破滅の町 第一部
第四章 盗賊と少年 3.邂逅

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 鐘楼の鐘は鳴り響きませんでした。侵入者が来たというのに、打ち手がいないからでした。ピロットは、背後にイアリオがひたひたとついてきていることに気づきませんでした。彼の場合、マルセロ=テオラとは違った義憤が生じていました。彼はまるで、この暗がりをこれ以上恐れぬために再び地下に潜ったかのようでした。彼は許せなかったのです。自分に食い込み、あまつさえ支配しようとする、驚異と恐怖それ自体を。それは彼の自立心を揺り動かし、傷つけようとする力に満ちていたのです。彼の気概はその力に真っ向から反発しました。その顕れが、テオルドを助けるという、およそ彼らしくない理屈となったのです。  ピロットはまず壁の崩れたあの土蔵へと向かいました。いまだに衰えぬ恐ろしい記憶は、彼の足取りをいささか遅めもしましたが、それが立ち止まらせるには力が足りませんでした。普通の子供ならば、仲間のいないこの圧倒的な暗黒に、一人でいれば立ちすくみ、泣いてしまうでしょう。イアリオは、彼の背に引っ張られるようにしてあとをついていきました。彼女はテオルドの父親に言われその息子を探しに来たのですが、勿論まだ、あの圧倒的な体験は彼女の脳裏に稜々と翼を広げ、いつでも彼女を取り込もうとしていました。彼女は仕方なく暗闇を窺いにきたのです…どこかにテオルドの足跡が刻まれていやしないだろうかと。十五人の誰かが、あのままこの空間に囚われているのではと考えたことなどありません。もしそれが本当なら、大変です。すでに幾日かたっていて、安否は絶望的なことになってしまいます。彼女は焦燥にかられました。もし、テオルドが帰ってないのだとすれば、それは私たちの責任かもしれない。私たちが不用意にあの壁を壊して、死者たちの眠りを妨げ、あのようにばらばらと崩れ落とした仕返しを受けたのかもしれない。テオルドはきっとそれがショックで、家に帰れなかっただろうから…!  ですが、そんな責任はとても彼女一人だけが負いきれるものではありませんでした。彼女は目の前を行く彼の目的が自分と同じかどうかはわかりませんでしたが、ピロットがあの土蔵に向かっているらしいことは後を追いながらわかりました。しかしこの世の蓋をされた土石の中で、霊たちは、悲鳴を上げながら、苦しみながらどれだけの年月を過ごしてきたでしょうか。その子孫のこのような一時の苦痛など、それははるかに超えているのです。  地下の街の鐘楼の鐘は鳴り響きませんでした。再び侵入者が来たというのに、打ち手がいないからでした。暗黒の中に、亡霊たちがひしめくも、その手は空です。  同じ頃…ハムザスはいまだ苦しみの中にいました。彼は、卑屈な自分を抱きかかえるようにして苦しんでいました。彼は、自分が卑小な存在だとよく知っていたのです。彼自身、どうにもならない自分によく気がついていて、持て余す(というより、自分自身の力の出し方を知らない)感覚がかえって焦りを生じさせていたのです。彼は、彼がやりたいことと実際にできることの区別がとても苦手でした。正義感溢るるものの、その実現にふさわしい手段が欠けていたのです。彼は、ラベルを参考にしようとしました…ですが、このような事件に遭ってしまい、彼自身の暗闇に落ち込むことに相なったのです。自分の存在などちっぽけでたわいないものと思い知らされたこの大事件は、彼のそれまで抱いていた普段の気分を、周りに対してなんとなく道化た真似をしていた彼自身を、大きく肥大化してみせたのです。その暗がりは落ちて到着地をまるで到達することのできないはるか彼方に用意しているかのようでした…。  ロムンカの苦痛はこれとは違って、彼も弟と同じように布団を頭から被って出てこれませんでしたが、その痛みは純粋に骸骨との思いがけない出会いに対する痛みでした。