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 この日の夜は良く晴れていた。東京のことだから星はあまり見えないが、真ん丸なお月さまが夜空を煌々と照らし、住宅の瓦屋根に濡れたような白い光が流れていた。  その空き家は、世田谷の支部の近所にあった。小さな庭のある、ぼろい木造二階建ての建物だ。以前はどこかの学校の寮だったとか。なるほど何人かの学生が住めそうなほどに大きくはあるが、もちろん往年の活気など微塵も感じさせない。住人がいなくなって髑髏十字の牢獄と変わり果てた今では、それにふさわしいおどろおどろしさを夜の風景ににじませていた。 「あそこに、妹さんと、恵子はいるはずだよ」  電柱の陰からのぞきながら私がささやくと、南条君は緊張した面持ちでうなずいた。  南条君の妹、理絵さんはここに囚われている。そして恐らく、恵子も。ここまでくる道すがら南条君は何度も彼女と連絡をとろうとしたが、結局一度たりとも電話はつながらなかった。私の仲間が彼女を捕らえたとみて間違いなさそうだ。  壁に並ぶ窓からは薄暗い灯りがもれている。だが、その灯りに映し出される人の姿はない。人がいないように見せかけているのだ。そしてのこのこと救出しに来た奴を物陰から襲い捕らえる。だが今は、キウラさんに連絡して襲撃班の世紀末四天王を退かせてある。「私に面白いアイディアがある」という何の説得力もない訴えに、彼女が納得してくれたかどうか。彼女が南条君の存在を察知して、「ではもっと面白くしてやろう」などと言って変な行動に出ないことを今は祈るばかりだ。 「ありがとう。マコ」  突然、南条君が私につぶやきかけた。 「君だって奴らに捕まったらひどい目にあうだろうに。こんな危険を冒してまで助けてくれて。やっぱり君は、優しいやつだよ。ありがとう」 「そんな……。そんなこと、ないよ」  そう返答しながら、私はちょっと嬉しかった。一瞬だけ昔に戻ったような気がしたから。行方不明になった犬を一緒に探したあの日のように、彼の隣にいて、彼につくす。彼が私を頼ってくれて、私を褒め、私に笑顔を向け、私に優しくしてくれる。そんな関係が続けられたらどんなに良かったろう。そして大人になって、お互い惹かれ合って……。  近くの家の庭の茂みからリンリンと、虫たちの楽しそうな鳴き声がうるさいほどに流れてくる。夜空に届けとばかりの大合唱だ。虫としてのライフを謳歌しているのであろう。恋人探しに必死なのかもしれない。虫ですら……といつもなら被害妄想に突入するところだが、今は妙にロマンティックに感じられる。だけどそんな気分にいつまでも浸っている場合ではない。私は膨らみそうになる妄想を振り払って、彼らの鳴き声に追い立てられるように柱の陰からおどりでた。 「さあ、南条君、いくよ。君の大事な人に合わせてあげる」  寮の内部は外観どおりシンプルなものだ。  正面の入り口を抜けるとカウンターとロビーがあり、その奥に廊下が伸びている。廊下に沿っていくつかの部屋が並ぶ。部屋の入り口についているのは普通のあパートや寮であればノブのついたドアであろう。しかしこの建物の各部屋にはそれがない。ドアの代わりにはめられているのは鉄格子だ。その黒光りする物騒な格子のドアこそが、ここが寮ではなく牢獄であることを強力に主張している。  私たちは正面入り口ではなく、裏口から入った。正面のロビーにはキウラさんがいることになっているし、そもそもこっそり忍び入るのに正面から堂々と入っていこうというのは明らかに怪しい。ここは私が髑髏十字を裏切っているという体裁も取り繕わなければならないのだ。間違ってもキウラさんたちと仲良く話している姿なんか見られてはいけない。  裏口を抜けると一階廊下のどん詰まりで、一番奥の部屋の格子戸が目の前にあった。目を凝らすも、人の気配はない。その部屋は無人のようだ。声を殺し、足音を忍ばせながら私たちは暗い照明の落ちる廊下を進んだ。