溝井

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 七月上旬の期末考査が終了すると授業は午前中の三限だけになって午後の自由な時間が増えた。受験勉強もしなけらばならなかったが、暑い昼間は避けて多少でも涼しくなった夜にすることにした。暑さで汗だくになってくると翔は川で泳ぎたくなった。去年も一昨年もこの時期は友達の誰かと近くの宮川へ泳ぎに行っていた。三年生になって二月、三月には受験を控えていたが、少しぐらいは泳ぎに行ってもいいんじゃないかという気持ちが勉強を後回しにした。翔は泳ぎに行ってくれそうな友達を捜した。昨年一緒に泳ぎに行ったことのある友達三人に順に声をかけてみたが、やんわりと断られた。都合が悪いとか、用事があるとか理由は様々だったが、勉強が気になっていることは想像できた。意気消沈しかけていたところに一年の時クラスは違ったが、よく遊んだことのある溝井に昇降口で顔を会わした。視線も合ったので言葉を交わした。すぐに過去の親しさが復活した。溝井は一年生の時卓球部に所属していたが、二年生になる前に辞めてしまっていた。それからクラブには入っていない。溝井は冗談がうまく話していると楽しい生徒だったが、少し危なっかしい面を感じさせることもあった。他の生徒がしないようなことを平気でやって人をあっと言わせてすごい奴だと思われたいところがあった。ある日の放課後、教室に何人かの生徒が残っているところに溝井は購買で牛乳を五本買ってきたことがあった。皆で飲むのかと思っていたら一人で全部飲み始めて居合わせた生徒たちはびっくりした。そして牛乳瓶五本分の牛乳を飲み干してしまった。皆は一斉に拍手をした。すると我慢しきれなくなったのか有頂天になっていた溝井は飲んだ牛乳を床に吐き出してしまった。  また卓球部の生徒の話しでは、日曜日の午前の練習が終わった後、皆で一緒にラーメンを食べに行った時溝井はテーブルにあったキムチの漬物を一壺全部平らげてしまったということだった。これには先輩たちも飽きれたらしい。  溝井は翔が泳ぎに行きたいと思っている心を察知したかのように話しかけてきた。 「今日、泳ぎに行きたいんやけど、誰か一緒に行ってくれへんかなあ」  何気なく口にした言葉だったかも知れないが、翔の気持ちにはぴったりとはまった。 「俺も泳ぎに行きたいと思とったんや。一緒に行こうか」翔は少し小さな声で控えめに言った。 「ええっ、本当か。そんなら行こう。飯を食ったら用意をしておまえんとこへ行くわ」  溝井は嬉しそうに言った。 「分かった。そやけど、俺の家、知っとるか」「一年の時に行ったことがあるで、多分分かるやろ」 「ほんなら待っとるで」 「分かった。なるべく早う行くわ」  翔は急いで家に帰った。炎天下を速足で歩いたので帰宅したときは汗だくになっていた。昼食を終えて待っていると溝井は嬉しそうな顔をしてやって来た。 「あれ、宮川とは反対方向やんか」自転車で走り出してすぐに翔が言った。 「宮川ばっかでは面白くないで五十鈴川へ行こうと思うんや」溝井が答えた。 「宮川の水はこの頃ちょっと汚くなったで、五十鈴川にしようと思うんや。こっちやったら水はきれいやで」溝井は続けて言った。  言われて翔は反対する理由もなかった。以前五十鈴川にも泳ぎに行ったことがあった。自転車で走る距離が長くなるけれど、五十鈴川の水なら宮川よりはきれいだと思った。  二人の自転車は内宮の前を通り過ぎた。 「おい、宇治橋の下流で泳ぐんと違うんか」翔は前を走る溝井に聞いた。 「いや、あそこもええけど、この上流へ行ってみようぜ」溝井は行ったことのあるような口ぶりで言った。何か期待を持たせるような顔で自転車を漕いでいる。  翔は宇治橋より上流には行ったことがなかった。