マラソン大会

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 毎年十二月の期末考査終了後に校内マラソン大会が行われる。学年別、男女別にそれぞれ決められたコースを走って、生徒の平均のタイムをクラスごとに競うのである。  翔はマラソン大会が憂鬱でならなかった。一年生の時の順位は学年の男子百三十二人中百三位だったからである。去年のことが思い出された。途中で何度も歩こうと思ったが、体育の先生からは決して歩かないように言われているので頑張って走り通してこの順位だった。走っている間は胸が痛くなって呼吸が苦しくなった。どれだけ酸素を吸い込んでも足りない苦しさを味わった。このままではどこかで倒れてしまうのではないかと思った。折り返し地点を過ぎたあたりからふくらはぎがすごく重くなってまるで鉛が入っているようにさえ思えた。同じくらいの順位を走っている他の生徒たちも普段は見せない苦しそうな表情をしていた。皆顔は赤く腫れたようになっていた。足元がふらついている生徒もいた。そんな中でも誰かに抜かされると悔しくなった。抜き返すためにスピードを上げたると苦しくなることしかなかった。相手も苦しいに違いないが、お互いに意地があって抜いたり、抜かれたりを繰り返した。抜かれて距離を離されてしまうと相手によっては自分の無能さを思い知らされることもあった。ゴールが近づいてくると足の運びが軽くなった。もう少しと思う気持ちが足を速くした。ゴールをすると少し歩いて邪魔にならない所で倒れて横になった。手にはゴールでもらった順位の紙をなくさないように握っていた。胸が何度も大きく膨らんだりしぼんだりを繰り返している。心臓は胸の壁を破るのではないかと思えるほどに激しく動いている。収まるまでにどれだけの時間がかかったろう。タオルを首にかけて、疲れ切った身体はもたれる手すりを求めて歩いた。教室に入っても椅子に腰を降ろしたままでなかなか着替える気にはなれなかった。クラスの生徒たちが口々に順位を言って競い合っていたが、とてもそんな気にはなれなかった。順位を聞かれないようにおとなしくしていた。  翔にとってマラソン大会ほど嫌な行事はなかった。その日は午前中に時間を短縮された授業があった。昼食をとって半袖・ショートパンツの姿に着替えると翔は運動場に出て去年のマラソン大会の順位が同じくらいだった生徒を捜した。空は晴れていて冷たい風が弱く吹いていた。凍えるように両腕を胸の前で合わせた。走る前は嫌な気分になる。体力測定の千五百メートルの時も同じだった。できれば走りたくない。走っている時の身体の苦痛を思い出したくないが、また味あわなければならない。走り終わったら疲れ切って話すことも億劫になっているだろう。  小学校の頃からの友達だった河田と滝沢がいた。河田は翔と同じ科学部で滝沢は美術部だった。二人とも翔と同じで運動には体育の授業以外に縁がなかった。去年の順位は河田が九十九位で滝沢が百位だった。三人で顔を合わせるとマラソンが嫌そうな表情をお互いに確認できた。 「おい、翔。おまえの愛人が来たぞ」河田が首を動かして見るように促した。  愛人という言葉には少し嫌悪を感じたが、そう言われることも気にするほどのことではないと思うようになった。翔が示された方を見ると清美が近づいて来るのが見えた。北根との事件があってから、二人の仲の良いことは誰もが知ることとなった。友達にそのことを冷やかされることが嬉しく思えることもあった。清美は半袖の白いシャツと紺のブルーマーの姿で歩いてきた。清美が翔の前に立つと河田と滝沢はその場を立ち去った。翔は白く伸びた脚に目をやったが、清美は何も気にしてない様子だった。彼女の背丈は女子の中では真ん中ぐらいで特に高くもないし、見た感じではそれほど運動神経が良いようには見えなかったが、運動に関してはどの種目もすぐに要領を覚えてまるでずっと前からやっていたように見えるというのが他の女子から耳にした話しだった。手芸部に入っているのに去年のマラソン大会は女子百三十人中十七番でゴールインしていた。  集合の合図の笛が聞こえた。朝礼台にはマラソン大会を主導する体育の吉井先生が立っていた。先生が何も言わなくても生徒たちはすぐにクラス別、男女別に整列した。吉井先生がマラソン大会の意義、走る上での注意事項、男女別のコースなどについて早口で喋ると準備運動のために生徒たちはグランド一杯に広がった。準備運動をしている間はいい。翔は思った。マラソンは走っている時は勿論苦しいのだが、走る前の重くのしかかる圧迫感が嫌だった。まるで痛みを伴う手術を受けるような覚悟が必要だった。走る前に嬉々として冗談を言い合っている運動部の生徒たちが羨ましかった。彼らは走ってもそれほど苦しさを感じないのかも知れない。むしろ走って競い合うことが楽しいのだろう。準備運動が終わった後、生徒たちは各自のスピードで運動場を走ってウォーミングアップをした。走る前から疲れてしまうと思って翔は軽めに走っておいた。  一学年の男子がスタートした。