破滅の町 第一部
第六章 喜びの気色(けしき) 2.イラとハルロス

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 そののち、都には血の雨が降りました。戦士同士が殺し合うようになり、都での利権を主張し始めたのです。それは欲望がエスカレートした上での出来事でした。彼らは外側に自分たちの主張できる武力でもって華々しくいくさを仕掛けていたはずが、もはや目的は世界制覇などではなく、自分たちの膝元にある黄金をこそ、欲しいものとして認めました。外国を支配してもたらされる富よりも、そこにあるものの方が膨大だったのです。つまり、彼らの軍事力は彼らの勇猛さによるものではなく、そこにある莫大な富によるものだったのです。都にある黄金をものにすることができれば、世界中を支配できるのだ、そう彼らは考えました。それはいかにも実際とは違うものの考え方でした。ですがこのおかしな思考を誰も指摘せず、見咎めず、事態は急速に悪い方へと流れていったのです。ムジクンドは自分の未熟さ、ふがいなさを目の当たりにしました。彼の愛するものは自分の家族だけに限り、この街を、戦士たちのつながりを、市民を、ここでの生活を、愛でる感情は一切湧き上がりませんでした。  いずれ市民にもこの戦闘の波が押し寄せたとき、彼は自分の息子を襲いました。その目的は、自分の息子を助けるためでした。息子は知らぬ間に滅びの街を生き延びました。ですが、ハルロスは、滅びの瞬間を確かに目にしていました。  黒表紙の日記帳の著者ハルロスは、某邸のバルコニーの積み上げられた荷物の隙間に詰められていました。そこから覗く、地上の様子は、もうすでに血の降りしきった後の、惨澹たる有様でした。それでもなお、人々は互いに打ってかかり、その様子も、疲弊しきった両腕がまるで相手を抱きかかえるようにして、武器を振り下ろしていたのです。愛情か、憎しみか、彼らの動機はわからないものでした。ただ目の前の相手を滅ぼそうと――それは一体何のためか――怯えきった目の色とそれでいてばら色に染まった頬と肌が、ハルロスの目には印象深く強く焼きつきました。両者は相打ちになり、絶命し、斃れました。まるで愛するように組み合って、二人の人間は、死んだ後キスを交わしたのでした。  石窟の都にまだいる者の中で、彼だけが生き残っていました。バルコニーから下りると、しんとした世界が、闇の中広がっていました。常にぼうぼうと燃え盛っていた灯火は尽き、ぷすぷすとあちこちで焼け焦げたあとの煙がくすぶり、暗がりを曇らせていました。まだ、この時は海の方角は壁に塞がれておらず、水平に光が伸びていましたが、当たりは影に沈み、ぼんやりとしていました。戦士長の息子は、ただただ戦慄をもってこの景色に向かい合い、一体街に何が起きたのか、茫然として考えました。ぴくぴくと震える眉の、下の両目をかっと見開き、強い意志でこれに臨もうとした時、彼は父の言葉を思い出しました。自分の力ではどうにも抑えがたいのは、この国が、自ずから滅びに向かっているかもしれないということだ…。  それならばこの国はどうして滅びなど望んだのだろう。彼にはとてもわからぬことでしたが、先ほど見た、愛し合うようにして滅んだ二人の人間の有様を、まざまざと瞼の裏に思い描きました。そして言いました。 「まずは、人々を、ちゃんとした場所に葬らなくてはならないな」  彼は一人きり墓を作りにかかりました。膨大な数の人々を城の庭にまず集め、それから、燃える物を探し出し、火葬を始めたのでした。  それと同じ頃、残虐な殺し合いから逃れえた人々が都街に戻ってきました。彼らはおかしくなった人間たちを一心に押しのけ石窟から地上に逃れていたのです。しかし、逃げ延びた連中は、決してまともな精神を維持していたのではありません。同様におかしくなりながら、戦うことではなく逃げることを選択したのです。彼らは笑いました。逃げおおせた青空の下で、ひっきりなしに喉を上げ、恐ろしくないように、恐怖を克服するがために笑いました。