彼の方が、長男であるからといったこともあるでしょう、未知のものとの邂逅がずっと多く、それゆえに耐えうる力も弟より太く具わっていたのです。それでも、テオラやイアリオやピロットといった面々と比べれば神経は太くなく、しばらくは体を動かすことができないほどの衝撃を、骨の髄まで叩きつけられたのでした。  他の面々はどうでしょう。カムサロスは母親にずっと付きっ切りでした。彼は学校に行けましたが、家に帰ってくるなり母に抱きついて、離れようとしませんでした。彼の母も無理に放そうとはせずにいましたから、とりあえず彼の満足するまでそうさせてもらうことができました。マットやヨルンド、ハリトは自分の気持ちを落ち着かせる手段を持っていました。彼らは職人の息子たちでしたので、職人気質の集中力をどこかに注入すれば、それでなんとか自分を保てました。マットは医師の勉強を、ヨルンドは大工仕事を、ハリトは石工の手伝いを、必死になってやることで一時的にもあの衝撃から身を守ることができたのでした。オヅカは可哀そうに一人深夜の郊外を暴れまわりました。その間誰にも危害を加えることはありませんでしたが、彼の破壊の跡は、ちょっと修理に困りました。ただ、彼としてはそのような行動は珍しくないと認識されていましたので、特別問題にはならなかったのです。オヅカはひとしきり暴れられればすっきりするなかなか健全な感性の持ち主でした。ですが、夜中、暗闇に紛れて暴風になる(その役になりきる)ことで、彼を脅かしたものと一体になり、それでどうにかして衝撃を和らげようとしたのです。  実はこのやり方は、テオルドと似たところがありました。オヅカは己を保ちながら、心の中に残るいびつな暗闇を制御しようと努め、その努力の甲斐は、確かにありましたが。  サカルダとアツタオロの少女二人は唖になってしまっていましたが、二人とも授業には出席していました。彼女たちは、人の中にいた方が触れた人骨の冷たさを忘れられると思ったのです。ただし、言葉はどうしようもなく、彼女たちの異変に気づいた人々はいましたが、しいて何があったかを聞こうとはしませんでした。彼女たちが暗い目を押し開け、何も訊かないでくれと、雰囲気で訴えたからです。彼女たちが心配になる人間もいましたが、その思いやりが何かかたちを表す前に、事件は明るみになり、彼女たちの問題も解決の方向を向くこととなりました。しかし、これはまだ少し先の話です。もう一人の少女、空想好きのピオテラは、鼻の先のそばかすを一段と増やしただけで、表立った変化はありませんでした。というのも、彼女一流の克服の仕方があったのです。それは、空想の彼岸に逃げ込むということです。今まで十五人の仲間たちと行った探索の日々は、一瞬にして彼女の記憶から忘れ去られました。出来事を記憶からなかったことにするのはピオテラの得意技でした。いいえ、むしろあんな目に遭えば誰もがそんな記憶をなくしたいと思うでしょう。他の十四人はどうにも無視できない、圧倒的な実在感をその出来事に感じたのに対し、彼女はいわゆる現実感のない場所に逃げ込むことで、実感を否定したのです。それでふわふわした言動が目立つようにはなりましたが、それはいつもの彼女らしさにありましたので、特別周囲も気にしませんでした。  それが、かえって逃避中のピオテラをそのままにしておくこととなりました。このことは重要でした。いざ事件が露呈されたとき、彼女自身、どう振舞えばいいかわからないものにしてしまったのです。  さて、事件の続きを追いましょう。ピロットが松明も付けず地下街を進んでいき、その背中を追ってイアリオがついてきています。彼はなぜか火を持ちませんでした。勿論、地下の地図は頭に叩き込んでありました。これは十五人の子供たち全員がそうでした。彼らの力で書き込んだ地図だったからです。