破滅の町 第一部
第一章 白き町と破滅した街 3.古の幽霊

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 かつての黄金都市の上には、木組みと土壁とがかぶさるように広がり、天井を塞いでいました。そこへさらに固い土台を築き、倒れぬようにして、都の上に彼らの白き町はできあがっているのです。海側は塗壁で遮りその外側に岩を組み、苔や蔦などで覆い、ただの岩壁にしか見えないようにしています。都市は、丘様のドームに覆われて、ほとんど暗闇の中にありました。ただし、海側の上方に若干の隙間が見受けられました。そこから淡く外の明かりが差し込んでいますが、頼りになる光はこの陽だけで、地面は暗い帳に深く覆われていました。ここに今も上の町からの出入り口があるのは、外側から黄金狙いの盗賊が現れたときに、人々を送り込む必要があるからでした。しかし不用意に入ってはならないよう、入り口には仕掛けや工夫が施されていました。二人以上の大人の男がいないと動かない大岩で塞いであるもの、鍵が必要なもの、少し特殊な開け方を知らなければならないものなどです。イアリオは、そのうち一つの入り口を使い、地下へと潜っていきました。その場所は、かつて彼女たちが子供の時分潜ったことのある穴とは大分はずれた所の、建物の少ない野原の茂みの中でした。土を払うと扉が見えました。しかし、その扉は見た目真正面にある荒れ家の蔵か何かに通じる小戸の感じがしました。その入り口は鍵の必要な玄関でした。彼女は、小さな青銅製の鍵を取り出して(こうした鍵は評議会預かりの倉庫にある金庫に保管されている)、石扉のくぼみの隙間に差し入れました。かちっと音がなり、イアリオはそろっと扉を手前に引きました。大人一人分の大きさの真四角の穴が、外に向かって冷たい空気を吐き出しました。彼女は周りに誰もいないのを確認して、するりと穴の中に入っていきました。  そこは懐かしき街並みの広がる石組みの路地でした。イアリオは、ここから子供の頃皆で遊んだ街の一角はどのあたりにあるだろうと想像しました。ですが、今はそんなことをする目的でいるのではありません。彼女は、視線の主を探しにいかなければならないのです。彼女がそれだけその感触に拘ったのはわけがありました。袋小路から飛び出てきたあの少年の面差しが、彼女のよく知った人間に似ていたからでした。アステマ=ピロットは、十二歳のときに行方不明となりました。その彼が、当時侵入してきた二人組みの盗賊と、いろいろと話をしたあとの表情にそっくりだったのです。少年の面差しは、彼を思わせました。それでいてもたってもいられなくなったというのが、本当の理由でした。眼差しの人物がいたかどうかは、この際あまり関係がなかったのです。けれども、それは彼女自身がそう意識しただけで、本当の感じは、むしろ、事実でした。  彼女はこの場所に入るのは最近で三度目でしたが、もはや勝手知ったる様子で、すたすたと恐れも知らず歩いていきました。松明の灯を手がかりに、まだ知らない街並みを進む脚にも、相当に慣れた感じでした。それもそのはず、彼女は仲間たちと一緒にこのしんとした街の探索に、十分な時間をかけていたからです。子供の頃とった杵柄は、今でも生きています。彼女は、十年ぶりに入ることになったこの暗闇の世界に、非常な恐れを抱いていましたが、いざ挑んでみれば、懐かしい感覚が蘇ってきたのです。それは、山野を飛び回る子供時代を過ごした大人が、思い出の山を見て感じるうきうきした気持ちでありました。彼女は、この暗闇がいかに恐ろしいものであるか今では十分に承知していましたが、やむにやまれぬ感情が、体全体をこの地に行かせたのでした。今でこそ見えてくるものが、溢れんばかりにありました。そして、彼女は祈る気持ちになりました。  この場所で、彼はいなくなった。私は、いったい何ができただろうか。  子供であった頃の当時…彼女は、それが自分のせいだと思いました。なぜなら、盗賊たちと通じたピロットの言うことを無下にして、自分は大人たちに通報してしまったからです。黄金を狙いにやってきた二人組を、彼はなんとかして己の力で追い返すと言っていました。