、なくなってもあるってことにならない?それって滅びてるの?それとも生きてるの?」 「先生の言い方が難しかったわ。たとえ滅びても、歴史学者がかの国を書きとめていれば、その国はずっと人々の心の中に残るでしょう?そうした意味で、あると言ったの。でね、もし誰にも知られずに滅びてしまった国があるとしたら、その国にいた人々にとってはあったかもしれないけれど、記憶から抜けてしまったら、もうないのと同じになってしまう。そうした意味のことを言ったの。」  わかった?と、イアリオは教室中の顔を窺いました。みな得心がいったような、神妙な顔つきをしていました。 「変な話になるけれど、私、小さい頃友達と王国を造ったことがあるわ。十五人しかいない、小さな小さな国だけれどね。もし私や、友達がいなくなったらあっというまになくなってしまうね。こんな例もあるわ。」 「先生~、おかしなこと言わないで。またこんがらかっちゃうよ」  イアリオは「ふふっ」と笑い、ごめんねと言って普通の授業に戻っていきました。  ルイーズ=イアリオは、目もとの涼しげな豊満な体の女性でした。くだけたしゃべり方が子供たちに人気で、彼女の授業はいつも人でいっぱいでした。くるくるほつれた長い髪を後ろに縛り、鬢に小さな輪を留めていました。これはこの町の一般的な女性の髪型で、結婚式や特別な儀式のときだけ、髪の結いを解くのです。また、彼女の服装は上半身にチョッキ丈のぶかぶかの藍染め綿を羽織り、下半身は膝元まで伸びるゆったりとしたスカートでした。チョッキの下は長い袖の襦袢を着ていて、スカートの腰周りを締める紐に一緒に挟みこまれていました。これは男女共通の服装で、この町に二股に分かれたズボンや外套の風習はありません。またアクセサリーの類は、何らかの式の他に身につけてはならないとされていました。ですからおしゃれといえば、髪留めの色や、チョッキの脇と首周りに長細く付けられる折り返しのあしらいくらいでした。  イアリオの場合、おしゃれにはとんと無頓着で、いつも飾り気のない黒い髪留めと棒線が二本ずつの折り返ししか着ることはありませんでした。その体つきであるのに、色気はほとんど表に出ず、彼女に女として関心を寄せる男性はあまりいません。ですから今も、彼女は独り身で、独身なりの自由さを謳歌していました。  イアリオは丸木柱つきの扉の掛け金をはずし、内側に開きました。すると同時に、授業終了のチャイムが廊下に響きました。子供たちは一斉に鞄を持ち、雪崩を打つようにして外へ出ていきました。鞄の中身は小さな粘土盤で、この上に彼らは文字を刻み込み、ノートの代わりにしているのです。他の教室からも小さな人々が飛び出してきました。皆この休み時間の合間に家へ帰り、昼食を食べてくるのです。イアリオの授業は午前中で終わりでした。彼女はこれから自宅へ戻り、食事を済ませてから、午後は用事がありました。  その用事というものは、彼女の気分を落ち込ませるところがありました。彼女は憂鬱な面持ちで外へ出ました。教室の廊下はむき出しの地面でした。そこは、建物の中ではなく、狭い住宅の小路で、学校はこの道路に面した長屋を借りていたのでした。イアリオは裸足を進ませ(町には「履き物を履く」という慣習もなかった。)、影になりひんやりとした地面の土を踏みしめました。見上げるとこの壁は人の身長の二倍は高く、真っ白く塗られて少しだけ湿った匂いがしました。もの言わぬ塀々が見下ろす中を、彼女は空気を掻き分けるかのように、ゆっくりと歩き出しました。  やがて、角を出ると、強い陽射しがさんさんと照りつける廊下の外に出ました。イアリオはそれまで胸の中を覆っていたすぐれぬ気持ちを払うべく、新鮮な空気をいっぱいに吸い込みました。陽光に温められた適度な温度が、彼女ののどに滑りこみ、体を温めました。彼女の藍染めの上着は少し特殊な形状をしていて、袖が上腕の半ばあたりまで伸びて、脇の下はゆったりと広く、なだらかに波を打っていました。このチョッキ様の上着はここでは「セジル」と呼ばれていました。普通は肩口から裾へまっすぐ立ち切られたような四角い形をしているのですが、最近はやりだしたものは、このように裾をだぶつかせてあしらうこの町としてはなかなか前衛的なデザインでした。その藍色の染め物に日の光が当たり、まぶしい陽光が潤すこの町の白壁のそそり立つ真珠のごとき街並みの一帯と調和して光りました。イアリオは、坂を下りていって、自分の家に帰り着きました。  彼女の家は、坂道の中ごろの井戸の近くにありました。井戸といっても地中深くから清水をくみとるものではなく、小さな丘様の街並みの上部から、上水道を通して流した水を貯めおくプールでした。それは石と木とでできており、くみとりの桶から各人の持ち寄るたらいへと移しかえるのは、井戸と同じでした。