イアリオは、ピロットの住む大邸宅の前で、朝方彼を待っていました。それは、森の中で、以前ふいにした名渡しの儀式を彼とするためでした。 どうしてそんな気になったのか、彼女にはわかりませんでした。彼は、半ば無理矢理に彼女に連れられていきました。ピロットの脳裏には確実に前の敗戦の苦い記憶がよぎったはずですが、それでも強いて拒まなかったのは、彼も彼女を好きだったからかもしれません。 イアリオは、あの泉の近くで、彼を投げ飛ばした所にほど近い場所で、彼の帯に、手を差し込みました。そして彼に、同じことをするように催促しました。彼女の目は濡れています。その意味を、ピロットもわからないではありませんでした。 真っ赤になりながら、少年は少女の帯に手を入れました。そして、二人は互いの下の名を呼び合いました。これで儀式は成立です。本来なら、下の名前はこうした儀式を行った者同士のほかに、親が子を呼ぶ時や、結婚した相手を呼ぶ時に用いられるものでした。彼女は言いました。 「私を、これからは人前じゃない時、正確に、ルイーズと呼んで」 「…ああ、嫌だ。なんでこんなことを」 ピロットは仏頂面になりながらも、彼女の言うことに従いました。そして彼は、イアリオに名を呼ばれました。「アステマ」彼は、目を上げて彼女と目を合わせました。 「呼んでよ」 「…ル、ルイーズ…」 彼女は薔薇のように喜びました。イアリオは学校に飛んでいき、始めの授業に間に合いました。ピロットは、そのまま辺りを逍遥しました。こんなことがあってからは、おとなしく授業などに出て、人前に顔を見せては、正常な気分でいられないと思ったからでした。彼は弱みを見せてはならない人間でしたから…たった今つくられた、彼の新しい弱点が、思わず外へと漏れてしまうのを嫌ったのでした。 イアリオは予感していたのでしょうか。これから起こる災いを。この日が、彼と顔を合わせた最後の日でした。 その夜、ピロットは寝床に訪問者を迎えました。藁ござを敷いた粗末なベッドの傍らに、テオルドが影の様に立っていました。 「おはよう、ピロット。目を覚ましてくれよ」 少年はびくりと起き上がり、この思いも寄らぬ相手を危険な目で見つめました。テオルドは、風に揺られるカーテンの裾のようにひらひらと音も立てず移動して、目の前に本を掲げました。 「これから、この本を地下に返しに行こうと思ってるんだ。お前も、ついてきてくれないか?」 ピロットは眉をしかめ、こう呟きました。 「何言ってるんだ、お前は。俺は寝る最中なんだ。放っとけよ」 彼は夢でも相手にしているように振舞いました。 「バカじゃねえの、あいつ、俺を何様だと思っていやがる。一度やり合ったからって、なれなれしくなりやがって」 「でもさあピロット、お前が来なければ話にならないんだよ。いいかい?お前だけなんだ。一人で、あの事件以来滅亡した都へやって来たのは。僕はお前が好きなんだ。一緒に行こうよ」 ピロットは鬱陶しく腕を振りました。その腕を、テオルドにがっちりと掴まれ、ありうべからざる力で、ひょいとベッドから下ろされてしまいました。何事か起きたかわからない彼は、茫然と、暗くて影しかわからないテオルドの輪郭を目で追いました。テオルドの影は部屋を出ていきました。 「こんなにもさ、大人たちが侵入者に執着するなんて、思ってもみなかった。これほどの大きな捜索が行われるなんてさ、どきどきするけど、勿体無いよね。だって、あの暗い所に大人数でどやどや行っちゃったら、雰囲気なんてぶち壊しじゃないか!そうだろ?びびりながら、おっかなびっくり、足音を忍ばせて行くことが正式な楽しみ方なんだよ。ちっともわかっていやしない」 テオルドの声の調子はまるで明るく、対照的にその表情はのっぺりとして、不気味でした。ピロットは彼の後についていきましたが、いつでもそこから離れられるはずでしたのに(彼は人に左右されるということが嫌いでしたから)、そうしなかったのはなぜでしょうか。しかし、彼は心の中で彼女を呼びました。(ルイーズ!)今朝、名前の交換をし合った少女の名前を、彼は思わず唱えました。 「お前には才能があるよ」 地下へと向かう入り口の近くで、テオルドは言いました。 「歌を歌う才能がある。相手を騙して、脅して、罠に嵌める。そうして一人、高笑いする歌さ。ああ、今更言うことじゃなかったなあ…」 …その頃、少女のイアリオはすでに眠っていました。幸せな吐息が白い枕を濡らしてそよがせました。夢の中で、彼女は草原を歩いていました。