シミのついた板張りの天井からつるされた、傘のついた戦時中のような裸電球丸出しの照明。何十年も前から巣食う亡霊でも映し出しそうだ。  奥から二番目も無人。三番目も……。四番目の鉄格子の前で、私は足を止めた。 「南条君。灯りが」  南条君が格子戸のそばにより、早口で恵子の名を呼んだ。部屋の奥でモゾモゾと影が動く。やがて戸口までやってきた女の人は、暗がりでもとても美人であることがよくわかった。  女の人が格子戸のすぐ向こうに立ち止まり、廊下の電球が投げかける光の中に姿を現す。それと同時に南条君は鉄格子にしがみついた。 「恵子。大丈夫か。恵子」 「ああ。ジョー。来てくれたのね」  感動のご対面だ。二人とも、格子戸を挟んでお互いの頬にふれあい、今にも抱きあわんばかり。泣きだしそうな表情で湿り気のある声音で言葉を交わす。  逢いたかった。ええ、私も。怪我してないか。大丈夫、ジョーこそ危ない目に合わなかった? 僕は平気だ、君を助けるためなら何でもする。ああ、ジョー……。  甘ったるい言葉の応酬。そして目の前で繰り広げられるイチャイチャ。見せつけてくれるじゃないか。私もここにいるんですけどね。そういうのは二人だけのときにしてよ。これじゃ、まるで私なんかここに存在してないみたいじゃない。  わかっていた。わかっていたけど、実際目の当たりにすると、思った以上にこの光景は辛かった。外にいたときに桃色の妄想をしてしまったことがバカバカしくなる。なにが大人になって惹かれ合って……だ。そんなこと、ありえなかったのに。可能性なんか万が一にもないのに。私は一体、何やってんだろう。  惨めだった。いたたまれなかった。目の前で繰り広げられるラブシーンから逃れるように、私はズルズルと後ろに下がった。 「ひでえ光景だ。虫唾が走りますねぇ」  突然背後の暗がりから声がして、叫びそうになる。必死に口を押えながら振り返ると、そこは階段下のスペースで、キウラさんが光の届かぬ階段下の壁に背をつけてニヤニヤしていた。 「ひょっとして、真子さんの言う面白いことって、あれですか」  ククク……と彼女の笑い声が不気味な生物の鳴き声のように流れてくる。彼女がゆがめたその口元にのぞく犬歯が、暗がりの中でギラリと光った。 「感動の対面をさせた後に、女の目の前で男を捕らえ、ひどい目に遭わせる。逆もいいですね。救出に来た男の目の前で女をひどい目に遭わせる。確かにこれは面白い。さすが真子さんだ」 「ちょっと待ってキウラさん。違うの」  ずしゃりとキウラさんの影が動き、今にも鉄格子前の南条君に突撃していきそうなそぶりを見せたので、私は慌てて彼女を制した。  キウラさんが不審そうに眉をひそめる。 「違う? 何がです。あなたが好き好んであんな唾棄すべき場面を演出するとは思えませんが」  そして南条君たちのいる部屋に視線を向けた。彼等はまだ格子戸を挟んで何事かつぶやき合っている。それを見るキウラさんの顔が、たちまち三カ月放置したヨーグルトの蓋を開けたときみたいに歪んだ。 「まったく、反吐が出ますね。あなたもそうでしょう。ああいうの大嫌いなんじゃないですか。再会させて、存分にイチャイチャさせてから、ぶち壊すつもりなんでしょう」 「そうじゃないんだ。……彼らに関しては、そうじゃない」  さっき感じた惨めさを思い出し、ズキリと胸が痛む。キウラさんの言う通り、あんなラブシーンなんか見たくない。他人の幸福なんて心底どうでもいい。だけど……違うんだ。南条君のそれだけは、違う。 「ねえ、キウラさん。あの二人だけは助けてあげられないかな」  私の訴えに、キウラさんは黙り込む。だが南条君に突撃するのはやめたらしく、また暗い壁に寄りかかり、そして大きくため息をついた。 「残念ですねぇ、真子さん。とても、残念です」  彼女のその言葉と同時に、まるでそれが合図だったように、それまで誰もいないと思っていた恵子の両隣の部屋の格子戸が開いた。

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