マルセロ=テオラは、ラベルの一つ下、十四歳の少女です。彼女は母親と暮らしていましたが、母親の仕事(内職や料理がほとんどだった)をよく手伝う殊勝な子供で、いつもひまがありませんでした。最近になってようやく暮らし向きが楽になって、彼女にも時間が取れるようになり、ラベルたちと一緒に活動していました。彼女はおせっかいなところがあり、人のことを必要以上に心配するきらいがありました。不安定な少女時代を過ごしたからでしょうか、だらしない父親を立ち直らせようとして、幾度となく彼女はチャレンジをしましたが、ついに両親が離婚したのは、自分のせいかもしれないと思うような子供でした。彼女はラベルといると安心しました。自分を導いてくれる相手に感じて、とても信頼を寄せていました。 彼女は今ほかの二人と暗い廊下を歩いていました。カムサロスとハムザスは、彼女よりも年下で、何かと面倒をみる必要のある相手だと思われました。しかし、テオラはハムザスが自分に気のあることを知っていました。彼女は相手にしませんでしたが、彼の煮え切らないもどかしい態度に、いくらか業を煮やしたことはあります。三人は屋敷の東側の、ややせせこましい邸宅にいました。従業員の家屋と思われるこの家はいくつかの部屋に区切られ、それぞれの部屋に何人かが一緒に住んでいた形跡がありました。まずは一階を調べ、次に二階を調べると、カムサロスは飽き飽きしたように大あくびをしました。ここには何もなさそうだったからです。綺麗な調度品はありましたが、彼の目に価値あるものにはとても映りませんでした。テオラとハムザスは真面目に調べ、何人ほどの使用人がいたとか、生活スタイルはどのようなものだったかとか、およそ派手ではなくとも主人からしっかり給金はもらっているような暮らしぶりだとか、さまざまに話しましたが、気分はカムサロスと一緒でした。こうなっては後ほどおそらく十五人全員で向かうことになるだろう、屋敷の立派な品々を見て溜飲を下げるしかないと思いました。 ところが、一階の廊下の先に、地下室の入り口らしき穴を発見しました。床石にぴったりはまった取っ手が鈍く光る様を、鋭いカムサロスの視線が捉えたのでした。彼らは協力して石扉を引き、棺のような穴に、誰から入ると言い合いました。順番は、まずカムサロス、次いでハムザス、最後はテオラでした。細い階段を下りてみますと、むんとして動かない空気が左右から三人を圧迫しました。彼らは身を寄せ合い、そろそろと進んでみました。地下には部屋があると思いきや、また細い廊下が静かに伸びていました。壁の左右を手で調べながら、部屋の入り口を探しましたがそれらしい取っ手も扉もありません。階段からさほど行かず、彼らはすぐに突き当たりました。行き止まりでしょうか、いいえ、金属の取っ手がカムサロスに触れました。行き止まりに扉があります。 この向こう側に何がある?地下の廊下、その先に?使用人たちの住まいの下にあるのだから、きっと大したものは入っていないはず。いや、もしかしたら、意外なところに宝物は隠されているのかもしれないぞ。そんな会話を小声で交わし、子供たちは、期待に満ちて戸を開けました。すると、冷やされた空気が、湿っぽく地面を渡り、彼らの足を冷やしました。そこは、巨大な洞窟で、どこまで続くかしれない黒がりが左右に伸びていたのでした。天井は大人の二倍もの高さがあり、幅も腕を広げて三人分はあります。子供たちは、まったく意外な風景を見て圧倒され立ち止まりました。 カムサロスの素足が、かつんと何かに当たりました。木製の小瓶です。八歳の少年はそれを拾い上げ、松明の火に照らしました。中身は液体で、瓶は汚れていますがしっかりと栓がしてあります。テオラが開けてみよう、と言いました。どう見てもそれは台所の調味料類の瓶にしか思えませんでした。一方、ヤーガットは慎重に、と言いました。この中に明確なリーダーはいない、もし何かあったら、その時に責任を取る人間はいないから、皆のところに戻って開けた方がいいと言うのです。カムサロスは黙っていました。テオラと同じで早く開けてみたい気持ちでしたが、それは手柄を自分のものにしたいがためでした。 暗闇が蠢きました。松明の灯りの届かない場所の、影たちが、息を潜め、三人の行動を見守っています。 