三年生

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 翌年の四月、翔は三年生になった。始業式の始まる三日前に新しいクラス名簿が昇降口のドアに掲示されることは三月の終業式の日に知らされていた。午前十時に掲示されることになっていたので十時前になると昇降口にはたくさんの生徒が集まった。クラブ活動で登校していた生徒たちも一時活動を休止すると昇降口の前に集まった。翔も集まった生徒たちの間に入った。親しい生徒と挨拶を交わすと雑談で時間をつぶして掲示されるのを待った。午前十時なる前に先生たちが数人出てきてセロテープで名簿を昇降口のガラスに校舎側から貼っていった。待っていた生徒たちからうるさいほどの歓声が上がった。前の方にいた生徒は自分と友達のクラスを確認するとすぐに横に逃れた。次に前面にたった生徒たちも同じようにすると横に逃れた。確認した生徒が次々に入れ替わるので、十分もしないうちに生徒たちの波が去って生徒の姿はまばらになった。翔は四組になった。清美は一組だった。クラスが別々になってしまったのである。翔はこれから二年生の時と同じように清美と付き合えるかどうかが不安になった。これまでは毎日顔を会わすことができたから気軽に話しができたのだが、クラスが別になると話しをするために一組まで行かねばならない。一組の教室まで行ったとしても中に入るのは難しい。生徒たちは他のクラスの生徒が入ってくると何の用事かと言わんばかりに目を向けるからだ。生徒たちには他のクラスの生徒を警戒する傾向があった。すると教室の入口から清美を呼ぶことになるが、大きな声で呼ぶのは同じ理由で難しかった。教室の入口に立って手招きをして気付いてくれればいいのだが、気付いてくれない場合の方が多そうだ。また手招きも教室に出入りする生徒の邪魔になることもあるのでできない場合もある。授業の間の十分の休み時間では教室間の往復の時間を考えると短すぎる。先生の中にはチャイムが鳴っても平気で授業を延長する先生もいるし、教室の移動を伴う場合は一組へ行っている余裕はない。清美に四組まで来てもらわうとしても同じだろう。すると昼休みの昼食後の時間か放課後にだけになる。  一学期が始まった。翔は新しいクラスの生徒と積極的に言葉を交わして交流を深めた。昨年のマラソン大会で一年生の時より大きく順位を上げたことは十分に話しをするきっかけになった。また授業中に先生から質問をされてもほとんど明快に答えることも皆が一目置く理由になっていた。新しいクラスには陸上部の林佳代もいた。二年生になって校舎が移転して遠距離を通学しなければならなくなった時に、朝、通学路でよく顔を合わすことがあったので覚えていた。そして彼女の後を追いかけることで何回か遅刻を免れたことがあった。  彼女は親しそうに話しかけてきた。 「同じクラスになるとはね。去年、校舎が代わったころは時々遅刻しそうになりながら走ってるのを見たけど、この頃は見かけないわね。早目に行くようにでもなったの?」 「いや、たまに遅れそうになることがあるのでよく走ってるよ。ただ林さんはもっと先に行ってるだけだよ」 「じゃ、いつか会えるかも知れないね」 「その時は僕は置いてきぼりになるかな」 「そんなことないでしょ。あんた、マラソン大会で上位にいたみたいだけど、短距離も結構速いんでしょ」 「いやあ、そんなことないよ」 「体育の時間に運動能力測定とかやったでしょ。五十メートル走では三組と四組の二クラスの男子の中で二番目に速いんじゃなかったかな。何か、陸上部の顧問の先生から聞いたような気がするんだけど。あいつは陸上部に入ってもいいくらいの走りをしていたとかも言ってたよ」 「冗談でしょ、この僕が、陸上部。とんでもない。