自習時間 二

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 十月末のこの日は暑くもなく寒くもない過ごしやすい天気だった。日光が柔らかく降り注いでいた。席が窓際の翔は昼食を終えたこともあって軽い眠気に誘われた。ぼんやりしていてあくびが出たところでちょうど五限目の授業の開始のチャイムが鳴った。二分経って三分が経った。社会科の担当の先生がなかなか現れなかった。室長は慣れたものですぐに職員室に向かった。クラスのそこここで話し声がし始めた。立ち歩いている者もいる。もし自習だったらどんな課題が出るのかなと翔は自習を期待しながら待った。 「おいっ、皆喜べ!自習やぞ」室長は教室に走り込んでくると嬉しそうに叫んだ。それを聞いたクラスの生徒たちは一斉に拍手をした。「課題は?」誰かが訊いた。 「課題は今学習している教科書の部分をよく読んどいてください、ということだ」するとまた拍手の嵐が起こった。 「何か急なことで授業ができなくなったみたいだけど」 「そんな急なことだったら何回あってもええわ」一人の男子が言った。 「別に社会なんか、授業聞かんでも教科書読んだらそれで十分やんか」また別の男子が言った。  これらの発言に対して笑いが起こり、教室の中がやかましくなった。翔は何かやばいんじゃないかと思った。  その時、教室の入口に一人の男性教師が姿を現した。入口近くに座っていた生徒はその顔を見るとすぐに黙ってしまったが、ほとんどの生徒は気が付かないで勝手気ままに喋っている。 「こらあ、静かにせんか」大きな声が教室に響いた。秋元先生の言葉には教室のすべての掲示物を吹き飛ばすような勢いがあった。秋元先生は柔道の有段者で背も高くたくましい体格をしていた。  生徒たちは一瞬で静かになった。経ち歩いていた者はネズミのように素早く席に戻ると慌てて教科書を出した。皆、台風のような強い風が吹いているように顔を下げて机上に開けた教科書を見ている。 「おまえら、授業中やぞ。静かにせなあかんやろ。先生はおらへんのか?」 「はい、急用ができたそうで自習です」室長が震えた声で答えた。 「そうか。そんなら課題は?」 「今やっているところをよく読んでおくようにということです」 「そうか。そんなら、ちゃんと教科書を読まなあかんやろな。それから勝手に喋っとったらあかんやろ。おい皆、今から教科書を読め。声は出さんでええから。静かにすることを俺からの課題にしとくで、隣の教室でやっとる俺の授業を邪魔せんでくれ。ええな」 「はあい」クラスの何人かが声を合わせて返事をした。  秋元先生は教室内を見渡すと満足したような顔をした。生徒たちは机上に教科書を広げて読み始めた。話し声は全く聞こえなくなった。しばらくするとその教師は入口の戸を閉めて隣の教室へ戻っていった。 「ああ、怖かった」 「ちょっと騒がしすぎたかな」 「あの先生、怒らしたら怖いで」また何人かの生徒が小声で言ったが、ほとんどの生徒は言われた通り社会の教科書を読んでいる。  今やっているところを読めと言われても何ページから何ページまで読めばいいのかが分からないのが本音だった。大部分の生徒はかなり広い範囲を黙読したが、それほど時間のかかるものではなかった。教科書を読み終えると他の教科の教科書を取り出して勉強する者もいたが、残りの時間を自由に過ごそうとする生徒もいた。さっき隣で授業をしている教師が怒鳴り込んできたので生徒同士の会話は囁くような小声になった。 「ねえ、教科書、読んだ?」十分ほどしたころ、清美は翔の方を向いて小声で言った。 「どこまで読んだらいいのか分からへんもんですぐにやめたよ。やっぱ、教科書って面白うないなあ。漫画の方がええわ」 「それじゃ、何してるの」 「別に、何も」 「勉強、嫌いなの?」 「余り好きじゃないな。これをやれって強制されるのがね」 「自分の好きなことならやれるの?」 「うん、でも多分マイペースになると思うよ。そんで大したこともできなさそう」 「将来は、どんなことをしたいの?」 「今のところ、はっきりとこんなことをしてみたいっていうのはないなあ」 「それじゃあ、高校は何処へ行きたいの」 「行ければどこでもいいよ。ただ親は私立へは行かないでほしいみたい。ウチは余裕がないからね」 「じゃあ、県立ね。すると普通科か工業科か商業科ってことになるね」 「普通科に行きたいなあ。