少し不安ではあったが、ついて行くしかなかった。人家の無い道を川に沿って一五分位走った所で溝井が自転車を止めた。 「おい、ここらに停めとこうか」自転車を日陰に置くと溝井が言った。翔は続いて自転車を横に置いた。 「そんなら行こうか」と言うと溝井は何回か来たことがあるらしく、走ってきた道から十メートルくらい下の川へ降りる小道へと入って行った。二人は岸辺に着くと荷物を置いて服を脱いだ。水泳パンツはあらかじめ家からはいてきているので面倒な着替えはする必要がなかった。  溝井は準備運動もせずにすぐに川へ入っていった。ここら辺は川幅は十メートルもないが、川が大きく曲がっている。荷物を置いたこちら側はちょっとした河原になっていて対岸に向かって徐々に深くなっている。対岸は崖になっていてその下の流れの深さは二メートル以上はあった。「おい、準備運動もせんと水に入ったら心臓麻痺を起こすんと違うか」翔はびっくりして叫んだ。 「大丈夫や。自転車漕いできたで身体は十分温まっとるわ。冷とおて気持ちええで。おまえも早う入れよ」平泳ぎで泳いでいた溝井は言い終わると頭から水の中に入った。そして潜っていった。どこまで潜って行ったのか、すぐには姿を現さなかった。水面を捜していると十メートルほど下流で姿を現した。 「おまえ、泳ぎ、達者やな」翔は驚いて言った。  翔は学校のプールで泳ぐときのように準備運動をしてからゆっくりと歩いて川に入った。山から流れる水はかなり冷たい。泳いで行くと足が川底に届かないような深みもあったが、水は澄んでいて小さな魚がたくさん泳いでいるのが見えた。溝井は対岸に辿り着くと崖を攀じ登り始めた。岩の窪んだ部分に手足をかけて登っていった。スムースに登っていくところを見ると危なくもなく簡単に登れるように思えた。溝井は二メートルくらい登ると狭い岩の棚に立った。そこから飛び込むつもりのようだ。大きくジャンプをした。見事な空中姿勢を見せるときれいに水に入った。大きな音がしてと周りにしぶきがいっぱい飛んだ。「おいっ、ええ気持ちやぞ。おまえもやってみい」水中から顔を出した溝井が言った。  翔も崖を登ると溝井と同じ場所に立った。飛び込もうとすると結構高いように見えた。下手をしたら腹を打って痛い目を見るかも知れない。翔は慎重になった。 「おおい、大丈夫やぞ。飛び込めよ」立ち泳ぎをしながら溝井が大きな声で言った。  しばらくためらっていたが、覚悟を決めると翔は岩棚を蹴った。身体は空中に浮いた。何故か水面に当たるまでが長く感じられた。水面に手の先が入って痛いなと思ったら頭が水面に当たって枕で殴られたような衝撃を感じたが、身体全体は滑らかに水中に入った。落下したスピードのためにほぼ川底まで行きそうだった。翔は目を開けた。水の中はきれいな青色をしていてずっと上に明るい水面が見えている。手足を動かして明るい方へと泳いだ。 「おい、結構うまいやないか」  翔が水面から顔を出すと溝井が崖の下のところで崖につかまりながら言った。今からまた飛び込むつもりのようだ。崖を登るとまた飛び込んだ。大きな水しぶきが飛んだ。それを見て翔はまた崖を攀じ登り始めた。  泳ぐつもりで来たのだが、二人は飛び込みを繰り返してばかりいた。このように飛び込める場所は珍しかった。さすがに溝井が自信をもって引っ張って行っただけのことはある。 何回か飛び込みを楽しんでいると人が喋りながら小道を降りて来る声が聞こえた。三人の男子が崖を降りて来るのが見えた。同じ中学生のような感じがした。全く知らない顔だからよその中学校の生徒に違いない。どうやら翔たちと同じようにここで泳ぐ気のようだ。河原に荷物を置くと水泳パンツの姿になった。そしてゆっくりと準備運動をすると水に入った。