誰かとここに来たいと思いました。 誰かはテオルドとともに両側に煌々と灯り瞬く穴の前まで来ていました。そこは、大岩で塞いでいた地下都市への入り口でしたが、周りには、見張りの大人が何人かいます。穴の大きさは大人一人がやっと入れるくらいでした。 「ピロット、どうする?どうしたらいいと思う?」 テオルドが妖しく彼に訊きかけました。その声は興奮しているにもかかわらず、薄い光に当たった顔面は、何事も話さないのっぺらぼうでした。ピロットは冷えたものを感じましたが、ここまで来た以上、決して臆病な素振りを見せてはなりません。相手の前で、彼は挑戦しなければなりません。二人は足元の暗がりに注目しました。かがり火は成人の頭の位置でした。もしかしたら、身を屈めて向こうの股下をくぐるようにしていけば、気づかれずに突破できるかも、と彼は言いました。 万が一にもうまくいくことがあるものです。番人の交代をしに数人が彼らに近づいたところを、ピロットとテオルドは駆け出し、うまく交代の人間の背中に隠れ、そのまま一気に穴を目指して滑り込みました。誰も「あっ」とも叫ばず、背後から追いかけられることもなく、二人はうまうまと侵入を果たしました。 「やっぱりピロット、お前と来てよかったよ」 二人は真っ直ぐに地下中央の貴族街へと向かいました。目的はテオルドが持ち出したハルロスの日記帳を、元の場所に返すことでした。しかし、テオルドもなぜそんなことをしようと思ったのでしょうか。彼の先祖のものなら、彼が持っていてもいいはずでしたのに。 彼らはそこへ到着する前に、非常に運悪く、件の盗賊どもと出会ってしまいました。 「いいところに来たな」 盗賊どもは風のように二人を攫い、音も無く付近の建物の隙間にするりと入り込みました。少年たちは口にくつわをはめ込まれ、鳶色の目に刺すように見つめられました。 「一体どっちが我々を罠に嵌めたんだろうね」 しかし、二人には怯えた色も慌てる素振りもありませんでした。「おかしいね」トアロはそれで犯人を見つけることができると思い込んでいましたので、いらいらとしました。アズダルに、周囲を見張れと言って、彼女はぼそぼそ声で話し掛けました。 「お前たちは頷くんだ。それとも首を横に振るかしろ。イエスかノーで、答えるんだ。我々は、神殿のある場所から出入りできる洞窟からしかやって来てはいないんだ。その他に、外へと抜ける道はあるか?」 少年たちは首を横に振りました。 「我々のことを話したのはお前か?」 トアロはピロットに顔を近づけて言いました。ピロットは頷きませんでした。テオルドも同じ反応をしましたが、その目は、にやにやしています。トアロはぎくりとその目から遠ざかりましたが、嘘はついていないなと思いました。 「じゃあ、お前たちには気の毒だが、お前たちの身柄と引き換えに、我々の逃げ道を作り出すことにする。逃げられないよう、手も縛らせてもらおう。余計なことは考えるな。お前たちには恩もあるのだ。それは私とて忘れてはいないから、交渉は、すぐ行うつもりだ」 二人とも縄で縛られ、移動しようとしたその時に、テオルドの懐からごとりと何かが落ちました。トアロはそれを拾い上げて、興味深げにそれを眺めました。 「なんだ、これは?」 火のないものですから、持ち上げた感触だけで、彼女はそれがどんな種類の書物かはわかりませんでした。彼女はテオルドと目を合わせました。いや、目を合わせられたように、彼女は感じました。ほとんど近くも見えないくらいの暗闇の中で、相手が夜目の利くアズダルならいざ知らず、こんなにもはっきりと少年に視線を交わされたことに、盗賊はぞくりとしました。ですが、そのまま彼女は彼を見続けて、本を彼の手に戻しました。 「大切なものなんだな」 彼は頷きました。彼は何か言いたげに口をぐにぐにと動かしました。トアロは、何を思ったのか、彼のさるぐつわを緩めて唇を少しだけ自由にしました。 「僕の先祖が書いたんです」 彼はかすれ声で言いました。 「ハルロス=テオルドの日記帳です。その父親は、ムジクンド=テオルドだといいます。ご存知ですか?」 女盗賊は雷にでも打たれたような顔をしました。この街を調べるために、色々な文献を当たっている時に、その名前には何度も出会いました。 「なぜお前はその話をしてくれなかった」 トアロは急に恭しい口調で、テオルドの指にそっと触れました。 「ああ、テオルドなど、ありふれた苗字だと思ってしまったんだな。