下では若者が隣に住む老婆を犯し、女性が刃物を持ち狂い、赤ん坊は引きずり出されて殺される、その場の不自然な快楽にすべての人間が耽溺していました。光るものを目にすればふらふらとそちらに行き、誰かがそれを手に入れようとしていればそれを打ちのめそうと走り出す。自分のものとなった宝石は、たちまち誰か他の人間の目にするところとなり、それを守るために、命を懸けて戦わねばならない。そのようなことが、繰り返しどこでも行われたのです。彼らの快楽は暴力が基準でした。それまで押さえつけられてきた怒りと憎しみが(それでも暴力的な主人がいる時ではまだ自分にも他人にも秩序立って接することができた)、一気に暴発し、人々の行為をその方面に誘ったのです。  恐慌が過ぎて、雲の下次々と我に返り始めた人々にとって、彼らを襲った言い知れぬ現実は、まるで魔物の通り過ぎたあとのようにぼんやりとして実感がありませんでした。彼らは泣き腫らした後のように、ぼうっとしたまま都に戻りました。そこにはありえないほどの大量の死骸が打ち捨てられていました。今までのそれが現実であったことが、戻った人々にまざまざと実感され、戦慄以上の恐怖を覚えさせました。その恐怖は神への畏れに非常に近かったでしょう。彼らがもし何か信仰を持っていたら、おそらくは、この出来事はまがまがしい想像の悪神を誕生させて、奉り祭りを行ったかもしれません。しかし彼らにそのような概念はありませんでした。  街に食料はたっぷり残されていました。彼らはそれを確かめました。生き延びた人間だけでここで生活していくことは可能でした。  しかし彼らはこう考えました。我々は戦うことのできる者ではない。我々は市民であり、かつあの惨状を逃げ延びた、精神が駆逐された者たちだ。とても黄金など抱えて、異国と交易などできないだろう。まして、ここにある富を、異国から狙われでもしたら…誰からともなく、しかし、皆がそろって、この街を封じよう、どこからも見られぬようにしてしまわなければならないと、叫び出しました。人々は黙々と仕事を始めました。遺骸の匂いは厄介でしたが、死者には見向きもせずに、近くの岩山から、もしくは石造りの建物から切り出した石を運び、港湾の出入り口から塞ぎにかかろうとしました。彼らの努力あって(その努力も凄まじいものだった)、海の外からはここに港湾都市があったなど思われないよう工夫された岩垣が、ひと月もたたないうちにすっぽり外面を覆いました。  人形のような可憐な風貌の少女が、人々に混じって働いていました。彼女は奴隷の娘でしたが、その器量を買われて楽師の従者になっていました。彼女が踊れば楽曲が映え、彼女が歌えば慰みも倍になりました。名前をイラといいました。少女のイラは、人々が、作業に従事している間、気になることがありました。彼女は食料の運搬も手伝っていましたが、密かに食べ物が盗み出されたような跡があったのです。食料庫に保存されているものは監視者も立てず彼らは日に必要なものだけ、しかし決まった時刻に、人数分まとめて出していました。保存食は非常に十分にあり、誰かが盗み食いしたとしても大したことにはならなかったのですが、イラは一体何者が勝手に持ち出しているのか、調べようと彼女の担当する倉庫を見張ってみました。すると、武士の風貌をした無骨な男が、毎夜密かにそこを出入りしていました。彼女は男を追いかけ、何者か窺いました。しかし火のない暗闇の中で、いずれ彼女は迷子になりました。そのまま眠ってしまい、朝になり、ぱちぱちと爆ぜる薪の音に目を覚ましてみると、彼女は、すぐそばに人間の死体が無数に転がっているのを見ました。びっくりして小さく叫ぶと、うず高く積み上げられた死者の山裾から、男の顔が覗きました。彼は、驚いた表情でこちらを眺めました。 「気づかれないように行動していたつもりだが」男は静かに言いました。「やはり、うまくはいかないな。さて、私をどうするつもりだろう?」  彼の声は、イラにとって、海の底からうねるようにたゆたう響きがありました。彼女はどぎまぎして、こう答えました。 「この場所に、鳩の飾り物の付いた時計はありませんか?