破滅の町 第一部
第五章 五弁花の壁の前で 2.影

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 その話には、勿論ですが大分ピロットの知らない事実が明かされました。彼は、テオルドがなぜ十五人の前でこの話をしなかったのか、訝しがりました。しかし、今となってはもう仕方がありません。  ピロットはどれほどの時間がすでに経ったかを気にしだしました。イアリオとの約束の時間は今や刻々と迫っていました。彼はテオルドの後ろでもじもじして、盛んに天井の薄暗い光を眺めました。二人の盗賊はすっかりテオルドの話に聞き入っていました。そして、海の外で彼らがつかんだ情報を、少年の前で広げてみせると、テオルドもまた彼らと同じようにその話に食いつきました。有意義な時間が三人の間に流れ、ひとしきりお互いに話し終えると、満足感だけが残っていました。 「約束だ。我々が盗んだ宝物の一部を、お前たちに返そう」  トアロはそう言って、テオルドに人差指を見せました。そこには指輪が嵌り、赤い色のしみが滲んでいました。 「勿論、これだけではない」彼女は続けて言いました。「ただこれは私のお気に入りだった。だからこうして指に嵌めているんだ。しかしこれは元々この場所にあったものだった。これを渡すことで、私がきちんと契約を果たす覚悟があることを、認めてもらいたい」  彼女はまるで一人前の男子を相手にしているような口調でした。アズダルはこれを奇妙なことにも思いましたが、この地が自分たちの最後の冒険の場になるやもしれないことを思い出し、彼女の行為に納得しました。 「そう?でも、折角ここまで来たんだから、何もかもその報酬に貰っていってもいいんじゃない?」  テオルドは思いも寄らぬことを言いました。トアロは、軽くアズダルの胸板を叩きました。「大した子供だ。もっと早く会っておくべきだったな」そう言って、今までアズダルも見たことがない、満面の笑顔になりました。 「私はこの都市を秘密にしておくよ。きっと約束する。それに、我々が一生楽に暮らせるくらいの宝物は十分に取っておいたんだ。冗談なく言えば、私はもう一度この街に来たいと思うが、その時は、お前の調べの進み具合も聞かせてもらってもいいだろうか?これはお願いだ。その時には、私も何かのプレゼントを用意しておこう。海外の物でも、情報でも、お前の好くものをなんとかしてな」  テオルドも笑顔で答えました。 「どうぞ。待っていますから。ああ、何か合図を決めておこうよ。そっちが来た時の連絡手段を、何か」  テオルドはその笑顔から急に能面のような顔になりました。のっぺりと無表情な顔色が、尖った額から砂漠のように広がりました。トアロとアズダルはそれに気がつきません。 「ありがとう。忘れないよ」  二人の盗賊はそれで立ち去りました。これで、めでたくピロットは盗賊との約束も、イアリオとの約束も果たしたことになりました。彼の意図した結果にはなりませんでしたが、ともかくもこれで万事解決したと彼は思うことができました。元のぶっきらぼうな顔つきに戻って、彼はこれからどうしたものかと考えました。イアリオに報告してから、またこの地下都市に皆と戻ってきたとしても、もうすっかりテオルドからこの滅びの都市のあらましは聞いてしまったので、いまいち刺激はないなと思ったのです。  テオルドはじっとピロットの後ろ姿を目に留めました。彼が一体何を考えているのか、探るように。彼らのことを、じっと、赤い花びらが見つめています。暗闇で、ありうべからざる命を披瀝した、女性の熟れた唇のような官能的な五弁花が。今、地上でテオルドの父親が、必死で息子の姿を探していることは、息子の胸に、まったく去来しませんでした。彼は、それどころではありませんでした。その心理はせわしく蠢き、彼は自分の意思でそれを行っていないようでした。 「僕は、これから街の中心部へ行くつもりさ」  お前はどうするの?と、彼は訊いてきました。 「やめろよ。お前、一度戻れ。このままだとイアリオの奴が大人たちに告げ口するから」 「へえ、なぜイアリオが?」 「俺と同じで、お前の行方不明を聞いたからさ。あいつはお前がこの町の下で野たれ死んでいるとか思っているからな。必死さ、あいつも。俺が代わりに探し出すと言ったんだ」  テオルドは黙ったままぐるぐると首を動かして、口元をへこむほど歪ませました。 「あれ、ピロットらしくないじゃないか。いつもの悪童っぷりはどこへいったの?」  ピロットはぎくりとして、まじまじと相手を見ました。彼は、どんな相手でも常にその目上に立つように頑張っていましたが、今、この相手とは対等の立場にいるかもしれないと気づいたのです。 「ふうん」テオルドは鼻息をつきました。「そんな理由で、僕が戻る必要があるの?お前が行って彼女に言えばいいんじゃない?」  それはそのとおりでした。彼もそのつもりでした。  しかし、彼らしい不羈の意志が、相手の言うとおりにすることをどこからか拒もうとしました。 「そうはいくか」ピロットは食ってかかりました。「お前が言いに行け」 「なんでさ。