工業や商業だとその先が決まったみたいなものだからね。卒業したら就職だろう。他に農業科っていうのもあるけど、実習なんかに耐えられる自信がないよ。面白そうだけどね」 「そうね、工業や商業だと卒業したら就職っていうイメージだもんね」 「普通科だったらいろんな道が選るしね」 「大学に進学するんでしょう」 「東大なんてとても無理だろうね」 「そんなのやってみなきゃわからないわよ」「三重大に行けたらいいな。家のこと考えると自宅から通える大学って少ないから」 「それじゃあ、将来はどんな職業に就きたいの」 「まだ、はっきりとは考えてないよ。清美ちゃんは何かあるの?」 「そうね、私は、小学校の先生になりたいなあ」 「ええっ、何で」 「子どもの笑顔を見るのが好きなのよ」 「ふううん、小学校の先生か。清美ちゃんには似合いそう。でも俺には無理だよ」 「ありがとう。でも、何故翔君には無理なの」「それはね、小学生の低学年の子だとお漏らしをしてしまうことがあるからだよ」 「うん、まあそういうことはあるかなあ」 「俺が小学校の二年か三年の時だったと思うんだけど、前の席の男の子が授業中にお漏らしをしたんだよね」 「ふうん、それで」 「後ろの席の俺が笑ってたら担任の先生が、土坂、笑った罰や、おまえが拭いとけ、って言われたんさ。他人の不幸を笑った罰ということやったんさ。しかし、納得はできなかったなあ。ちょっと笑っただけやろ。笑いを止めることはできなかったし、クラスには他にも笑った奴はいたのにさ。ただ、席が後ろだっただけで俺が拭くことにされてしまったんだよ。汚した本人が拭くべきじゃないのかなあ」 「それは誰かがお漏らししたモノを拭き取らなくちゃいけないし、その子は気まずい思いをしてるからじゃない」 「そんなもんかなあ」 「ところで翔君は将来のこと全然考えたことないの」 「そんなことはないけど」 「じゃ、それは何」 「ううん、自衛隊に入って」 「えっ、自衛隊に入って?」 「ジェット機を操縦してたかったけど、これは小学生の頃の夢。やっぱり小学生の頃のことなんだけど、潜水艦に乗って見たかったなあ」 「何で?」 「小学生の頃、そういう漫画が流行っていたんだよ。女の子には分からないだろうけど」 「で、今は?」 「今か、特にこれって思うような職業はないなあ。ただ、高校に進学した時点で将来を決めたくないから、やっぱり普通科の高校に行きたいな」 「普通科は北高校と東高校があるけど、どちらがいいの」 「有名な大学に行ってるのは北高校の方が多そうだから、行くなら北高校かな」 「それじゃあ、しっかり勉強しなきゃ」 「うん、分かった。やるよ」 「じゃあ、私も北高校を目指すことにするから」 「ええっ、本当!これは頑張らなくちゃ」 「一緒に北高校に行きましょう」 「うん」  翔は社会の教科書を手に取るとパラパラとページを見ていった。あるページにログハウスの写真があった。 「将来、どんな家に住んでみたい?」翔は数学の問題を解き始めた清美に言った。 「ええっ、勉強始めたんじゃないの」 「いや、ちょっと聞いてみたくなって」 「突然聞かれてもすぐにはイメージ湧かないなあ」 「俺は北欧にあるようなログハウスに住んでみたいな。暖炉があって冬でも暖かそうな感じの」 「それって、寒い所のことでしょう。私、寒いの苦手なの」 「でも、雪は嫌いじゃないよね」 「ここら辺では滅多に降らないから、雪が降りだすと嬉しくはなるけれど。この前の冬は友達と雪合戦したわ。雪玉作ってた手が冷たくて凍えたけど、楽しかったわ」 「俺はスキーがしてみたいなあ。今までスキーをしたことがないんだよ。清美ちゃんはスキーをしたことある?」 「ないわ。スキーをしようと思ったら、長野県とか遠い所へ行かなきゃならないから。ウチにそんな遠い所へ行く余裕はないし」 「スキーで思いっきり滑ってみたいなあ。よし、大学に入ったらアルバイトでお金をためてスキーに行こうかなあ」 「じゃあ、私もお金をためようかな。スキーだけじゃなくていろんな所を旅行してみたいの」  二人の話し声は押さえているつもりでも周りの生徒たちに聞こえていった。彼らはまた隣の秋元先生が来るのではないかと心配になった。話し声を押さえてくれと言おうとしたその時終了のチャイムが鳴った。

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