この近くの界隈にもテオルド氏はたくさんいるからなあ。けれど、見つけたぞ。お前が子孫か」 テオルドはにっと笑いました。彼は盗賊の特徴をかくあらんと思っていました…一度リスペクトを抱いた相手であれば、相手が老人であれ子供であれ、その態度は変わらないと。トアロの育った街では、自分の利を追求することこそが人々の生き抜く手段でしたが、中にはそんな思考の及ばぬ考えをした人間もいました。大抵はフーテンのなりをした落伍者でしたが、たまに、人々の尊敬を集める哲学者がいました。トアロもその人物に出会い感銘を受けたことがあったのです…。 彼女には信心深く敬虔な一面がありました。その一面を、彼女はテオルドにも篤く向けたのです。少年は、彼女に三百五十年の都のあらましを語ってくれたからです。尊敬は信頼を越えます。彼女は自分を信じるより前に彼を信じたのです。彼女たちにとって、この町から脱出することが何よりも優先されるべき事項のはずでしたが…。 ピロットはテオルドの背中の影が大きく揺らいだように見えました。そして、息苦しくなり出しました。くつわの下で、彼は喘ぎました。何かが頭上を覆ったようでした。広い広い体持つ、古の悪魔のようでした。彼は、その魔物には触れませんでしたが、少年と、二人の盗賊に体の一部が触れたのを確認しました。彼は恐ろしくなりました。恐怖など、押し返してしまって決して身体への侵入を許さない彼でしたが、今見た相手は、始めから彼の内側にいたような、途方もない存在に思えました。 オグでした。古代の怪物が、その時に彼らの頭上にいました。彼は霧状になり、宙を飛んでいましたが、ぼんやりとした暗闇の中で、その体は白い鯨のようでした。いきなりトアロはこう言いました。 「二人を放してやろう」 テオルドは身じろぎもせず盗賊を見返しました。口元がぶるぶると震えていました。 「トアロ、それは本当か?」 「カルロス=テオルド、お前に会えて、私は本当によかった。手荒な真似をしてすまなかった」 アズダルの声も無視して、彼女は両者の縄を解きました。すると、くつわもまだ残ったままのピロットが、脱兎のごとく駆け出して、盗賊たちから逃げてしまいました。頭を屈めて、低い姿勢で、頭上の得体の知れないものに触らないように、彼は真っ暗がりの中をどこへとも知れず走り去りました。 「畜生!」 「いや、いいんだアズダル。どうせ始めからこうするつもりだったんだ」 「始めから?」 その時、トアロはぼんやりと空中を眺めていました。彼女は某かに頭の中を支配され、今言った言葉も、他の言葉も、その瞬間で皆忘れてしまいました。 「いいんですか?僕たちを利用して、脱出しようとしていたのに」 テオルドはわざと彼らを心配しました。トアロはすまなそうに彼に寄り添い、その手を握りました。 「私は邪まな考えをしてしまった。どうか許してくれないか」 彼女は気づきませんでした。背後に言い知れぬ寒気が忍び込んで、凍えるほどの冷気を吹き付けていたことに。オグが、その上に居座り、じっと佇んで、三者の成り行きを見守っていました。 彼に意志はありませんが、そうすることが、まるで義務でもあるかのように。 トアロの体はかっかと火照っていました。背筋を覆う冷気とは裏腹に、内臓が煮え滾るほどの熱が血を通って全身を隈なく巡っています。頭の中はぼんやりとしたまま。しかし、トアロは以前にもその悪の集合に触れていました。海の外から入り込んだ洞窟の終わり、神殿の門柱の真ん中から、気づかぬうちに、彼女はそれと知らず自分の欲望を制御できないようになっていました。まるでそれは、町人たちが普段から恐れている欲望の追及…三百年前彼らの祖先を捕らえたものでした。それは無意識の中で、何よりも代え難い黄金のように光り輝いていました。 けれど、それは破滅をもたらすものでした。 その時を生き残った人々は言いました。これが、我々の破滅の終局であるとしたら、永遠に、この事態を隠さねばならない。そのために、我々は努力しよう。人間の意識から永久に黄金にまつわる欲望を閉ざし、封じ込めてしまうのだ。しかし彼らは知りませんでした。太古から生きている破滅の怪物が、彼らの知る破滅以上のものをもたらそうとして、ずっと、その地下のさらに地下に棲んでいたことは…!地下の闇と、大昔の悪意が、今の時代、ようやく出会おうとしています。怪物は目を覚ましました。彼はまず、三人の人間を食らいました。 トアロはその力に唆されて、自分を見失っていました。