このクソみたいな世に祝福を
3 クソみたいな世の中

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「ちょっと、いいですか」  店長の声に、私の肩がぶるりと震えた。  私は恐る恐る背後を振り向く。そこに立っていたのは鬼……じゃなくて、私が勤めているこのドラッグストアの店長だ。わ……私ですか? と目で問うと、彼はそのお饅頭のような顔にしわを寄せて、無言で休憩室の方をあごでさした。  時刻はもうすぐ昼。シフト終わりの午後まであと少しだと浮き立ちかけていた心が、鎖でぐるぐる巻きにされて崖の底に突き落とされた。  ああ、また、いつもの「ちょっと、いいですか」だよ。  私はトボトボと休憩室に向かいながら、魂が抜け出そうなほどに深いため息をついた。  店長の発する「ちょっと、いいですか」。それは我が店舗のデスワードだ。その台詞とともに呼び出されたスタッフは、その後この腐れ店長からお説教をお見舞いされることになる。その死の淵でも除いたことがあるような暗い陰気な目で見つめられながら、お経を読むように発せられるお説教は、陰湿かつ執拗。感情的であり非論理的であり、理不尽。なんの成長にもつながらず、ただただそれを受ける者の心を疲弊させるだけの、百害あって一利ないものだ。  それがある日あるとき、何の前触れもなく突然発生する。ゲリラ豪雨も真っ青の、ゲリラ説教だ。正直受ける者もなんで説教されなければならないのかわからない。なのでスタッフ一同、いつその「ちょっと、いいですか」をくらうか、びくびくしながら過ごしている。 「さっきみてたらさあ……」  休憩室でねちねちと説教をはじめた店長の前で、私はできるだけしおらしくしながらそのご高説を拝聴するふりをしていた。内容はよく頭に入ってこない。細かすぎて理解できないのだ。本当に些細なことにこだわって言いがかりをつけてくる。台の隅を指でぬぐって「埃がついてる!」と大騒ぎする姑みたい。埃がついてるとかだったらまだわかる。意味不明な自分ルールや自分マナーをつくりだして、それと違うと騒ぎ出す。それのどこが問題なの? というようなことばっかり。俺は気づいているというアピールをしてマウントとりたいだけなのか。もちろん本人には言わないけど。そんなことしたらこの世の終わりのように罵られ、たたでさえ長い説教の時間がエンドレスに続いてしまう。 「もっと注意をはらって過ごしなさい」 「はい……」  私なりに注意している。あんたが細かいだけだよ。 「前々から思っていたけど、君には気合が足りない」 「すみません……」  これでも頑張ってやってるんだ。 「君はやる気がないんだろ。見ていてわかるよ」 「……」  お前に私の何がわかるんだ。 「そもそも君は地味すぎるんだ。女はもっと華やかにしてないと。だから三十近くにもなって彼氏もできない」 「……」  大きなお世話だ。 「アニメばっかり見てるからいかんのだ。バラエティー番組でもみなさい」 「……」  アニメの何が悪い。お前の価値観を押し付けるな。  マーライオンのごとく噴出しそうになる反論を、すべてググっと喉の奥に押し返して、私は頭を下げ続けた。  ようやく解放されてフロアに戻ると、非常に体が重たく感じた。急に重力が何倍にもなったみたいだ。疲労が肩にのしかかって、私を床に押し付けようとする。フロアに流れる音楽も、お客さんやスタッフさんたちがつくりだすざわめきも空気もみんな、質量をもった物質のようだった。  店長は同期のエリカと楽しそうに何かくっちゃべっていた。エリカには店長は甘い。あの娘は店長のお気に入りだから。恨めしそうに彼女を一瞥する私にきづいた店長が、おっかない顔をしてにらみつけてきた。とろけきった表情が途端に地獄の番人のそれに変化する。やば。働かなければ。 「い……いらっしゃいませぇ~」  足をひきずりながら持ち場へともどる。私の発する挨拶は、お客さんからはきっと捨て犬の遠吠えに間違われたに違いない。 「ねぇ~。阿久津さ~ん。ちょぉっと、いいかなぁ」  なんとか今日の仕事を切り抜けた私に、エリカが甘ったるい声で話しかけてきた。「ちょっと、いいかな」とか、そのデスワードをつかわないでくれ。わざとやってんのか。っていうか呼び止めるなよ。私ははやく帰って寝たいんだ。明日は待ちに待った休日。一週間の唯一の楽しみ。ああ、はやくあの店長のかもしだす威圧的な空気から解放されたい。  