そこは寄り合いの場にもなっており、昼食時の今は人もまばらで閑散としていました。イアリオは井戸に向けた玄関を抜けて、台所に入りました。そこには丁度準備を始めた彼女の母親がいました。「おかえりなさい」イアリオはにっこりとうなずき、自分の荷物を部屋に置くと、母親の隣に立ち料理を始めました。 「一緒に作ってしまってもいいのに」  母はそう言い差しましたが、彼女は首を振りました。自分のことは自分で、というのが、十八で成人した彼女のモットーだったからです。たらいには今日取れたての新鮮な魚が入っていました。彼女はそれを取り上げ、三枚にひらき、ぶつ切りにして一部を塩漬けにしました。そして残りを下ごしらえして、野菜と一緒に、鍋に入れました。ぐつぐつと煮えるスープを見つめて、彼女は考えごとをしました。隣にいる母がそれを見たとき、まるで恋愛ごとに真剣に悩む表情に見えたのですが、娘の性格を第一に知る人物は、その予想がけっして当たっていないのもわかっていました。他の物音は一切聞こえないふうの娘を放っておき、母親はできたての料理を奥の間に運びました。  イアリオは鍋からふっと目を上げ、窓から遠くを見つめました。外は蒼白い空が広がって、快活に鳥たちが鳴いています。彼女は目を細め、目の前の壁に向かって、ぶつぶつとひとりごちました。これから臨む仕事に、ためらいの念が強いせいでした。  それは地下に行く仕事でした。地下、といっても、どこかの豪邸の床下を調べるといったものではなく、町全体の地面の下に潜ることでした。この町には、古い事件が隠されていました。およそ三百年前に滅びた国が、この下に丸々隠蔽されているのです。そこはとても広大な都市で、どんよりと暗く、灯の頼りがなければ歩くこともできない閉ざされた街でした。彼女はそこに臨むのです。気が滅入らない人間がいないのがおかしいというものです。しかし、彼女はその地下都市に何度も入ったことがありました。先ほど授業でも登場した、十五人ぽっちの小王国は、そこで成立したのです。  彼女ははっとして、目を覚ました人間のようにぼんやりと中空の一点を見つめました。これから出掛けようとするその場所は、かつて、彼女とその仲間たちが事件に巻き込まれた、忌まわしい空間でした。そのせいで、一人の少年は行方不明になり、もう一人は本当に滅びてしまったのです。そんな記憶のある場所に人は絶対に行きたくないものですが、折りも折り、現在進行中の問題は深刻でした。  彼女が今日向かう以前に、探索チームがすでに地下都市の調査を行っていました。定期的にここには調査隊が送り込まれるのですが、そこで二つの問題が生じました。一つは、外部からの侵入者が街に潜り込んでいる可能性を発見したことと、もう一つは、子供たちがその暗空間を遊び場にしていることです。イアリオが呼ばれたのは、昔子供の時分に地下を遊び場にしたからでした。どうすれば追い払うことができるか、そのアドバイザーの力を彼女は求められたのです。彼女はむっつりとした表情でその依頼を聞いていました。彼らは世間を騒がせた過去の事件の首謀者の一人に、このような罪滅ぼしを希求したのです。  イアリオは食事を済ませると、早速出掛ける支度にとりかかりました。憂鬱な気持ちを振り払うべく、彼女は地下の入り口に向かう前に、ある家の前に向かいました。そこは、いろいろな家屋をひと連ねにした大邸宅で、白い塗壁はさんさんと降る太陽の明かりをまぶしく照り返していました。イアリオはこの邸宅の前に立ち、祈るような心地で、一番高いところの飾り鳥を見上げました。この家の住人の一人が、あの時、行方不明になったのです。「ピロット…!」彼女は彫像に向かって囁きかけました。それは、初めて彼女が好きになった少年のいまだ愛しい上の名前でした。  ここで、およそ二つの事柄について説明を加えねばなりません。三百年前滅んだ国家についてと、イアリオが遭遇した事件についてです。その街はかつて黄金都市と呼ばれ、昔の有力な海賊たちが宝物を集めここに溜め込んだのです。街は、海に面していました。地下都市はその人工的な外壁を取り去れば豊かな港都市のよそおいを日の下にさらすのです。街は、難攻不落の要塞でした。海の外には暗礁がいくつもあり、陸は二方を険しい山脈が切り立ち、西側には深い溝が旅人の足を止めていたからです。この場所を拠点に、海賊たちは栄華を謳歌しました。あまたの金銀財宝が、彼らの手に渡って運び込まれました。海賊たちは、小国家の体裁を内面的に取っていました。彼らは地方の国の国王をわざわざ連れ込み、形だけの冠としたのです。こうしなければならなかったのは、頭に何か戴かなければまとまりがつかなくなるからでした。何せ裏切りと下克上が横行する世界なのです。