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山の麓の古民家カフェ。僕はカウンター席で経済記事の原稿を書いていた。厨房に立つ妻がカップを二つ棚から取り出す。オレンジ色の夕陽、珈琲の香りに包まれて、僕たち夫婦の一日の仕事は終わる。 記事の最終チェックをしながら珈琲を待っていると、ノートパソコンの横に置いたスマホから、けたたましく緊急地震速報が鳴った。その数秒ほど後、古民家はビシっと大きな音を立てたあとグラグラと激しく揺れた。震度六はあっただろうか、妻は厨房でしゃがみこみ、僕の視界から消えた。棚の食器が床に落ちて割れる音がした。 「大丈夫? 破片に気を付けて!」 そう叫んだもののそばへ駆け寄ることもできず、両手でカフェカウンターの縁を持って踏ん張ったまま僕も動けなくなった。今日もまた強く長く揺れた。揺れがおさまると、割れた食器の片づけを始めた。頭上では自衛隊の輸送ヘリが羽音を大きく立てながら、上空を行ったり来たりしていた。 ここ数年、日本を含めた世界各地で大きな地震が相次いだ。災害は地震だけにとどまらず、巨大ハリケーンや干ばつなどの異常気象が地球全土を襲った。そのため農作物の価格は跳ね上がり、世界は慢性的な食糧不足に陥った。世界中で大きな社会不安が巻き起こり、テロや紛争も相次いだ。今度こそ世界の終わりかもしれない。 あれは高校生の頃だった。僕は雪女に出会った。今僕たちに迫ろうとしている世界の終わりの兆候は、雪女が高校生の僕に教えてくれた未来だった。ちなみに雪女という名称は、その冷淡な口調と、全身青白い光を放った姿から僕が勝手に名付けた仮称であるが、今となっては似つかわしくない呼び名だった。 ◇ 僕の通っていた高校は中高一貫校で共学だったが、クラスは男女別々で男子校のような雰囲気だった。入学当初、田舎町から来たのは僕一人だけで、周りは知らない顔ばかりだった。もともと用心深い性格もあり、新しい友達ができるか不安だったが、その不安は初日のうちに杞憂に終わった。 「入学試験どうだった? 国語、難しかったよね」 「うん、勉強してなかったところがいっぱい出た」 「すごく難しい漢字も出てきたよね、明鏡止水って読めた?」 「メガネの曇り止めだよね? あはは!」 およそ気が合うかどうかなど第一印象で分かるものだ。隣の席にいたヒロトは、どことなく自分と同じ『臭い』がした。仲良くなれないわけがないという根拠のない自信があった。しかし、僕には新天地で二度と触れられたくない秘密があった。 「ダイスケはどこに住んでいるの?」 「言わなきゃダメ? 」 「えっ? 言いたくないの? 」 どんよりとした郷里『荒吐町』の黒い海が僕の脳裏に映し出された。荒吐町では子供たちの遠泳大会が全国的な名物で、町中で泳げない子供は誰一人いなかった。しかし、水が大嫌いな僕はまったく泳ぐことができず、同級生から度々バカにされたものだ。しかも、遠泳大会を仮病でサボったことを日々責められて登校拒否しかけたほどだ。 「潮騒駅から通ってるんだ」 郷里の名前を直接出せば名物の遠泳大会の話が出るかもしれないと咄嗟に警戒し、遠回しな表現でごまかそうとした。 「へえ、潮騒駅の近くなんだ、ずいぶん遠いところから通ってるね」 「うん、まあ……」 「もしかして荒吐町? 」 「うん……」 「え、本当に? 古墳公園のあるところだね、超うらやましい!」 ヒロトの予期せぬセリフのその理由を聞くと、ヒロトも僕と同じく弥生時代や古墳時代などの古代史が大好きな歴史少年だったのだ。 一般に潮騒駅といえば風光明媚な海の観光地であり、山側にある遺跡や古墳の存在など知らない人も多かった。それなのにヒロトは地味な古墳公園をまず挙げるわけだから相当な歴史好きに違いなかった。僕は、入学早々に親友を得たのだ。 ◇ 潮騒駅から僕の家の辺りまでは車で十五分ほど。実は自宅のすぐ裏手が古墳公園なのだ。古墳公園は幼いころからの遊び場で、よくカブトムシやクワガタ採りをしたものだ。いや、正確には古墳公園ができる前の、まだ里山の森だった頃の話だ。 