何かの間違いでしょ」 「今からでも陸上部に入る気はない?」 「無理だよ」  冗談だと思ったが、佳代の誘い方には本気と思わせる語調が感じられた。翔は冗談ととらえて逃げた。  四月下旬の清々しい朝、国鉄と私鉄と交わる踏切を抜けた所で翔は後ろから佳代に呼び止められた。 「ちょっと、翔君。急がなくても今日は間に合うんじゃない」 「分かる?」 「うん、家出る時に時計を見てきたから」 「それじゃ、歩いても大丈夫だね」 「いっそ歩くんなら別の道を行かない?」 「別の道?」 「そう、別の道」 「どこを通るの?」 「お墓を抜けていくのよ」当然のような口調で佳代が言った。 「ええっ、お墓を」翔は驚いた。 「何、怖いの?男のくせに」 「いやあ、やっぱりいい気持ちがしないよ、お墓は」断るのが難しい佳代が漂わせる雰囲気を感じながらも翔は一応抵抗した。 「夜じゃないんだから大丈夫よ。それにちょっと近道ができるし」  佳代は先に立って歩くと翔を墓地へと導いた。これから通り抜けようとしている墓地には翔の家の墓もあったが、そのあたりは通らなかった。まだ朝早いのでお参りする人もいない。二人は足早に通過するといつもの通学路に入った。  学校まで二人で並んで歩いた。去年は背が高いと思っていた佳代だったが、いつの間にか翔の方がちょっとだけ高くなっていた。顔を見合わすと目の位置が高くなることで分かった。  手提げかばんや背中に背負ったナップサックの重さにも慣れてほぼ疲れを感じることもなく学校に着いた。昇降口に入ると二人とも何人もの生徒と挨拶を交わした。そして並んで階段を登り教室に入った。  翔が席に着いて教科書などを準備していると佳代が近付いてきて言った。 「あのさ、あんた、数学の宿題やってきた?」「うん、まあ、やってきてはあるけど」  翔が顔を上げて言った。 「そんなら、ちょっと見せてよ。分からへんところがあったんよ。方程式の応用問題」 「うん、いいよ」翔は数学のノートを取り出すと佳代に渡した。  佳代は自分の席に戻ると翔のノートを見た。ただ眺めるのではなく表情には真剣さがあった。そのうちに一限目の授業の開始を知らせるチャイムが鳴った。起立と礼をすると社会の授業が始まった。それでも佳代は翔の数学のノートを見ていた。 「これ、そこの女子。何をしとるんじゃ」  突然、中村先生は大きな声で言うと佳代の席に近づいた。そして机上に広げられていたノートを取り上げた。 「おい、これは何じゃ。数学のノートやないか。今は社会の時間なんやぞ。内職なんかしおってけしからん!」と大きな声で言うとノートを取り上げた。 「ああっ、それ私のと違うんです。友達のノートなんです。返してください」佳代は必死に叫んだ。 「そんなこと知らんわ」先生はノートを持って教壇に戻った。 「先生!ノートを返してください」 「うるさい。授業中やぞ。黙れ!」  ものすごい剣幕に押されて佳代はそれ以上の言葉が出なかった。教壇にノートを返してもらいに行こうと椅子から立ちかけたが、すぐに腰を降ろしてしまった。その間、周りの生徒たちは驚き怯えて硬直したまま見ているしかなかった。咳ばらいをすると先生は授業を再開した。その後はいつも通りの授業をしようとしたみたいだったが、いつも通りの授業には戻れなかった。先生の説明も抑揚のない乾いた言葉の連続になった。生徒の方も気持ちの上で一歩引いて聞くようになった。これまでに醸成された親密感が霧散した。ただ、どこか気まずい雰囲気が漂っていた。  起立と礼が済むと社会の授業は終わった。佳代はすぐに教壇で授業で使った物をまとめている先生の傍へ駆け寄った。 「先生、ノートを返してください。私のノートじゃないんです。人から借りたものなんです」 「返してもええけど、その前にすることがあるんと違うんか」先生は佳代の方を見ると少し怒ったような口調で言った。 