私はそれを探しに来たんです」  彼女は一度だけ海賊貴族の持つその時計を見かけていました。彼女が慌てて言ったにすぎないことに、男はくすっと笑い、「これかい?」と時計を差し出しました。  イラは、時計を受け取り、静かに相手を眺めました。男は言葉を続けました。 「私は彼らを供養しているのだ。地上には逃げ延びた人々がいて、彼らの作業も何をしているのか知っているがね。だが、どうやら死者たちを葬るつもりはないらしい。彼らは巨大な壁を造ったね。外から見えなくするように。それはそれでいい。彼らの気持ちも私にはわかるよ」  不思議な水のような声が、イラの全身を打ちました。見るからに戦士であるこの男は、たった一人で、死者たちの葬儀を行おうとしていることがわかりました。地上に逃れた人々は、まず我が身を守るためにそうではない行いを選択したにもかかわらず。  イラは感動してものが言えませんでした。彼女は幾度も自分の唇を動かしました。何か言いたかったのです。その感動を伝えたくて。 「いいかい?」凪いだ海のような口調で兵士は言いました。 「私は私の分だけの糧秣があればいい。それは私にも配られる正当な理由があるからだ。いいかい?この場所は私一人だけに開かれているのではない。私たちのいる所は、おしなべてすべての人間に開かれているのだ。この場所が、一体どんな所だったのか、君にもわかるだろう。すっかり壊滅したものの、それより前は、活気ある我らの故郷だった。人々の心は荒み、その結果、果てしなく陰惨たる結末を迎えるも、実は、魂はまだ生きているのだよ。我々の中に。君も、感じないか?」  兵士は考え考え言葉を継ぎました。たどたどしい文脈は少女を混乱させましたが、海のように深い彼の声音がある一つの心の場所に、彼女を連れていきました。  そこは、静かに、命たゆたう魂のふるさとでした。死んだ人間の帰る場所、そこから人が生まれる広場でした。彼は、こう言いたかったのです。またここから、命は始まる。その生命は、きっと地上の人間たちの間に広がっていくだろう。心を癒すために、彼らの今の作業は大切だ。しかし自分のしていることも、また同じくらい大切だ。なぜなら死者の魂が、廻り廻ってまた地上に現れるのだから。その霊魂は新しい命となって、彼らを同じように慰める。私のしていることは、こうした意味があると、彼は口下手に言うのです。  優れた思想は綺麗な言葉に乗せられませんでした。しかし、少女にはその真理がわかりました。 「あなたの名前は何ですか?」イラは彼に訊きました。 「ハルロスだ。ハルロス=テオルド。君は?」 「私は…」  自分の名前を言いかけて、彼女ははっとしました。目の前にいるこの男は、大戦士の、滅びる前のこの国の統括者であるムジクンド=テオルドの息子だったのです。彼女はそっと唾を呑みました。彼が生きているともし皆が知れば、きっと、人々は彼を生かしておくはずがないと思ったのです。なぜなら、彼らは都の滅亡の理由を、戦士たちの反乱によって引き起こされたものだと思っているからです。治安が悪化し、人々が己の欲望をいや増しに増大させたのは、彼らの統治能力が弱々しかったために、生じたものだと考えたのです。また、人々は自分たちに戦力が無いと思っています。もし戦士である彼が、生き残った人々の統治者になろうとすれば。彼らはそれを避けられないと考えるでしょう。  そうならないために、人々はこぞって、彼の命を奪おうとするだろう。イラの目には涙が浮かびました。 「どうしたのだ?」ハルロスは優しく訊きました。 「どうして…どうして生き残ったのですか?」 「えっ」 「それなら私は…こうなる前にあなたにお会いしたかった」  自分の憧憬と恋の行き先が再びの破滅を用意していることを、彼女はわかりました。しかし、どうにもなりませんでした。彼女は自分の名を彼に伝えねばならなかったのです。 「イラです」 「イラ…」  そうしなければ、何も始まらないのですから。

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