ある時、里山の斜面に大手不動産業者が巨大な分譲地の造成を始めたが、不思議なことに、半年過ぎても一年過ぎても家は一軒も建たなかった。どうやら巨大な古代遺跡が発見され、その発掘調査のため宅地販売が差し止められたらしいのだ。 その後、貴重な遺跡として学界から注目を集めたため国から予算が出て、この場所は古墳公園として整備されることになった。 公園の整備後も調査は続き、僕が高校三年に進級した年の夏、大きな発見があり全国ニュースとして報道された。 「ヒロト、昨日のニュース見た?」 「荒吐古墳? うん、見た!」 「あの墓は絶対に国王級だね、あの銅鏡は位が高い人に贈られる証だから」 歴史に埋もれていた謎の王朝が、僕の住んでいる田舎町に存在したのだ。毎朝の通学電車で古代の歴史妄想が趣味だった僕はとても興奮した。 「うちの近所に日本で一番偉い人がいたなんて感激だよ」 「もしかしたらダイスケが王様の生まれ変わりだったりしてな」 「その可能性もあるよね」 「ないよ!」 「あはは!」 僕は毎日の通学電車の『古代』妄想で何度も歴史シミュレーションを繰り返した。脳内に広がる古代の情景は日に日に鮮明となり、まるで実際の記憶であるかのような錯覚すら覚え始めたのだ。それもあり、ヒロトから王様の生まれ変わりだなどと言われると実に嬉しい気持ちになった。 「玉座があったとすれば、あの立ち入り禁止の場所だろうね」 「そうだね。オレたちでその玉座を探し出して一番乗りで座ってみたいよ」 「いいね、でも玉座の跡だと思ったら王様のトイレだったらどうする」 「それは座りたくないなー!」 しかし新たな王朝の発見には多くの反対説もあった。そもそも王朝の存在を裏付ける古代の文献が残存してないため、単なる地方の一豪族にすぎないと考える研究者も多かった。そのような大して価値のない遺跡に国から多額の税金を引っ張りこむのは税金泥棒にすぎないと、遺跡を利用した町おこしを企てる田舎町の町長を罵る政治論客もいた。 世の中に多くの批判があることを知っていたヒロトは、自分の父親がその遺跡の研究者であることをしばらく伏せていた。しかし、僕が遺跡近くに住み、古代王朝説に批判的な発言もなく喜んでいる姿を見て安心したのか、ヒロトはあるとき僕に告白した。 「実はオレの父さんが発掘調査の主任なんだよ」 「本当に? すごいじゃん! どうしてもっと早く教えて……」 「しっ! 声が大きいよ。父さんから親しい人以外には言うなって言われてるんだ」 「ってことは、立ち入り禁止の場所も入れるってこと? 」 「うん、頼めばオレたちだったら入れてくれると思うよ」 「本当? 頼んでみてよ! 王の玉座を探そう! 」 全国トップクラスの進学率を誇る中高一貫校の生徒たちは、親が大学教授、あるいはエリート官僚、国会議員や地方議員、大企業の幹部だったりすることは珍しいことではなかった。ヒロトのお父さんは国立大学の歴史学教授で、荒吐王朝研究の第一人者でもあり、発掘調査の主任研究員だったのだ。この時ほど、この学校に入学させてくれた両親に感謝したことはなかった。 ◇ 梅雨明け前の蒸し暑い土曜日。エアコンの効いた涼しい部屋でベッドに寝転んで歴史小説を読んでいたらヒロトからメールが入った。 『許可が出たよ! 古墳公園の資料館に十四時集合! 』 その日は読書の日と決めており不意打ちを食らって少し慌てたが、興奮して時間が来るのを待てず早めの昼食を取ってすぐに家を出た。まだ十二時だった。 自宅前の交差点から北側の坂道を一分ほど登るとニュータウン予定地でもあった広大なひな壇が現れる。全域に芝生が敷き詰められて、ところどころに竪穴式住居や高床式倉庫のレプリカが復元されていた。 坂をすべて登りきったところには資料館があり、発掘された土器などが展示してあった。そこに併設された管理棟には、発掘に係る人たちの研究室や事務室が設けられていた。当時、発掘が始まったときに全国から優秀な歴史研究者が呼び寄せられたのだが、ヒロトのお父さんもその一人だった。 二時間ほど早く管理棟に着くと、ちょうどヒロトを助手席に乗せた車が駐車場に入るのが見えた。車から降りてきたヒロトは、着くなり僕を見て吹き出した。 「ダイスケ、早すぎるよ!」 