僕にはどうでもいいんだよ、そんなことは?」 「なんだって?」  ピロットは気づきませんでした。テオルドの台詞は、普段の彼なら、そう口にしたことでした。彼は、テオルドにだんだん腹が立ってきましたが、それは自分のような口調に憤ってきたということでした。 「このまま僕が、地下にいれば、そしてお前が戻らなければ、どうなるのかな?ああ、大人たちに、僕たちが今まで地下街を遊び場にしていたことは知られるか。」  テオルドは溜息をつきましたが、顔は残念そうではありませんでした。 「まあでも、大したことではないな」  その台詞も、まるで自分のようでした。彼は気づきませんでした。テオルドは、彼の影のようになっていたのです。  彼は気づきませんでした。目の前の少年が、彼のことを、今までじっと見てきたことを。この暗闇に入る前から。彼は、彼に憧れる多数の子供たちがいることを、知りませんでした。その膂力、物言い、不遜な姿勢が、人を遠ざけるどころか、他者を近づけもしていたのです。イアリオも、彼の弟分カムサロスも。  そして彼は気づきませんでした。いつのまにか、自分が他の誰かに相当近づいてしまったことを。彼以外の誰か。 「お前…テラ・ト・ガルを何にも思わないのか?」  彼は思わぬことを口走りました。しかし、彼はその違和感に気づきませんでした。 「なんだい、それは。お遊戯のグループかい?」  テオルドはにたりと笑いました。ピロットは憤慨する自分を感じました。この相手に好きなように心をかき乱されている彼自身が、だんだん許せなくなってきました。ゆらゆらと揺れる松明の光が、彼をくっきりと照らしています。 「そんなに怒るなよ!でも、違わないだろ?僕もお前も、十五人のメンバーに加わって、遊びを楽しんだんだからさ。そう、あれはお遊びだった。僕たちがまだこの地下の闇のことを何にも知らないから、自由に遊ぶことができたんだ。けれど、皆、知ったよね?あの時、骸骨の大群に襲われた時にさ。この場所がどんなところか、身をもってそれぞれが体験したはずだ!  いいかいピロット、僕は説明したね。この街のあらましを、恐るべき歴史を。僕は言ったね、僕らの先祖が引き起こした惨劇を。それはいったい、どんなものなのか。恐ろしくないか?だって僕たちは、彼らの血を引いているんだぜ?おおよそ想像のつかない欲望のやり取りが、破滅の時代が、高波のように襲いかかってきた人々の血を、だ。でもそれは、彼らが自分から引き起こしたものだった。彼らが自分から望んで引き起こしたことだった。だからこの街は封印されたんだよ、ピロット。臭いものに蓋をするために、自分たちがなしたことをごまかすためにさ。外にも、自分たちにも、その目に触れないようにすることが大事だった!なぜか?そんなこと簡単さ。自分たちのしたことだと思いたくないからね。そんな忌まわしい血液を引いているなんて考えたくないものだよ!  いいかいピロット、あの骸骨たちは、僕たちの御先祖たちだった。皆、死んで、あんなただの土蔵の中にひしめいて、誰からも供養されず、誰からも歓迎されず、いつまでもいつまでもこの暗闇の中に閉じ込められていた。彼らは僕たちを求めた。そうは思わないだろうか。生きている人間の血を、もう死んだ人間は、欲しいと思わないだろうか。僕たちは彼らに襲われた。彼らは、僕たちが自分たちの子孫だということを知っているだろうか?いいや、知ってはいない。だって彼らは死んでいるもの。ずっと前に、記憶をなくしているからね。脳みそは零れてただ穴の開いた頭に一体何が記憶できる?そうだよピロット、僕たちは襲われたんだ。そんな連中にね」  テオルドの話は、ゆっくり、ゆっくり、進められました。時間をかけて、ピロットは、次第にテオルドの棲む暗黒の扉を開いてゆきました。彼はそこへといざなわれたのです。人々への言い知れぬ復讐感と、怒りと、慟哭とが結び付く、テオルドだけしかいない暗い場所へ、彼の血だけが受け継いだ所へ、彼も引きずり込まれていったのです。  どうしてテオルドはこのようなことをしたのでしょう。彼は町の人々によって殺された者の子孫で、その妻も、人々を呪いながら死んでゆきました。彼は、言わば過去の亡霊だったのです。昔の滅びの記憶を持った。彼は仲間を欲したのでしょうか。いいえ、違います。彼の中に眠る血の冷たさは、あらゆるものを凍えつかそうとしていました。三百年前当時の亡くなった人間たちのすべての怨恨と怒号とを、理解したたった一つの魂が、彼をこの世に遣わせたのです。彼は、上下の顎で二つの町を咀嚼しました。噛み砕いて、いろいろと混ぜると、それは同じ色に染まりました。灰色の、動きのない、虚無、未来のない、閉じた、どろどろの色でした。  彼は、その血を相手に向けたのです。ただそれだけでした。いいえ、違います。現象としてはそれだけでも、ほかにも無数の原因があったことは、事実です。その事実のすべてを記述しようとすれば、大百科事典でも収まりきれないほどの量になる、歴史上のあらゆる実存がかかわっているということを、人間は、決して意識できませんが。