「えっ、何ですか?」 「あほ、何ですかはないやろ」 「えっ?」 「授業中に内職しとったことを謝らんか」 「ああ、それはすみませんでした」佳代は軽く頭を下げながら言ったが、誰が聞いてもその言葉には謝っているという気持ちが感じられず、事務的に単語を並べただけだと言われるだろう。不貞腐れて、ただ書いてあることを棒読みしているように感じられた。頭も機械的にちょこっと下げただけで仕方なくやった形だけの行為に見えた。それは近くにいた生徒たちにも分かった。すぐに皆は何か恐ろしいことが起こりそうな予感がした。中村先生を怒らせるとどうなるかは分からないが、今、先生はずいぶん血圧が上昇しているだろう。顔色が赤くなっている。誰もこれ以上先生を興奮させるようなことは言わない方がいいと思った。 「本当にすまんと思っとるのか?」先生は小さな声で優しそうに聞いた。 「はい、すみませんでした」この言葉も棒読みに近かった。 「貴様、なめとんのか」と言うと先生はいきなりノートで佳代の顔を強くひっぱたいた。大きな音が教室内に響いた。何の音だろうかと成り行きを見ていなかった生徒も含めて皆の視線が教壇に注がれた。  その瞬間女子の中には顔を両手で覆った子もいた。泣くだろうと皆が思ったが、佳代は下を向いて耐えていた。歯をくいしばり下げた両手を強く握りしめていた。顔は悔しさで歪んでいた。 「今度から気を付けろ!」中村先生はノートを教壇に投げ捨てるとすぐに大きな足音をたてて教室から出て行った。 「大丈夫?」  女子が二人ほど直ちに駆け寄った。 「大丈夫」佳代は半泣きの声で返事をした。 「顔が、殴られたところ、赤くなってる」 「平気よ、これくらい。家でお父さんに殴られたことがあるから」佳代は顔を上げると皆に痛みをこらえた笑顔を見せた。 「あっ、そうそう。これ、大切な物だから」  佳代は屈むとノートを拾い上げて埃を払った。 「翔君、ごめんなさい。あっ、ノート少し破れたみたい。ごめんね」佳代はノートを持つと翔に届けた。 「ノートくらい、少しぐらい破れてもいいけど、顔は大丈夫?」 「大丈夫よ。けど、ほんまに好かん教師やわ。暴力をふるうなんて最低」佳代は唾を吐き捨てるように言った。 「そやけど、授業中に内職をしとったらあかんやろ」 「内職をするつもりはなかったんやけど、宿題の分からへんとこを見とったら、ちょっと集中しすぎたんや。それをあの先公。あっ、そうや。ついでにちょっとここ教えてよ」  佳代は翔のノートを取るとページをめくった。 「ここなんよ、分からへんのは」佳代は分からない部分を指さした。 「ふうん、どれどれ。ああ、これか、これはね」  翔は筆記用具を持ってくると自分のノートの新しい部分に計算を書き始めた。 「これでこんなになるんや」 「あっ、そうやったの。やっとわかった。ありがとう」  佳代は本来の明るい顔に戻った。周りにいた生徒たちは徐々に自分の席に戻った。  それ以来、佳代は数学を中心に他の教科も翔に質問をするようになった。 「私、数学と理科が苦手なんよ。あんたの説明、先生より分かりやすいわ。代わりに授業をしてほしいくらい」 「ええ、それは無理や。いくら何でも先生の代わりはできへん」 「そんなことあらへん。私だけと違うで、皆そう思とるわ。そやけど、何でそんなに賢いん?塾へ行っとるの。それともガリ勉しとんの?」 「まあ、二年生の二学期頃から勉強はするようになったけど、そんなにはしてへん。学校の授業をよく聞いて、宿題をきちんとやるだけだよ。間違えたところは後から直しとくけどな。それだけさ。塾は行ってない。家にそんな余裕はないよ」 「あんた、頭いいんだ!」

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