「ヒロトだって早いじゃん」 「ちがうよ、資料館のカフェで父さんとランチを食べる予定だったんだよ」 二人のやりとりを笑顔で見守っていたヒロトのお父さんが会話に入った。 「ちょうどいいじゃないか、二人でランチでも食べたらいい」 「父さんは?」 「今日は寝不足で胃の調子も悪いし、少し仕事が残っているからちょうどよかった。二時間後に管理棟においで」 古墳公園の資料館には公設のカフェテラスが付属しており、サンドイッチなどの軽食を食べることができた。公設のカフェだけあって味はイマイチだが、時間をつぶすには適した場所であった。しかし僕は昼ごはんを食べたばかりで空腹ではなかった。 「実はあまりお腹は減ってないんだ、ヒロトだけ食べてくれよ」 「そうか、実はオレもあまりお腹減ってないんだ……」 「じゃあ二時間なにして時間つぶそうか」 「暑いし、ウォータースライダーで涼もうか」 発掘調査が続く中、町おこしに熱心な町長が大手のアミューズメント会社を誘致して古墳公園内に遊泳施設を作らせた。もちろん水が苦手な僕は、プールなど関心もなければ、なぜ遺跡にプールが必要なのかまったく理解ができなかった 「オレはいいよ、一人で涼んで来いよ」 「ひとりでウォータースライダーなんて嫌だよ、一緒にやろうぜ」 「いいよ、泳ぐって気分じゃないんだ」 「ちがうよ、泳ぐんじゃなくて、ウォータースライダーで滑ろうって言ってるだけだよ」 僕たちが通う都心の学校にはプールがなく水泳の授業もなかった。ついに水から永遠に解放されたと思ったら、この年でまさかの小学生以来のプールだ。僕は断固として拒否すべく、覚悟を決めて自分の欠点をさらけ出すことを決めた。ヒロトは他人の欠点を決して蔑むような人間ではないと五年を超える付き合いからわかっていたからだ。 「ごめん、プールはやめとく。だいたいオレみたいに、泳げないやつがプールに行くなんておかしいよ」 「おかしいって、どういうこと?」 「おかしいっていうか、格好悪いだろ? だって……、泳げないんだよ?」 「やめてくれよ、だったらイケメンのオレだって格好悪いことになるだろ」 「え? ヒロトも泳げないの?」 「うん、まったく泳げないよ。あはは」 驚いた僕はヒロトの顔を見ながら唖然とした。僕の住んでいる田舎町では泳げないことは致命的な欠陥である。それを、こうも簡単に人に話せる勇気に僕は尊敬の念さえ抱いた。 「ヒロトも泳げないのか、なんだよ、オレたち仲間だったんだな! 最高だ! 」 「人間は陸の生き物なんだから、泳ぐ能力は必要ないだろ」 「そりゃそうだけど、小学校の時の水泳の授業はどうしてたの?」 「歩いてたよ」 ヒロトの言葉を俄かに信じられず、僕はしばらく固まってしまった。 「えぇー、プールで歩くって、まじで? 超恥ずかしいじゃん」 「そんなことないよ、ていうか、泳げないんだから歩くほかないよ」 「いや、そりゃそうだけど、女子とか見てただろ」 「ぷっ、昔から他人の目を気にするヤツだったんだな、そんなこと気にする女はこっちから願い下げだし」 僕のこれまでの人生がすべて肯定された気持ちだった。確かに泳ぐことなど生きていく上でおよそどうでもよいことだった。それに気が付くまでに僕は十五年という時間がかかったのだ。そして、その思考を幼い頃から身に着けていたヒロトがとても大人に見えた。 「それよりヒロト、泳げないのにプール行って、ウォータースライダー滑って何が面白いの? 」 「面白いよ! もしかして、ウォータースライダーやったことないの? 」 「うん、ないよ。マジで怖すぎ」 「そうか、だったら浮き輪で浮いてればいいよ。え? 浮き輪で遊んだこともないの? 暑い中で二時間はキツイし、目の保養にもなるしプール行こうぜ」 海やプールなどの水辺に行くということは泳ぐことだと思い込んでいた。浮き輪を使うことも泳げないことをアピールしているようで恥ずかしいことだと考えていた。ところがヒロトには恥ずかしさもなければ、罪悪感さえないことに、ただ驚くだけだった。 古墳公園のプールは、校庭のトラックほどある広大さだった。見渡すとプールには浮き輪を使ってプカプカ浮いているだけの子供や大人がたくさんいた。