漁師の息子、ハムザス=ヤーガットは、兄をよくからかいましたがそんな兄に彼も似ていました。二人とも神経質な性格で、周囲を気にしすぎるあまりに失敗もしました。以前、彼らは仲間たちと遊んでいたときに、誤って一人を滝の中に落としたことがありました。誰が落としたのか、責任の追及が始まりましたが、誰一人、手を挙げて自分でしたと告白する人間はいませんでした。彼もそのうちの一人でした。その時、真っ先に水に飛び込み、仲間を救ったのがトクシュリル=ラベルでしたが、ハムザスは、責任を誰かになすりつけようとばかりしていた自分に嫌悪感を抱きました。彼は、そんな自分にはできない英雄的行為を行ったラベルを崇拝するほどに信頼し、その後、ラベルのそばにずっといるようになりました。 彼は、誰かの近くでは大胆不敵になれました。しかし、一人ではなんの力も持ったことがありませんでした。自分だけがさらされれば、逃げ道をなんとか見つけようとするずるい性格の少年で、それでいて正義感強く、間違ったことが嫌いな、厄介な性格の持ち主でした。彼が兄を嫌うのは、自分の膿がそこに見えるからなのでしょう。 彼は、カムサロスが見つけた小瓶を巡ってもそんな態度でした。彼に好意を寄せられているテオラは、それなりに彼を観察していますから、ハムザスの心の中は読み取れることがあり、それがために、よく苛立ちました。闇が彼らを見つめています。どんな人間も心に暗黒を持ちますが、暗黒が聚合すれば、それは巨大な目となります。それは真実を見抜く目となります。 ハムザスが焦って言いました。 「もし何かあったって、困るのは皆じゃないか。俺たちだけじゃない、皆が責任をかぶるんだ。そんなこと当たり前じゃないかよ」 彼は、こんな洞窟の中で拾った得体の知れぬ瓶の中身は危険なものにちがいないと訴えました。 「どうしてわかってくれないんだ(俺は、あんたのためとも思ってるんだ)」 彼の不可思議な目の輝きに、テオラはそんなメッセージを読み取りました。けれど、彼女は開ける気でいっぱいでした。彼の言葉はいちいち正しいのですが、裏に隠れた気持ちを汲みとると、とても煩わしいのです。テオラはハムザスにとって明らかな正義は必要ではなく、今ここで小瓶の蓋を取って、その中身を覗くことが彼のためになるような気がしました。 「重要なのは、私たちが探索の先鋒となっていることよ。選ばれてここにいるの。危険がもしあるなら、私たちが先に引っかぶってもいいんじゃない?」 「そうはいかない。皆のため、とは、俺たちが犠牲になることじゃない!なんだよお、広場へ持ってくだけじゃないかよお、なぜそんなにここで開けたがるのさ、テオラ?」 「意気地なし」テオラはびしっと言いました。「それがおもしろいからでしょ」 ハムザスは注意された飼い犬のように黙りこくりました。彼女は彼の様子が可哀相でした。彼女は自分の父親の像を、彼にみてとっていました。同じように神経質で、臆病で、猜疑心が強かったのです。 カムサロスが小瓶の蓋をじっと眺めていました。おもむろに彼はコルクの柔らかい栓に指をかけると、そんな力も入れずにひねり、蓋を開けてしまいました。「あっ」とあっけに取られるも、瓶から漏れる不思議な匂いに三人は包まれました。 「カムサロス、お前何勝手に…」 「あれっいい匂いだ…」 三人はしばらく論議もせずに香りを愉しみました。彼らの住む町の周辺では採ることのできない、亜熱帯の花びらから抽出した香水の香りでした。 「これってさ、花の匂いでしょ?」 「ああ、そう…でも、中身は何?」 「香りつけの花水かな。でもこんなちっちゃい瓶の中に、これだけたくさん香りのするものなんて、私知らないわ」 三人は香水を知りませんでした。この町でも、草花から抽出したエキスを祭典の時に首や腕まわりにつけたりしますが、これほど濃縮したエキスを使うことはありません。彼らは洞窟を深く探査することはせずに、この香水をおみやげに一度広場に戻ることにしました。しかし、瓶からこぼれた匂いは彼らをまとい、なかなか離れようとしませんでした。ハムザスはこのことが気がかりでしようなくなりました。繰り返し溜息をつき、危険を顧みず勝手に蓋を開けてしまった責任が自分の身に及ばぬよう今から祈っていました。(ああ、どうしよう、どうしよう…)彼が神経質で臆病なのは生まれつきでしたが、どうも思春期に入ってひどくなる傾向にありました。