そんな私の気持ちを察してくれることもなく、エリカは私の前に立ちはだかった。 「ね~、ちょっと頼みがあるんだけどさ」  そして手を合わせて私に頭を下げる。その瞬間、むくむくと嫌な予感が雷雲のように私の胸にこみあげた。 「午後のシフト、代わってくんない?」  嫌な予感的中。でたよ、エリカの「シフト代わって」が。たまに彼女はそうやってほかのスタッフの休みを奪い取る。代わってと言っておきながら、エリカが後で代わりに働いてくれることはない。つまりは自分の仕事時間が余分に増えるだけ。店長のお気に入りだからできる芸当だ。  嫌だ。無理。断る。……と言いたいのだけれど、自己主張が苦手な私は黙り込んで、もごもごと口の中で言葉にならない抗議の声をかみしめるばかりだ。 「でも……午後は……」 「ねえ、お願い。私、デートがあるからさ」  なんでお前のデートのために私が仕事しなくちゃならないの。 「でも」 「阿久津さんは何か用事でもあるの?」 「特に……ないけど……」  あるよ。休息という大切な用事が。 「ならいいじゃない。ねえ、いいでしょ。きまり。じゃあね」  一方的に決めて、エリカは颯爽と帰っていった。解かれかけていた心の鎖にさらにいくつもの鉄球が括りつけられて、私はぐったりと休憩室の椅子に沈みこんだ。  仕事をやる気などまったく起きぬまま、私はほとんど放心状態で午後の時間を過ごした。  店頭に立って、ぼんやりと土曜の午後の往来を見つめる。一点の曇りもなく晴れ渡った空からは、五月の明るい陽光がさんさんと注いでいる。白い光を散らしながら新緑の街路樹が眩しく揺れ、その下を様々な人たちが笑顔をはじけさせながら歩んでいく。  仲のよさそうな女子高生のグループ。  ベビーカーをひいた母親。  手をつないだカップル。  スーツ姿のビジネスマン。  日傘をさした上品そうな淑女……。  彼らのその笑顔には今この時間への満足が、未来への希望が、隠しようもなくにじんでいるように思える。みんなみんな、望むものを手に入れ、人生を謳歌しているしているように見える。私のような陰気な人間を薄暗い日陰に追いやって、明るい陽のもとを闊歩している。 「何をやっているんだ!」  背後から怒鳴りつけられて、私はけだるく振り向いた。腐れ店長だ。私がぼんやりしているので、注意しに来たのだろう。 「君。仕事中なのにぼんやりして。さっき注意したばかりだろう。気合を入れろ」  威圧感たっぷりに腕組みをして胸をそらし、またくどくどと何かほざきはじめる。しかし何を言っているのかわからない。不思議なことに、彼の投げつけてくる声は私の耳に入っても、意味のある言葉として処理されなかった。ただただ耳障りな音声として雑踏のざわめきと混ざり合い、反対側の耳から出てゆくばかりだ。  なんで、私ばっかり。  店長の説教を聞き流しながら、私は思う。  私は今まで、人に迷惑をかけずに真面目に生きてきた。仕事もきちんとしている。自分で稼ぎ、そのお金でつつましく暮らしている。それなのになんで、同窓生からは嘲笑され、同僚からは仕事を押し付けられ、上司からパワハラまがいの叱責を受けなければならないのか。 (この世は、不公平に満ちている)  ふと、先日あの教会もどきのステージで演説したキウラさんの声が、脳裏によみがえった。 (私はこんな世の中が許せない。このクソみたいな世の中の、クソみたいな不公平は是正されるべきで、我々はそのために小さくとも力を尽くさねばならないと思うのです)  涼しい、水気を含んだ風が私の頬にあたった。揺れる街路樹の枝に顔を向け息を吸う。胸にしみこんでいく空気は甘く、清涼感があった。 「本当に、そうね」  私はつぶやく。 「何? 何を言ってるんだ。ちゃんと俺の話をきいているのか」 「聞いてねえよ。お前のクソみたいな説教なんざ!」  店長の言葉にかぶせるように言い返し、にらみつけてやる。この視線で奴のしわだらけの眉間を刺し貫いてやるほどに。  意表を突かれて言葉を飲み込んだ店長の顔が、見る見るうちに赤くなる。プルプル震えるその口が、「く」の形になっている。  クビか。それもいいや。こんな店、こっちから辞めてやる。  その時だった。突然、私たちの傍で悲鳴が上がった。振り返った店長の顔が青ざめる。そして、私の顔もきっとそうなっていただろう。  そこにいたのが、キウラさんだったから。

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