その時、もう一人の行方不明の仲間がいたからです。すべてが明らかになってしまえば、もう二度と、彼らは地下の興味深き探索の遊びに行けないどころか、折角培ってきた十五人の運命共同体も、脆くも崩れてしまうのでした。けれど、どうしても彼女は通報せざるをえませんでした。約束をした彼もまた行方知らずとなり、言う通り一日だけ待った彼女のところへは、なんの報告もなかったからです。イアリオの報告の直後、大人たちは次々に地下都市へ繰り出し、盗賊たちを追い詰め、これを退治しましたが、その後ピロットは完全の行方不明となり、死かあるいは生かの消息をも絶ってしまいました。彼女は、非常な苦しみを覚えました。天に祈らざるをえませんでした。そのときと同じ気持ちに…今なっていたのです。  彼女はすべてを思い出しました。イアリオはすべてに祈り念じたい心でいました。蔵を壊し、出てきた無数の死骸にも、子供の時分の自分たちにも…。彼女は、ふと思い立って、かつて仲間だった人たちと会話がしてみたいと気づきました。今なら、十年ももうたったのだから、あのときの話を、自由にできるかもしれない…彼女は、この思いつきがとてもいいことのように感じました。イアリオはつと出口に向かい、はたと足を止めました。そうだ、テオルド、彼はどうだろう。彼女は現在図書室の司書を務めているカルロス=テオルドに、まずこのことを相談してみようと決めました。  恐ろしいことは、この時、彼女の身の上に起こりました。いいえ、それはずっと以前から、霊魂の結び付きといえるすさまじい過去の忘却された記憶から、いみじくも彼女が授業で伝えたような、忘れられし歴史の国の影から、それは現れてきました。彼女が見たものは、白い影でした。それはふわふわと地面の上を浮遊し、つとこちらを振り向いたように見えました。彼女は、目をしばたたきました。初めて幽霊というものをこの目で見たからです。いいえ、当然、この暗黒のなかにはそのような存在がいてもおかしくはありません。ところが、こんなにもはっきりと見えたのは、子供の時分でもなかったのです。不意に冷たい風が背後から吹きました。ぞくりとした気分が背筋を覆いました。彼女は身構え、自分が演じたのとは違う本物の亡霊を前に、恐れおののきました。亡霊は薄い白色の衣を着ており、引きつったような薄皮の唇を、真一文字にきゅっと閉じています。その目は大きく、まるで過去か未来を見据えているかのような、遠い眼差しをしています。その焦点がこちらに合いました。彼女は、強い胆力をもってこの眼差しを受け取ろうとしました。というのは、もしかしたら、彼女らが誤って(それこそいまや誤りだったことが、彼女にはよくわかっていました)打ち壊した蔵の幽霊かもしれないと考えたためでした。彼女は自分の子供時代にも、またこの地下街の全体に棲まうであろう亡霊たちにも、済まなさがありました。そのために彼は、いなくなったかもしれないのですから。  幽霊はまるでその目を恐れたかのような、妙な素振りを見せました。正面からの眼差しを受け止めきれなかったのは、あちらでした。しかし、不思議な風が巻き起こり、イアリオをその霊の方へ押しやるように吹雪きました。その時、霊は何事か言いましたが、震える糸のようにか細いものでしたから、なんとなく理解できたこともはたして正しかったのか、彼女には判断がつきませんでした。ですが、「おいで」と誘っているようには見えます。彼女は、幽霊のあとをついていくことにしました。  亡霊は、一見して男性か女性かわかりませんでしたが、後ろ姿は女性のものでした。風貌はまこと性別の判断が難しく、見え透いた眼光は超然として不思議なものそのものでした。背丈は彼女より若干低く、髪型も女もののようなのですが、どこか威力ある存在感は女性が醸し出すのとは別個のものでした。しかし、背中をくるりと向けるとそれは「女」を訴えていたのです。この女こそ三百年前恨みを吐き散らしながら死んでいった未亡人だということは、今も未来も彼女の気づくところではありません。  前を行く幽女の霊気は冷たく後を行くイアリオに降りかかってきました。冷たさが下から這い上がり、身震いするほどの寒さが満ちてきたことに、吐く息が白くなってやっと彼女は気づきました。