テオラは彼の横で溜息をつきました。なぜこんなにもびくびくとしているのか、彼女にはちょっと異常な光景でした。こんなに良い匂いを真っ先に嗅げたのだから、結果オーライで喜べばいいのに。三人でこの秘密の共有を楽しめばいいのに。 見知らぬ洞窟から彼らは通路へと戻り、階段を上って、一階の廊下に出ました。その直前に、彼らは足元を吹き抜ける風を感じました。その風は蓋の下へ、地下へと潜っていきました。石扉を閉めると、三人は顔を見合わせ、今の風は少しおかしかったのではないかと言い合いました。それだけで彼らは別に臆しませんでしたが、そう言い合える奇妙な風だったのです。 そのときです。こんこんと、足元の床を叩く音がしました。彼らは押し黙り、視線を合わせました。カムサロスは、二人のどっちが叩いたのと言いましたが、勿論、彼らにはわかっていて、さっき閉じた石床が下から叩かれたのでした。 ハムザスは扉を開けてみようと言いました。気になることは放ってはおけなかったのです。しかし、テオラはこれに反対しました。彼女は何か嫌な予感がしました。今回はおもしろさは微塵も感じず、離れた方が良いという直感が働きました。ところが、カムサロスは開けてみたい、と言いました。少年は彼なりにいろいろと考えていましたが、自分の勇気を見せようとする魂胆が勝りました。だから、彼が水槽の上に死体を発見した際も、叫び声をぐっとこらえて戦利品を獲得したのです。二対一でした。テオラは力強く開けてはならないと言えませんでした。 石の扉を開けて、実際に起こったことは、カムサロスが手に持っていた小瓶を下に落としたということだけでした。瓶はころころと転がり、階段の下の通路も、止まる気配がなくどこまでも進んでいきました。それだけでしたが、三人は扉を閉めた途端、小鹿のように跳ね上がり出口に向かい猛烈な速さで逃げました。彼らが我先にと外へ躍り出ると、全員がもう噴水跡のある広場に集まっていました。 皆のところへ駆けていって、ぜいぜいと息をつき、三人はほかの十二人を驚かせました。「どうした?何があった?」ラベルが真っ先に駆け寄り尋ねましたが、三人とも息を飲むので精一杯で、思うように言葉が出てきませんでした。やっと落ち着いてきたテオラが、一言一言、声を絞るようにして言いました。 「あの、匂い、が…匂い、するの、わかる?」 ラベルは怪訝な顔をしましたが、注意深く鼻を効かしてみると、彼女の言うとおりふんわりした芳しい香りを感じました。 「ああ、いい匂いだね。けれど、これが?」テオラがまた息を弾ませましたので、ラベルは続けて、「花水かなにかを発見したのかい?」 「ううん、それより、もっと濃い…これくらいの、小さな瓶に、入ってたんだけど」 「それで?」 彼女は手で頭を抱え、うんときつく締めました。そうすることで、突然襲われた恐怖心から、理性を切り離そうとしたのです。 「あの、床に扉があったの。隠し扉みたいに、地下につながってて、それで、その先に行ってみたら、洞窟が広がってて…」 洞窟…?わっと湧く声がありました。皆、彼女の話に釘付けになりました。 「そこで見つけたの。でも、そこから戻って、蓋を閉めたら、床下から音がして、こんこんって、私、やめた方がいいと思ったんだけど、床石の扉をもう一度開けたら…」 ごくんと唾を飲み、彼女は付け足しました。 「ばあって白い風が起きたの。それで、その白い手の先が、カムサロスの手にある小瓶を触ったの。それで、瓶が床に落ちて、階段から下へと落っこっていったのよ。あれは、洞窟に棲む、魔物か何か…そう、幽霊!幽霊だったんだ!」 ラベルがテオラの肩を掴みました。 「もう大丈夫だから!ご苦労さん、ゆっくり休むといいよ!」 彼らは三人を噴水の跡の縁に腰掛けさせ、まだ家の中を探索してなかった者たちは屋敷に入り自由な見学を許可されました。テオラの話は怖いものがありましたが、まだ恐怖何するものぞという気概が、各人には具わっていました。彼らはそれにだんだん慣れてきたのです。しかし、使用人宅に入った三人は地下から帰る際仲間にそれぞれ肩を持たれながら、つらい表情で、滅びの都市を後にしたのでした。
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