ですから、これから、意味不明で支離滅裂な会話をテオルドと交わすのです…。 その一方で、まったく暗闇の中を、ピロットはひた走りに走っていました。彼は盗賊たちから逃げたというより、まだ太刀打ちできない頭上の鯨のような怪物と今相まみえることを嫌ったのです。勿論彼はそれからもたらされた恐怖も何するものぞと粋がっていました。奴の正体は不明ですが、こちらは触れられても、たぶらかされてもいないのです。彼はしっかりと自我を持ち、この悪魔に、自分がどうしたら対抗できるかを考えていました。しかし、この真っ暗がりで、彼の目はすっかり道を見失っていました。頭の中に叩き込まれたはずの地図は、呼び出すことができませんでした。彼の懐には、火打ちの道具と松明とがありました。テオルドに連れられた時に、無意識に服の隙間に放り込んだものです。彼は近くに明るい灯火を見つけました。見回りの人間が来たのです。彼は瞬時に道具を広げ、わずかな時間近くを横切ったその明かりを頼りに、火口に火打ちを打ち付けて、出来た炎を松明に移しました。めらめらと燃える灯火は見回りの人間にも見つかるはずでしたが、彼らは行ってしまいました。 すると、突然ピロットの目前にはあの五弁花の連なる不気味な蔦の壁が現れました。彼はごくりと唾を呑みました。花の中からゆったりとした芳しい匂いが彼の鼻腔を入っていきます。それは喉から肺に達し、えもいわれぬ深い感動を彼に与えました。満ち足りた気分が、彼を覆ったのです。豊満な女性の唇のような、性愛を絵にした五弁の花びらが、彼を誘っています。隙間には緑色の蔦が、妖しく左右に伸びています。壁は、物言わぬ圧力を彼に与えていました。しかしその抑圧も、彼を取り込もうと手を広げる熟女のごとき危険な包容さを兼ねていました。彼はふらふらとその壁に近づき、震えた指先で、植物の枝葉と、熟れた花びらに触れました。少年はこの生きた石壁の妖艶な魅力にすっかり魅せられ、この壁を、登ってみたいと思いました。 およそ、他人に心を許すことのなかった彼をしてたぶらかすことのできる力は、強烈な性愛の予感ではあったかもしれません。ですが、それまで彼の身に起こったことを考えれば、こんな力に容易に心を許したのも仕方のないことだったかもしれません。彼は、十五人の仲間たちと心躍る冒険を繰り広げたのでしたし、その間、以前から気にしていた少女と懇意にもなったのです。彼を「好き」だとはっきり言う少年とも出会いました。彼の心には隙間が生じていたのです。それは、好ましい隙間でしたが、あっというまに彼を虜にするのに十分な、油断と不注意を準備したのです。彼に似つかわしくない、誰かに心を許す瞬間を、その機会は捉え、彼を、ある道程に引きずり込んだのでした。 彼は石壁を登りました。そこに吸い付くようにして張り付く緑色の蔦は、どくどくと血が通っているように脈打って見えます。五弁花は、死に絶えた破滅の都にありながら、その生命を主張していました。麻薬のような赤を放ち、男性も女性も虜にしてしまうフェロモンを分泌し、果ては、同一化すればきっと無限の力が手に入るような、暗い幻をも映しています。テオルドの母が語っていたような、暗闇の物語に出てくる夢の怪物のように…。少年は赤い花びらの中を覗いてみました。強烈なうっとりする匂いとともに、少年の心と体を刺激する、あの女性の陰部のような情景を、その花は彼に見せました。彼の鼻息は荒く、とめどない溢れる力を感じながら、この壁を登ろうという衝動は、早く、早くと彼を急かしました。早く、早く…きっと初めての交尾のように、ただ快感をむさぼろうと、一心不乱に腰を打つかのようでした。そして、異常に血管の浮き出た腕でもって、その淫乱な岩壁を登りきった時に、彼は… 足元に、大量の黄金を発見したのです。 彼の目には、唇には、喜悦の気色がのぞきました。これまでにない迸る快感に、彼は眩暈を覚えました。彼はすべてを征服したような気持ちになりました。頼りない灯火にうっすらと照らされた地面はきらきらとしたこがねの絨毯を彼に見せました。その下には、たくさんの人々の遺骸がいまだ眠っていたのですが。 彼は、相手のいない、一人きりの放射に酔いしれていました。彼の欲望は、この時、追求する何かを見つけたのでした。王様のようにそこに君臨する彼を、下のこがねたちは、黄金色の光を瞬かせて、その喜びの気色を残酷に讃えました。
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