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「いったいどうなっているんですか」 「私にもさっぱりわからない。確かにスプレーはすり替えたのに」 「そのスプレーを間違えた可能性は?」 「ない。何度も確認したんだよ」  ホールから忍び出た私とキウラさんは、言い争いながらずかずかと舞台裏までの廊下を進んでいた。何の齟齬があったのかはわからぬが、失敗したものはしょうがない。原因を突き止めてスプレー作戦を練り直している暇もない。残念だが、この作戦はあきらめなければならない。 「よし。かくなるうえは、作戦Bに変更しましょう」 「うん。ちょっと乱暴だけど、しょうがない」  我々はスプレー作戦がうまくいかなかったときのために、もう一つ作戦を練っていた。作戦B。題して『呪いの藁人形作戦』。一番盛り上がるシーンで一瞬だけ照明を落とし、その間に呪いの藁人形を舞台上にまき散らす。私とキウラさんが夜な夜な作った四十九体もの呪いの藁人形だ。ただの人形と侮るなかれ。想像してほしい。真夜中の薄暗い教会の隅で独身アラサー女二人が、額を寄せ合って藁人形を編む姿を。過去のあんなことやこんなことを想いだしてはむせび泣きながら作った、その人形の一体一体には、我々の涙と怨念が染みこんでいる。彼等にはきっと、どんな幸福の絶頂にいる者の心をも曇らす負のエネルギーが詰まっていることであろう。これを見たが最後、もう二度と幸せな自分に戻ることはできなくなるに違いない。  廊下から舞台裏に忍び込んだ私たちは、そこで二手に分かれることになった。キウラさんは照明の操作室を襲って光を消す係。私はそれを待って藁人形を舞台袖からまき散らす係。  舞台裏の空間は暗くて、そして客席から見ていた舞台よりも広大だった。天井は夜空のようにつかみどころがない。その暗く定かでない天井から、大きな板や幕がいくつもぶら下がっていた。大道具やら衣装やらが乱雑に置かれた舞台袖には大勢の出演者やスタッフが待機していて、舞台へと出たり入ったりを繰り返している。 「じゃあ、ここで別れましょう。成功を祈ります」  キウラさんが差し出した握りこぶしに、私も自分のこぶしをあてる。 「キウラさんこそ。武運を祈っているよ」  キウラさんはニコリと彼女らしからぬ優し気な微笑を浮かべてから、手を振って暗がりの人ごみの中へと姿を消した。  さて、残された私は舞台裏で働くふりをしながら、時に大道具の隙間や幕の陰に隠れたりしてその時を待った。呪いの藁人形は竹かごに入れて布をかぶせてギロチンセットの陰に隠してある。ギロチンは最後のシーンまで出てこないはずなのでまずほかの者に見つかることはないだろう。しかし隠し場所には苦労した。竹かごとは、この中世ヨーロッパが舞台の演目にはあまりに不釣り合いではなかったか。どちらかと言えば『花咲かじいさん』か『かぐや姫』だ。両話に竹かごが出てきたかは知らぬが。いずれにしろ、もし誰かがあれを見つけてうっかりその布をはぎ取ってしまったら、その人物はさぞかし驚愕することであろう。いかにもタケノコでも入ってそうな籠の中に、おどろおどろしい呪いの藁人形が満載されているのだから。  舞台裏の人々の動きが活発になってきた。宮殿での舞踏会のシーンが終わったようだ。この後はヒロインが想い人から告白を受け、両者が結ばれるラブシーンだ。キウラさんと事前の打ち合わせで決めておいた、藁人形をまき散らす場面。 (そろそろ、人形を取りに行かなければ)  私はギロチンの置いてある舞台裏の奥へと向かった。ベニヤ板で作られた大きなセットと奥の壁との間に身を滑り込ませる。そこに寂しげに布をかぶせられた場違いな竹かごが鎮座ましましている。……はずであった。 「……あれ? ない」  私は思わず素っ頓狂な声をあげながら、その暗がりに目を凝らした。手を振り回して闇をかき回し、ギロチンセットと壁の間を何度も往復する、しかし事態は変わらなかった。そこにあるはずの竹かごは、どこにも見出すことができなかったのである。 「君が探しているのは、これかな」  背後から声をかけられて、私の体が反射的に飛び上がる。本日三度目。しかし今度はついでに心臓が飛び出しそうにもなった。今度こそ悪だくみのまさにその最中だったのと、その声に覚えがあったから。  私は恐る恐る振り返り、その声の主の姿を確認してから、深いため息をついた。  そこにいたのは、予想したとおり南条君だった。黒いスーツを身にまとい竹かごを抱えて、不敵な笑みを浮かべている。先ほど会ったときにみせたような好意的なものではない。獲物を追い詰めたハンターが見せるような、冷たい笑みだった。  その時、周囲に残っていた光がすべて消えた。舞台の照明が落ちたのだ。舞台から漏れていた光もなくなった舞台裏は、突然の出来事に混乱した演者たちの声と足音で騒然としている。 「この混乱に乗じて、この忌まわしい人形をばらまくつもりだったんだな。なんと非道な」  南条君の声は静かだが、そのわずかな震えから怒りを読み取ることができた。 「南条君……。これはどういうこと?」  言いかけて、私はあることに思いあたり、ハッと息をのむ。 「ひょっとして、スプレーも、あなたが……」 「ああ。君がすり替えたいかがわしいスプレーは、ちゃんと僕が本物に戻しておいた」 「どうして、そんなことを」 「僕はね。