十分後には翔たち二年生の男子のスタートだ。コースは中学校の校舎を出てから御薗村の田んぼや畑の間を走る設定になっている。去年は古い校舎から伊勢神宮の近くを走った。下り坂はよかったが、足の運びが止まりそうなきつい上り坂があった。坂の上に上りついた所で危うく歩いてしまうところだった。  今から走るのは新校舎になってから初めてのコースだが、ほぼ平坦な所を走るのが救いだった。二年生男子が集合する合図の笛の音が聞こえた。翔は遅れないようにスタートラインに向かった。先頭の方は長距離に自信のある生徒たちで埋められている。翔や河田、滝沢といった生徒たちは後ろの方で出発の合図を待った。スタートラインに立っても走りたくない気持ちはなくならなかった。走らなかったら先生に怒られるから走るのである。ここで仮病を使って走らなくても後日追走というのがあって、当日走らなかった生徒たちだけで走らなくてはならない。  翔は合図のピストルが鳴るのを待った。それは体育祭の障害物競争のスタートラインにいた時と同じような気がした。違うのは立って待つか、屈んで待つかだった。  大きな音が運動場に響いた。生徒たちは一斉に走り出した。周りの皆が走り出したので翔も動きに合わせるように走羅ねばならなかった。まず、運動場のトラックを一周する。ここで翔は自分の足の運びが去年とは全く違って軽くなったことを感じた。これは感動だった。もう少し速く走れないものかと、周りを走る生徒たちが邪魔に感じられたのだった。翔はトラックの外周を走った。前に人がいないので思うように走れる。確かに足は軽いが、初めにとばしてしまうとすぐにスタミナ切れになってしまうのではないかと思った。これまでの経験からそんな警告が頭に浮かんだ。しかし、心臓の動きと呼吸のしやすさそして足の運びが警告を吹き飛ばした。走りやすいように走ればいい。そんな気がしてきた。学校を出て少し走ったころ、翔は全体の真ん中くらいの位置にいるような気がした。周りにはとても勝てそうにないと思っていた生徒たちが走っている。運動部に入っている生徒も何人か見られた。辛そうな顔で走っている者もいる。翔の身体は呼吸の苦しみもなく、心臓も快調に鼓動をして、足の運びも跳ぶようだった。運動の得意そうな生徒たちを次々に抜いていった。抜かれる時、翔の顔を見て悔しそうな表情を見せる生徒もいた。次々に抜いていく走りは痛快だった。いつの間にこんなに速く走れるようになったのだろう。大きく左右の腕を振って翔は走った。何人かの生徒を抜き去った。折り返し地点に着いた。立ち番をしている先生が順位を数えている。翔が通過すると指さしながら 「二十二」と数えてくれた。  この言葉が先頭から二十二番目を走っているということをさすのだとすると、すぐには信じられない気持ちだった。翔は学年で二十二番を走っている。また、足の運びが軽くなった。先頭を走る生徒の姿は見えなかったが、前を走る生徒との距離は少ししかなかった。呼吸は快調だ。疲れてはいない。足も重くはない。この調子だと学校にゴールするまでにまだ順位を上げられそうな気がした。翔は去年同じクラスだったバスケット部の浜谷に追いついた。浜谷は翔の顔を見ると驚いて、走る動作が崩れて危うく転びそうになった。何でおまえがこんな順位で走っているんだといわんばかりの顔つきで翔を見た。浜谷の息遣いは苦しそうだった。それに対して翔は鼻歌でも歌っているように走っている。 「一緒に行こう」浜谷は涸れて乾いた喉からしわがれた声を出して言った。  翔は返事もせずにしばらく並んで走ったが、自分のペースと違うと思うと浜谷を抜き去って前の走者を追いかけた。  学校が見えてきた。翔の走りは快調だった。学校に入る所で一人を抜き、トラックを一周するコーナーでも二人を抜き、さらにゴール直前の直線コースでもダッシュで一人を抜いて一七位でゴールすることができた。去年と違うのは順位だけでなく、ゴールしてからすぐに倒れるようなこともなく余裕をもって走り続けられたことである。後からゴールした生徒の中には翔が先に休んでいるのを見て驚きの表情を隠せないでいる者がいた。悔しさを隠そうとした表情をしている者もいた。 「きゃあ、翔君。すごい。何番でゴールしたの?」生徒全員が走り終わって閉会式のために整列し始めた時、清美が駆け寄って来て聞いた。 「一七位だよ。自分でも信じられへん」 「すごいじゃない、それ。みんなも喜ぶわ、多分。クラスの平均タイムに大貢献よ」 「ああ、自分でも嘘みたいな感じや。去年は百二番やったのに。それが、何で、今年はこんなに速いのか、さっぱりわからへん」 「何でもいいじゃない。速くなったんだから。体育祭の障害物に続いて大活躍やね」清美は翔の肩を軽く三度も叩いた。 「清美ちゃんは?」 「私は二十位、翔に負けちゃったね」 「清美ちゃんも速いやんか。何でそんなに速いの?別に運動部に入っているわけじゃないのに。これも不思議」

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