彼と、ピロットは、かつて同じ部屋で彼の母親の語る物語を聞いていました。そこには、イアリオもいました。今、ピロットはその物語を、この少年から聞いていました。ぞくぞくと冷たい、石盤の向こうの閉じ込められた暗い地下道にある、失われた、無視された、忌み嫌われた人々の記憶を、辿ったのです。事実を追って。今度は、ストーリーのヴェールに隠されていない、ありのままの秘密を晒して。  それはハルロス=テオルドの妻イラの独善的な感情の色に支配されていたとはいえ、周りの人間の、今につながる町人たちの歪みきらった情感の響きももたらしました。その町に住む人々しか知らない、三百年間あやまたず伝えられ続けてきた、恐怖と欲望と不安の連鎖の逃れることのできないがんじがらめの実態です。  ピロットは、それをわかりました。彼の中を流れる血は、今や、テオルドのものとほぼ等しくなりました。彼は、町人を恨んだり嘲ったりしたことはありましたが、その感情は個人に向かい、それが町全体に及ぶことはありませんでした。しかし、あれから、骨たちのこいねがう渦にその体が巻き込まれてから、彼の中に刻まれてしまった亀裂ははっきりと、上の町に繰り広げられていました。彼は、自分たちがどんなに傾いた思想の故郷に住んでいたかを、テオルドの説明によって理解したのです。  彼のそばに、今イアリオはいませんでした。否、彼らのそばに、彼女はその時いませんでした。十二歳の少年たちが、自分たちの町の歩みを知ったら、彼らに相応の純粋な心と体がこのように揺れても不思議ではありません。この時、彼らは深く闇と契約をしたのです。…ピロットは、テオルドからこんな恐ろしい心理物語を聞かせられなかったならば、おそらく普通に町人として暮らしていたでしょう。ある意味、こぞって町に育てられた彼は自分の来し方をいやおうにもはっきりと理解したはずです。悪童・ピロットは、その牙は折らずとも、町に、彼なりの貢献をすることを望んだでしょう。事実は事実にすぎないのですから。それは今でなく、過去の出来事で、町の創設の主旨と歴史とを深く認知したとしても、いまさら恨んだり罵ったりするなど彼が選択するはずがありません。テオルドが、彼の心の闇を開きました。出来事は、解釈次第で善にも悪にも見えるものです。彼はピロットに事柄の悪の側面をのみ、伝えたのです。  テオルドはそれからも様々なことを話しましたが、とりわけピロットの耳に耳障りに残ったのは、この言葉でした。 「どうしてさあ、ピロットは、みんなを恨まないの?いつも、みんなをびびらせてさ、怖がらせて、自分の言いなりにさせて、満足しているのに。どうしてもっとすごいことしないの?僕はピロットを見ていて、もどかしく思うことがあるよ。お前みたいに、自由にさ、力を振るえたらとも思っていたよ。でも、それだけで満足?本当に?」  ピロットはかっと見開いた目で相手を見つめました。テオルドはにやにやとしています。 「悪童ったって、力はそんなものか?」  テオルドが挑発的な目で彼を見ながら、がっかりしてみせました。 「つまらないなあ」  ですが、この時――その血に流れる灰色のどろりとした衝動のみが彼を動かし、また図書から得た言葉でもって飾られたその文言で目の前のピロットを操ろうとしたにもかかわらず、彼にも不思議な、思いもしなかった感情が混じりました。生まれて初めて、心の中の真実を打ち明けた、という。彼は、それまで口にもしなかったことを、今、目の前で、同年代の少年に洗いざらい語り聞かせてしまったのです。あの事件以来、テオルドは体内の血筋のいいなりになって、実は彼なりにその闇を克服するべく、色々な努力をしていました。闇に染まるということは、その恐怖と同化して、それ以上闇に襲われないようにするための自己防衛の手段だったのです。それに、彼は今まで自分の血と向き合った事がありません。その機会をまさに事件をきっかけに得られただけで、従来のその性格が、かくも恐ろしく暗さに満ちていたのではなかったのです。しかしはっと彼は気づきました。ここに似つかわしくない、生命力を主張した異常な花の咲く壁の前で。  全部言ってしまった。告白をしてしまった。自分が、どんな思考の持ち主なのか、今、すべてをしゃべってしまった。  彼は事件を思い出しました。書物から推理し続けてきた事実の発見こそ隠し難い喜びをくれたものの、本当はどれほど怖かったか、あの骸骨に絡まれたときに。その死者たちの歴史、あらましをそれらに出会う前から本当は知っていたことに、それ自体に、実は彼は恐怖したのです。テオルドは目の中が熱くなりました。何かすれば、あっというまに涙が零れてくるのではないかと思いました。彼は父親をも想いました――やっと助けを求めたのです。普通の子供のように。  ですが、正面の子供が、彼に襲い掛かりました。 「もう一度言ってみろ」  恐ろしいほどの強烈な腕の力が、彼の喉元にかかりました。首を絞められ、頭を壁に押し当てられて、テオルドは死にも直面するくらいの衝撃を受けました。

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