髑髏十字の活動を阻止するために創られた組織の捜査官なんだよ。同窓会の時から阿久津さんのことは目をつけていた。半信半疑だったけど……やっぱり君は、髑髏十字の工作員だったんだね。……残念だよ」  闇の中で空気が動くのを感じた。どさりと、かごが地面に落とされる鈍い音がしたかと思うと、重たげな金属音が小さく空を裂く。  その時、舞台の照明が再びともった。舞台裏にもわずかに明るさが戻る。彼の手には銀色に光る細長い棒が握られていた。あれは時代劇でよく見たことがある。十手だ。  その不吉な棒を見つめる私の、胸の鼓動がはやくなる。なんだなんだ。その武器で私をどうするつもりだよ。まさかそれで足腰立たなくなるほど私を打ち据えたあげく、舞台につるしてさらし者にしようって魂胆じゃないだろうね。 「覚悟してくれ阿久津さん。これから君を足腰立たなくなるほど打ち据えて、その姿を舞台につるしてやらねばならん。君に恨みはないが、これも任務だ。悪く思うな」  当たったぁ! 私の被害妄想が、初めてあたった。……などと驚き感心しショックを受けている暇はなかった。そんな場合ではない。私は彼に背を向け身をかがめて逃走を図る。しかしここは壁とギロチンに挟まれた狭い隙間。逃げ場なんてどこにあろう。彼が真っすぐとびかかって武器を振り下ろせば、ほぼ確実に私にあたるはず。ああ、ここで私は終わるのか。ナムナム。短く薄汚れた人生だったなあ……。  走馬灯が脳裏を駆け巡る。感慨にふけることおよそ二秒。三秒に達しようというところで、出した足が何かにひっかかって、私は盛大にころんだ。  ああ。やられる。  私は思わず目を閉じる。しかし、何秒かたっても、予測した衝撃は私の体を襲ってこなかった。 「何してるんですか。はやく逃げなさい」  その声に呼び覚まされるように私は目を開け振り返る。キウラさんだ。彼女はギロチン台の上に立って、いつかも使ったバラ鞭で南条君の腕を絡め取り、その動きを封じてくれていた。 「あ、ありがとう。でも……」 「いいからはやく! ここは私にまかせて」  珍しくキウラさんの口調には余裕がない。私は彼女にせっつかれるまま、あたふたとその場から逃れる。脱兎のごとく……と言いたいところだが、慌てふためくあまり足を滑らしたり何かにけつまずいたりしながらの、無様な逃走であったことは言うまでもない。  劇場から無事逃げ出した私は、休日のショッピング客でにぎわう丸の内仲通りを、ひとり放心しながら歩いた。昼の暑さは少し和らぎ、街路樹の緑の葉が静かにそよぐたび、さわやかな風が肌を撫でる。通りのお店たちの向こうに狭く見える空の色も、そこに浮かぶ柔らかそうな雲の風情も、のんびりとしていて優しげだ。まるで先ほどまでの騒動などなかったかのように。しかしそれを見上げる私の心は落ち着きがなく、心臓はその鼓動の音が聞こえるほどに波打っておさまることがない。  考えることはたくさんあった。しかし、頭が混乱して、何一つまとまらない。  南条君の所属している組織って、一体何なのだろう。髑髏十字の活動を阻止するとか言ってたけど、本当に? 何でそんな組織が存在するの? まあ、髑髏十字の存在も謎だけど。キウラさんはその組織のことは知っていたのだろうか。  そうだ。キウラさん……。  私は唐突に、あの舞台裏に残してきたキウラさんのことを思い出した。南条君と対峙して私を逃してくれたキウラさん。彼女は無事、あの場から逃れることができたのだろうか。それとも……。  ふと、背筋に悪寒が走る。舞台につるされさらし者にされて観客の嘲笑の的になっているキウラさんの姿が脳裏に浮かび、私はとっさに踵を返した。そうだ、助けに行かなければ。彼女だけ危険な目に合わせるわけにはいかない。 「なに、うろちょろしてるんですか。いい年して、迷子ですか」  突然声をかけられた私は、しかし今度は飛び上がることはしなかった。かわりにヘナヘナとその場に座り込む。安心して、全身から力が抜けたのだ。 「キウラさん。心配したよぉ」  キウラさんは憮然とした顔をして、左腕を抑えて私の前に立っていた。せっかくのお出かけ用のシフォンスカートがぐしゃぐしゃになって汚れ、ストッキングが破れている。しかし私と目が合うと、ちょっとはにかむようにほほ笑んだ。 「涙目になってますよ」  彼女に指摘されて目をぬぐった私は、立ち上がって彼女の汚れた衣服をポンポンと払ってあげた。 「怪我したの? 大丈夫だった」 「ええ。たいしたことはないです。手ごわい相手でしたが、なんとか逃げることができました。しかし、任務は失敗してしまいました」  腕時計を確認すると、もう、劇の終了の時刻は過ぎていた。ということは、葉山の舞台は無事に終わったのだ。美しく才知にあふれる憎き葉山はカーテンコールで拍手喝さいを浴び、その完璧な経歴にさらに華麗な一ページを追加したのだろう。まったくもって不快せんばん。しかし、今は退こう。命あっての物種だ。  私はキウラさんの身体を抱えつつ劇場の方角の空を振り返る。その時だった。木漏れ日を瞬かせる街路樹の枝の下を、小さな黒い点がよろよろと移動してくるのがみえた。その点はこちらに近づいてきたかと思うと、私の差し出した指にとまる。  それは、まるまる太ったてんとう虫だった。

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