そのおかげで土蔵を壊した後も皆がそれぞれに帰れたのですが、どうして火をためらったかというと、やはり暗黒の恐怖がまだ根強く心に残っているからでした。火を付ければたちまちに周りは暗く沈みます。その時に、彼はあの骸骨どもの暗い眼を、まざまざと思い出すことを知っているのです。火を付けない方が今はよほどましだったのです。彼は自分自身恐怖を覚えることもプライドに障るよう感じていましたから…。今は、かろうじて彼の夜目が利きました。ぼんやりとした影を注意深く見れば、どんな家々が目の前にあるのか、彼には見ることができました。天井の隙間からほんのわずかに太陽の光が差し込んでいますが、天井のそこのみを照らすばかりで地面には届いていません。ですが、それでも光の粒子は散乱していたのです。彼の目は光線の粒を拾って形あるものに投げられました。  しかしイアリオはこのように視界を確保はできませんでした。暗闇をどんどん行く彼の背に置いてかれないようにするのがやっとでした。彼女の目的はなんとかテオルドの足跡をつかむことでした。しかし今はもうピロットのあとを辿ることしか考えていませんでした。周囲から迫り来る暗黒と恐怖の感覚を彼女はピロット以上に強く覚えていました。彼女にはそういった恐怖と闘うためにわざと松明を付けないなどという選択肢はまったく考えられませんでした。火があればこそ、相手がよく見えます。見えないものと対峙などできません。彼女はピロットもまたテオルドの父親に頼まれてここに来たのかと思いました。ですが、彼を呼び止めるにもすでにこの暗闇の中に入ってしまっては、声を出すことも憚られました。声は確実にここにいる死者たちに届くのです。しかし二人で探せばそれだけすぐテオルドを見つけ出すことができるはずでした。彼女はまずは彼に追いつこうと思いました。ところが暗闇の奥へ、奥へ行くにつれて、彼女は自分を取り囲む墨のごとき暗黒に脅威の念が増していきました。ピロットと違い、夜目の利かないイアリオは、自分がどこにいるのかわからなくなってきました。ですからなおさら歩みを止めることはできなくなっていました。彼を追うのに必死になっていきました…。  いつのまにか、彼女の中であらゆる反省の念が渦を巻いてきました。暗黒は、ただそれのみでなく、人間の心の暗闇も喚起して増大させます。彼女の注意はテオルドではなく自分自身に向かわせられました。なぜあの時ああしなかったのだろう、止めなかったのだろう、自分だけ逃げ出したんだろう、わが身可愛さのために…と。純粋な、彼を助けなければいけないという気持ちが、ついに百八十度回転して、過去の猛省ばかりを繰り返しだしたのです。暗闇は、十二歳の少女をまだ幼いいたいけな幼女までに、退行させようとしました。ただ単に、暗い場所に恐怖する、夜を怖がる小さな幼児へと、彼女を追い詰めていきました。  彼女は立ち止まることができませんでした。その場にうずくまり、涙枯れるまで泣き腫らす、小さな子供へは戻れませんでした。もはや彼女はピロットの背中も追わず、ただ言い知れぬ圧倒的な恐怖と悪夢とに、苛まれるか弱い少女になっていました。少女は悪夢の中を懸命に走っていました。どこへ向かって走っているのか、知りません。ですが、立ち止まれば喰われてしまうでしょう。自分の体があの骨になるまできっとしゃぶり尽くされてしまうでしょう…。  まったく何も見えなくなった暗黒に、ふと彼女は自分やピロットとは違う人間の気配を感じました。その気配は臭いで運ばれてきました。目は利かなくとも幸いに鼻が暗闇にいないものを嗅ぎとったのです。 「おい、お前」  突然、誰かが前を行くピロットを呼び止めました。イアリオははっとして身を隠そうとしました。彼女の目には周囲の景色は真黒い墨に塗られたはずでしたが、急にほんのりと明かりを取り戻し、ここが辻の真ん中であることを見せました。彼女は道の角に身を潜め、片目だけを、そこから出して窺いました。