最初は適当なところを泳いでいたが、翔たちが崖を登って飛び込んでいるのを見ると三人は何も言わずに崖を登る所に近付いて来た。溝井と翔の二人が泳いでいる時に崖を登る所を占有してしまった。三人のうち一人が崖を登り、残りの二人は登り口にいて翔たちが近付けないようにしていた。言葉は交わさなかったが、三人の言いたいことは伝わってきた。争いごとになるのは避けたかったので、二人は崖に登るのを諦めざるを得なかった。すると三人は飛び込みを始めた。一人が登り口に泳ぎ着くまで次の者は飛び込まないで待つようにしていた。自分たちで飛び込む棚を独占してしまった。ここは一部の者だけが知っている飛び込みに適した所なのだろうと翔は思った。溝井がどうしてここを知るようになったのかは分からなかったが、いい所だ。 「しゃあない、あっちへ行こう」溝井が諦め顔で言った。翔は何も言わずに後に続いた。 「頭に来るなあ、後から来たくせに」遠ざかると溝井が憎々しげに言った。 「まあ、まあ」翔も悔しさを感じたが、溝井をなだめるしかなかった。  二人は少し上流に移動して同じように飛び込める場所を見つけたが、そこは飛び込むには高さがなく、飛び込んだ所は川が浅いので川底で頭を打たないように気をつけなければならなかった。何回か飛び込んだ後で溝井が言った。 「面白うないわ。帰ろ」  翔はこの言葉に同意した。確かに先ほどのような面白さはなかった。二人は荷物を置いた河原へ戻ると着替えた。先ほどの三人が飛び込みを繰り返してはしゃいでいるのは見ないようにした。二人は着替えると山道を登って自転車を停めた場所に着いた。 「あれ、あいつらの自転車やろ」少し離れた所に三台の自転車が停めてあるのに気が付いた溝井が言った。 「多分、そうやろ」翔が言った。  溝井は三台の自転車に近づいていった。地面にあった手ごろな石を拾うといきなり石で自転車のランプのガラスを割り始めた。 「おい、何てことする。やめとけよ」翔が止めようと叫んだが、溝井は三台全部のランプのガラスを割ってしまっていた。また一台の自転車に装備されていた携帯用の空気入れを外すと藪の中に投げた。溝井の怒りの勢いに翔は黙って見ているしかなかった。 「これくらいしとかんと腹が収まらんわ」溝井は吐き捨てるように言った。そして何も言わずに自転車を漕ぎ始めた。  山道を抜けて市街地に来ると二人は喉が渇いていたので水を飲むために通りがかった神社に自転車を停めた。そして手洗い場で水を飲んだ。その後木陰にある木製の長椅子に腰をおろして休んだ。翔は荷物を入れた袋の中からあられを出して溝井にも勧めた。二人は日差しを避けてのんびりとあられを食べた。  自転車が入って来る音が聞こえた。振り返ると先ほど川で翔たちが飛び込んでいた場所を後からきて独占した三人だった。溝井も気が付いたようだ。 「やばい」溝井は小声で言った。何か聞かれても知らないといい通せばよいだろうが、しつこくからまれる恐れもあったので二人は顔を見られないようにして長椅子を離れた。 「誰じゃ、こんなことしくさって。ランプのガラスを割られたぜ。修理にいくらかかるんや」 「俺も割られとるわ。誰やろ。何で割ったんやろ」 「俺なんかランプだけと違て空気入れも盗られたぜ。無いもん。あれ、結構高いのに」  三人がぶつぶつ言っている声が聞こえた。溝井と翔の二人は自転車に跨るとすぐに全速力で神社を離れた。 「ふう、やべえ、やべえ」かなりの距離を走ってから、額の汗を右手でぬぐいながら溝井が言った。 「かなり、怒っていたみたいだな」 「ほっとけ、あんな奴ら」  溝井はほとんど気にかけないみたいだったが、翔の頭の中にはずっと三人の怒った言葉が残っていた。

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