清美

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 二月中旬のある日、青山とよく一緒に帰った道を翔は一人で歩いていた。冬の寒さが一段落したような穏やかな日だった。この道は登校する道と比べると遠回りになることは分かっていたが、あえてこの道を歩くのは小さな望みがあるからだった。以前青山が清美の姿を見かけたあたりを歩くことで清美に会えるかも知れないという望みだった。同じ校舎の同じ階に教室があるのに三年生になってから清美とは顔を会わすことがなくなった。校内では清美のことは意識することもなくなった。しかし、下校する時に佳代のように一緒に帰ってくれる者がいない時はこの遠回りの道を歩いた。清美の家がこの辺にあるかも知れない。清美の顔を見たい、もう一度清美と言葉を交わしたい。心の底には清美を思う気持ちがあり、一人になると抑えることができなくて遠回りになる道を歩いてきた。  私鉄と国鉄の線路を横切る踏切にさしかかった時、向こう側から同じ中学校の制服を着た女子が一人歩いて来るのが見えた。遠くからでも背格好、輪郭だけで清美ではないかという可能性に体温が少し上昇した。心臓の鼓動が速くなった。速く歩きたい気持ちを押さえてここまで歩いて来たのと同じ速さで歩いた。近づいて来る女子は清美だった。駆け寄りたい、話しがしたいという衝動を抑えてできるだけ平静を保つようにした。この瞬間のためにこの道を何回歩いたことだろう。清美は手提げかばんを下げている。確かに家には向かっているが、中学校から真っすぐに帰宅するのではない。どこかへ大きく寄り道でもしてから帰宅するところなのだろうか。清美の家は今さっき翔が通り過ぎて来たあたりにあるかも知れないのにと翔は疑問に思ったが、清美との距離が小さくなるにつれてその疑問は価値のないものとなった。会えたのだ、清美と。清美も翔が歩いて来ると分かったようだった。笑顔を見せた。翔は何と言おうかと考えたが、すぐには言葉がだせなかった。二人は踏切の真ん中へとさしかかった。二人の目が合った。彼女は今どう思っているのだろうか。よそよそしさは感じられなかった。だが、二年生の時のような親しさも感じられなかった。何と言うべきか、翔の頭の中は混乱した。この瞬間にちょうどいい言葉が出ない。顔は少し赤らんだぎこちない顔になっていることは分かった。これは翔にとって負の要素と見られてしまうことになる。 「さようなら」清美の口から出た言葉だった。清美は笑顔を見せながら言った。 「さようなら」翔は反射的に同じ言葉を返してしまった。  翔は「さようなら」としか言い返すことができなかった。二人はすれ違った。目が合った。好意的な眼差しだった。立ち止まりたかったが、清美は歩いた。翔も歩いていなければ不自然だった。少し距離ができた。ずっと顔を会わせていなければ言葉も交わしていない長い間の空白で二人の親しさが減衰してしまったのだろう。この距離ならまだ話ができる。そう思って翔は振り返った。すると清美も翔の方を振り返っていた。そして片手を軽く胸の前で振り始めた。追いかけて話しがしたかったものの小さく振られた清美の手は言葉にするのをためらった「さようなら」の象徴に思えた。硬い笑顔をこしらえて納得するしかなかった。清美は後ろ姿を見せるとゆっくりと遠ざかった。翔は前に向かって歩いた。何が失敗の原因なのだろうかと考えた。やっぱり長い間の空白は大きかった。踏切を渡ってからもう一度後ろを見ると清美の姿は消えていた。やはりこの辺に家がある。会えなかった時間が長く手も翔は自分がどれだけ清美のことを思っていたのか分かった。残された中学校生活の時間は少ない。この道を下校時に歩けるのは後何回あるだろうかと翔は思った。  三月の県立高校の入学試験の日、翔は北高校の試験会場にいた。受験生が次々に待合室に入室して受験番号順に着席していた。入学願書は中学校ごとにまとめて送るので同じ中学校の生徒は同じ部屋に入ってしまうことがある。そして同じ部屋の中でも席が固まってしまう。翔も周りが第一中学の生徒で埋まった中にいた。早い時間に来るので教室内のほとんどの席は埋まっていた。参考書を開けたりして最後の確認をしている者が多い。そんな中で翔は一人席を立つと教壇へ行き教室内を見渡した。空いている席が一つだけあった。着席している生徒の顔ぶれから推測すると同じ中学校の一組の生徒の席らしかった。翔は近くにいた同じ中学校の生徒に聞いてみた。 「この空いている席は誰だろう」誰の席なのかは想像がついたが、翔は誰に聞くともなく聞いてみた。 「出席簿順に並んでいるんで、多分葉山清美さんじゃないかしら」空いている席の後ろにいた女子生徒が参考書から顔を上げずに答えた。 「あっ、ありがとう」  やっぱり清美の席だった。翔の目にはその席に清美が座っている姿が浮かぶとすぐに消えた。もうすぐ試験が始まる。清美の性格からしてぎりぎりに飛び込んで来ることは考えられない。県立高校の受験はしないということか。するとどこの高校へ進学するつもりなんだろうか。 「葉山さんはお家の都合で他県に引越ししなくちゃならなくなったみたいよ。それで受験を辞めたんでしょう」ぼんやりと空いている席を見ている翔を見て先ほど翔の疑問に答えてくれた女子が言った。 「いつ頃引越しするんだろう」 「いつ頃って、多分もう引越ししてるはずだわ。だって卒業式にもいなかったし、二月の半ば過ぎから姿を見てないもん」  翔は卒業式で担任の先生が卒業する生徒の名前を一人ずつ呼名する際に清美だけ返事がなかったのを思い出した。 「どこへ行ったとか、誰か知らないかなあ」 「多分誰も知らないと思う。急なことみたい。担任の先生が今日から葉山さんは学校に来ませんって言っただけで他に何も言わなかったんだもの。それっきりいない人になっちゃって誰も話題にしないし」  北高校に一緒に行こうと言っていた時の清美の笑顔を翔は思い出した。  桜が咲いても冷たい風が吹いていることだろう。 (終り)

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