海賊同士がまとまりをもって活動をするのは至難のわざといえました。しかし形式のみの王国の一員となった暴れん坊の彼らは、いかなる海洋国家も脅かすほどの絶大な力を手に入れました。そうしたわけで、世界中の富を奪うほどになった強大な国家は、次第に己の港湾都市を改築し、より住み易くじめじめした穴蔵の巨大石窟街を切り開いていったのでした。ここで、ちょっと考えてみると、海の上の陽射しや風を好む彼らがまるで土の中の街を好むのはおかしいことと思われるかもしれません。ですが、彼らは形として残る明確な富の象徴を欲したのです。それは何よりも人工建造物でなければならず、一見窮屈げにうかがえるこの穴蔵都市は、彼らの希望で、実際の力の形骸化だったのです。海賊たちは大いに満足し、またこのいびつな港湾都市を広げるために、世界中で略奪横行を繰り返しました。  その国に起きた、滅びにつながる下克上は、雇われ兵士たちによるものでした。海賊は四方で傭兵を募り、これをうまく引き立てて軍事力を増大していましたが、その時は今や彼らより人数の規模が逆転していました。とりたてて雇われていた戦士たちは、この大陸の西側に属する勇猛果敢な部族でした。彼らが力を持ち、海賊どもに叛旗を翻したのです。翼はたちまち嵐を起こし、それまで支配されていた何もかもを打ち壊し、人々は自由を手に入れました。翼は静まり、辺りを見回してみますと、すっかり片付いた地面の上には、黄金の他に、卑しき賊はもうおりませんでした。海賊国家は戦士たちの統べる国に生まれ変わったかにみえました。ところが、こうしたことで大変な事態が引き起こされようとは、当事者たちは考えもしませんでした。  詳しく述べることはここでは避けましょう。かいつまんで述べれば、黄金の統治者がいなくなったために、人々の欲望が、むき出しの状態にさらけ出されたということです。戦士たちは、この国を軍事大国にするべく軍備の増強に力を注ぎました。勿論、そうしたために軍隊は連戦連勝、向かうところ敵なしの状態でした。かの国はこれにより海賊たちの統治にあっていた頃よりずっと名を上げました。戦士たちは、いずれ自分たちが世界中を席巻しやがては方々の国をも支配下におく、強大な大国を目指さんとしておりました。しかし、外征よろしく内政はどうだったかというと、これはもう惨憺たるものになってしまいました。政治を司る人間も国外に追放してしまったために、そうした事態に陥ったのでした。ところで、海賊のしこたま貯めておいた財宝は軍部の持ち物となり主に軍事費へ用いられていましたが、人々の暮らしへは還元されませんでした。民衆は次第に暴力を発揮していきました。クーデターを起こしたのは兵士たちでありましたが、平民や奴隷にもそれなりの不服と申し立てとがあったのです。戦士だけの金となり、自分たちに何もおこぼれがないものとわかると、民衆はこの黄金を欲するようになりました。ついに、大災害は発生します。国家規模の自滅の戦争が押し始まったのです。隠れ家のような土と岩とでできた壁に囲まれた閉鎖空間に、怒号が響き渡り、各人が、手に手に武器を持ち、黄金を求めて、むき出しの欲望を吐き出したのでした。ああ、その無残たる無慈悲な戦いは、とてもその全てをここに書き記すことはできません。思いつくだけの、残酷非道と、悦楽と、狂態とが入り乱れ、それはまるで世界が沈むようにも思われるほどだったのです。戦いの火がおさまり、恐る恐る逃げおおせた人々が暗がりを覗き見ると、予想される以上の累々した屍が、彼らの目の前を覆いつくしていました。その様子を見て、誰がいったい、二度とこのような事態を引き起こすべきではないと、全てを監督せねばならないと思わないでしょうか。いったい、人間の欲の尽きる終着点を、まざまざと、人々は眼前にさらけ出されたのです。これが、三百年前起きた、国の滅びのあらましでした。  人々はこの街を封鎖し、どこからも見られぬよう、慎重に外壁を築き、その上に彼らの住居をたてました。それが現在の白き町でした。さて、このような背景ある地下都市に、遊び場など設けている子供たちへの罰則は甚だならぬものにしなければならないでしょう。しかし、大人たちはこのお話を成人するまで彼らには聞かせませんでした。なぜなら、あまりに無残で、耐え難い先祖の失態の物語でしたから、町人として責任ある年齢に育つまで待たなければならなかったのです。ところが、このことを知らない子供たちにとっては恰好の隠れ家としか、この陰惨たる過去をもつ地下街は目に映らないのでした。そして、イアリオをはじめとした十年前の十五人の子供たちは、過去、この街で探索の遊戯をおもしろく行っていたのでした。そこで、彼らは…。

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