浮き輪は恥ずかしいものではなさそうだ。 その時、ウォータースライダーでヒロトが滑り降りる番になった。彼は遠くから僕の方を見て右手を上げ『行くぞ!』とサインを送ってきた。僕もそれを見て右手を上げた。 僕は大きな浮き輪にすっぽりとはまりながら目を閉じ水上を漂った。今まで水に対して恐怖しか感じなかったのに、適度な水圧と無重力という相反する感覚が絶妙に混ざり合った心地よさを感じ始めた。 『人間の体の半分以上が水分ということは、水は自分の一部でもあるんだ……。でもこの感覚は過去に味わったことがある。まるで宇宙に漂っているようだ』 瞼の裏で真夏の太陽が真っ白な何もない世界を作りだした。そのうち眠りに落ちて夢を見た。何もない真っ白な夢だ。すると、真っ白な世界の向こうから、キラキラと輝く存在が語り掛けてきた。 (まさか神様? いや、これは夢だ。神様なんていない。) 白昼夢の世界で夢を見ていることに気が付いた僕は不思議と冷静だった。それでも光り輝く存在はこちらを見て何かを話したそうにしているのだが声は聞こえなかった。 (気味が悪いな、神様どころか悪魔かもしれない。いや、悪魔なんているわけがない。誰だろう、何年か昔に亡くなったおじいちゃんだろうか……。いや死んだ人が現れるなんてありえない) 夢の中で努めて冷静さを保持していると、光り輝く存在は全身が青白く光る女性に姿を変えた。得体のしれない存在に一瞬戸惑ったが、その雰囲気に懐かしさを感じた。 「なんだ、君だったのか」 なぜか夢の中の僕はこの女性に会ったことがあると直観的に感じたのだ。誰だったか思い出せないのだが親近感さえ覚えた。 「あなたは今とてもクリアです。この周波数を取り戻すまで時間がかかりました」 青白い女性は抑揚のない口調で僕に語り掛けた。表情はなく冷淡な印象だった。しかし、不自然さを感じるほどの無表情は、次第に不気味さを増し、先ほど抱いた親近感は消えていた。 『まさか、妖怪? そうだ思い出した、これは雪女だ!』 真夏に雪女が現れるのも奇妙ではあるが、これはまさに子供の頃に読んだ絵本に出てきた、今にも口から雪を吹き出しそうな雪女の姿だ。 「あなたは今この瞬間、危機から脱しました」 夢の中で戸惑っている僕を前にして雪女は話し続けるが、その意味はまったく理解できなかった。 「あなたの世界の言葉で言えば最終列車に乗ったのです。」 その時だった、僕は原因不明の不安と焦燥に襲われた。そして、同時に彼女への嫌悪感が芽生えた。 「過去の記憶でしょう。記憶は消去できません。この会話も記憶に刻印されます。」 彼女の命令には従いたくないし、これは時間の無駄だという思考が、僕の意志とは無関係に頭の中に割り込んだ。 「この状態はあなたの意志に反して維持されますが心配は要りません。あなたはただ毎日を楽しく生きればよいのです。ただし……」 原因不明の不安と焦燥は猛烈な苛立ちの感情に変わり、その怒りによる興奮で僕は夢から覚めてしまった。そして、気が付くと浮き輪でプカプカとプールを漂っていた。 つい先ほど、右手を上げて合図を送ってきたヒロトが、たった今ウォータースライダーから滑り降りて大きな水しぶきが上がった。数分ほどに感じた奇妙な夢は、現実ではわずか数秒足らずだった。 (彼女は何者だ……) 夢の中に現れた妖怪雪女。彼女を昔から知っていた気がしたが、誰なのか思い出せなかった。彼女の言葉の意味するところもまったく分からなかった。そもそも、なぜ僕は『危機』に陥っていたのだろうか。そして『最終列車』とは何を意味するのだろうか。とどめに『毎日を楽しく生きろ』などと言われても、今年は受験で楽しいどころではなかった。 きっと水の恐怖から解放されたという感動が、この不思議な白昼夢を見させたのだろうと無理やり結論付けて、僕らは水遊びの時間を終えた。 「浮き輪って楽しいだろ?」 プールから上がったヒロトが得意げな顔をして言った。 「うん、本当だよ、こんなに気持ちいいものだって知らなかったよ!」 僕らは充分に涼んだ後、約束の管理棟に向かった。

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