そこまで寒冷が町を襲うことは滅多になかったために、イアリオもこの亡霊の持つ力を恐れ始めました。すると、前を行く女が足を止めて、こちらを振り向きました。そこは壁の崩れたある大屋敷の真ん前でした。急に冷気が増したので、彼女は危険を感じて、あとじさりしました。  幽霊の眼光が大きく恐ろしく輝き出しました。ここで餌食にしてしまおうと、彼女を見据えたのです。言い知れぬ危険と、測ることのできない恐怖とが、眼前を駆け抜け、後ろ側に回りました。彼女は囚われた乞食のように動くことができなくなりました。  すると、天井から光かなにか、さああと降り下り、亡霊の周囲を柔らかく包みました。幽霊は嗚咽しいやいやと首を振りました。その女にとってなにかいやらしいものが下りてきたに違いありません。苦痛の言葉を地面に振り撒き、亡霊はゆっくりと天に昇っていきました。その途中、白い衣の女はイアリオに向かって目を細め、真横の庭を指差しました。イアリオは茫然とその様子を眺めていましたが、やがて淡い光に女が掻き消えてしまうと、ようやく自己を取り戻し、体に自由がきくようになりました。  彼女は、女の指差した庭の奥の方を、崩れた壁から覗き見ました。そこには無骨な佇まいの一個の岩と、その足元の黒い背表紙の本があります。彼女は、おそるおそる邸宅の庭先にお邪魔して、その本に近づきました。そしてはっと、身を翻しました。近くに人の骨があおむけに転がっていたからです。彼女はじっとその骨を見ました。どうやら女のものではないと思いました。ただし、骨格は大人のもののようにがっしりと整ってなく、子供のものが、そのまま大きくなったような妙な印象でした。  彼女はこの遺骸に手を合わせ、そして岩の麓に置かれた黒表紙の書物に手を伸ばしました。ゆっくりと、それを持ち上げると、黒いインクが揺らめく炎に光りました。よく見ると、黒に黒を重ねていたので読み取るのに大変でしたが、昔の文字で「我が日記」と書かれていました。もしかしたら、三百年前、この地で死んだ人間の著したものかもしれません。彼女はその下に小さく筆者の名前が飾られているのにも気づきました。目を細め、なんとかして読み取ると、そこには「ハルロス=テオルド」と銘打たれていました。(テオルド…?まさか、カルロス=テオルドの、御先祖様なの?)これで、なおさら彼女はテオルドのところへ行ってみる必要がありました。評議会の決定事項として、地下から何も持ち出してはならないことになっていたのですが、もし直接に現在の町人に関係するもので黄金と何も関わりがないものだったら、咎められることはないだろうと彼女は思いました。  イアリオは、黒い本を掲げ、この町全体の暗黒に向けて、宣言しました。この本は、まだ暗闇の所有物だからです。私はこの本を持っていく。どうか、そのことに耳目を置かないように。いにしえの人々よ、私を許してください。そう彼女は念じたのでした。  どこからか応えがあったようです。彼女は背後を振り向きました。死んだのか生きているのかわかりませんが、彼女がいまだ愛している彼が、そっと傍に立って、亡霊たちを慰めていたように感じたのです。その時、イアリオはまたいてもたってもいられない衝動に駆られました。ここにいる亡霊たちを慰めなくては。ずっと地下の暗がりにいて、誰もが顧みてこられなかったのだから。誰もが封印され、上の町の人々に供養されてもこなかったのだから…!彼女は静かに目を瞑り、地下の静寂に耳を傾けました。暗黒の内部にひっきりなしに嘆く人々の怨念と想いとが渦巻いて聞こえました。そうにちがいないのです。この街は、忘れられしふるさとで、その子孫からも忌み嫌われる魔の国なのです。ですが、彼女らの祖先なのです…!  誰かが慰めなくてはならない。このある一人の女の中に起きた衝動は、三百年たってようやくかの町に芽生えた正確な心情でした。それまで、人々はこの暗黒を恐れて、過去を恐れて、未来を恐れて自らを呪縛していたのです。しかし、自由は苦しみを伴います。これから紡ぐ物語はそれこそを語っていくのです。

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