ピロットを呼び止めたのは大柄な男で、どうやら上半身裸で、隆々とした筋肉をしているようでした。ピロットはびくっとして立ち止まりました。ピロットの前に立ちはだかったのは盗賊のアズダルでした。彼は夜目が利きましたが、イアリオの姿まで捉えることはできませんでした。  ピロットにはこの男の顔がはっきりとわかりました。なにより目についたのは太い眉毛でした。それはこの男がいかに強い意思を持っているのかを物語るように見えました。その目鼻立ちは、上の町の人間のもののようではなく、丸く滑らかで、奇妙に曲がっていました。顎は四角くて堂々としており、がっしりと無骨でしたが、顔面の中のパーツはどうも福笑いをぶちまけたかのような滑稽さがありました。目は青海の色で、怯えた感じと人懐っこさとを交互に見せるような、不安定な閃きでした。  ピロットはこの大男が怖いと感じました。その怖さは彼が対抗しうるものではなくて、なんというか、仕様のないものに思われました。彼は警戒しました。それでなくとも外部の人間との接触はことさら町に禁じられていたので、警戒するのが当たり前ですが、ピロットにそうした意識はなく、ただこの男がこうした容貌だから緊張の面持ちで一歩身を引いたのでした。  彼の頭に閃いたのは、この男はもしや盗賊ではないかということでした。俺たちの探していた、金銀財宝を奪いにこの街へやってきたのではないか…? 「俺はクリシュナルデ=アズダルという。盗賊だ」  やっぱり…!でも自分から自己紹介するなど、奇妙な盗賊だと彼は思いました。 「お前に聞きたい。どうして上の町の連中は、この巨大な街を地下に封じ込めたんだ?恐れないで、答えてほしい」  上半身裸の男は、紳士のように腰を折り、大きな手の平をピロットに向けて差し出しました。ピロットはアズダルの迫力に呑まれそうになりました。その筋肉は鍛え抜かれてどんな攻撃も剃刀のような鋭さで跳ね返す力がありながら、輝く青色の目がまるで相手を包み込み安心させる懐の深みを用意したからでした。 「お、俺は何も知らない」  彼はこう答えるのがやっとでした。 「アズダル、俺はピロットだ、ピロットといいます。この街に来た目的は何?」  彼は逆に尋ねました。その唇は震え、声もおぼつかなげです。 「あっははは、小僧、ああ、ピロットというか!おい、俺を見てもびびらないか!こりゃあいい!」  アズダルは大きく体を揺さぶり、びりびりと響くとてつもない笑い声を出しました。すると、その首筋にきらっと金属が閃き、その瞬間はたと大男の声が静まりました。ぶつぶつとした汗がその額から噴きました。 「なかなか胆力のある子だね。これは予想外だったが…」  大男の影から、ショールを掛けた色黒の女が現れました。すらりとしてしなやかな身のこなしで、ゆったりとした服を着ています。 「我々はね、お前に使いの真似をさせようと思ったのさ。ピロット、私の名前はハビデル=トアロという。覚えておいてくれ」  トアロはアズダルの首にあてがった短剣を鞘にしまいました。彼女の鳶色の眼光が鋭く一直線に自らを射抜くのを、ピロットは感じました。その眼光に彼は軽い脱力感を覚えました。力が入らなくなったのです。  それからぼそぼそと三人の間で交わされた会話を、イアリオは聞くことができませんでした。彼女は自分の心臓がばくばくと音を出しているのが、彼らに気づかれないだろうかということばかりを気にしました。初めて見る外部の人間です。彼女はかの町と唯一交流のある国から定期的に使者が訪れることは知っていましたが、その使者もこの目で見ることはなかったのです。彼女は今自分が大変なものを見ていることをよくわかっていました。彼女には、この事態が危険を表明するものとしか見ることはできませんでした。

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