駅伝大会

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 今年も十一月の中旬に校内マラソン大会があった。翔は昨年よりも順位をさらに上げて三年生の男子全体で五位になった。  十二月になると市内の十の中学校による駅伝大会が開催される。選手の選考方法については各中学校によって異なっていたが、翔の中学校では陸上部の生徒ばかりに偏ることを避けてできるだけ多くの運動部から八人の選手と三名の補欠を選んでいた。今年は陸上部で長距離をやっている生徒が三名とサッカー部が二名、野球部、バスケット部、バレー部から一名ずが選ばれた。補欠にはテニス部とバドミントン部から一名ずつと科学部の翔が選ばれた。翔は補欠の一番だった。発表の時運動部ではない翔が選ばれたことに生徒たちはどよめいたが、これまでにも運動部ではない生徒が選ばれることはあったし、校内マラソンの順位を考えれば不自然なことではないというのが駅伝の選手の指導に当たる体育科教員の吉川先生の説明だった。 「校内マラソンで五位やったのに何で翔がレギュラーに選ばれへんのや」と疑問を訴える生徒の声は翔には嬉しかったけれど、本音ではできれば駅伝には出たくはなかった。 「レギュラーじゃなくて残念だけど、もし走ることになったら頑張ってね。私、応援に行ってるから」林佳代が翔の肩を笑顔でポンと叩いた。  駅伝チームの練習が始まった。十二月ともなると日の暮れるのも速くなる。それに三年生には間近に迫った高校受験もある。練習は放課後の三十分程度で校内マラソンのコースを速く走ることを意識しながら各自のペースで走ることだった。終了したら各自でクールダウンをして解散した。日曜日には選手たち各自で自分の走る区間を実際に走って道の斜度や距離を足で確かめていた。翔は補欠なので吉川先生の言うように三番目に長い五区を走った。土曜日の午後にコースを知るために一度だけ全体練習があった。この時翔は二番目に長い最終区間をアンカーになった陸上部の山川と一緒に走った。アンカーになるだけあって山川は速かった。とても同じ速さでは走れないと思った。  第二学期の終了式が翌日に迫った日曜日に対抗駅伝大会が行われた。市営の球場を起点として市内のいろんな方向へコースが伸びていた。レースは午前九時に始まる。翔は眠い目をこすりながら一時間以上も前に集合して同じ中学校の選手たちと一緒にウオーミングアップをしていた。 「皆、大変だ!」陸上部の生徒の一人が血相を変えて走ってきた。 「何や?」五、六人の生徒がそろって声を出した。その場にいた者は全員声の聞こえた方を見た。 「アンカーの山川がケガをしたんや」息を切らしながらその生徒は言った。 「どんなケガや」数人の生徒が言った。 「仮設のトイレから出ようとした時に木箱を踏んで降りようとしたんやけど、その時に木箱が前に回転したもんでバランスを失って転倒してしもたんや」 「それで、ケガの具合は?」 「左足首を捻挫したみたいなんや」 「ええ、本当か?早く先生に言うて来い」  報告に来た生徒はすぐに先生の所へ駆けつけた。  突然吉川先生から「すぐに来い」という呼び出しがあった。翔は急いで先生の下へ駆けつけた。 「アンカーの山川が仮設のトイレから出る時に置いてあった木箱を踏みそこなって転倒して左足首を捻挫してしもたんや。木箱の踏み方が悪かったか、起き方が悪かったかわからへん。段差解消の木箱が置いてあるなあ。あほやなあ。まあ、しょうないか。山川は走れへんようになってしもたわ。そこでやな、土坂、おまえ、アンカーの山川の代わりに走ってくれるか」 「ええっ!」翔はひっくり返りそうになるくらい驚いた。 「僕がですか?」翔の心臓は胸の中で大きく弾んだ。体中が暑くなって額からは汗も滲み出た。 「ああ、そうや。おまえは補欠の一番やろ、おまえしかおらへん。出てくれるな。おまえ、昨日山川と一緒にコース、走ったんやろ」先生はしっかりと翔の目を見ながら言った。この目つきには逆らうことはできない。覚悟はしなければならないが、すぐには現実のこととは思えなかった。  先生の後ろには山川がサポートに駆け付けた陸上部の生徒二人に両肩を支えてもらって立っていた。 「土坂、すまんけど走ってくれ。おまえしかおらへんのや。別に順位を上げよとか無理なことは誰も言わへんと思うで無事に走ってくれたらええんや」山川が頼りない、細い声で言った。  先生は土坂の返事を待たずに大会本部に選手の交代を告げに行った。すぐに選手の交代が発表された。応援に来ていた生徒たちはアンカーの山川に代わって翔が走ることになったことを知って驚いた。 「翔、頑張れ!」  肩の重荷になりそうな声援が生徒たちの間からいくつも聞こえた。 「翔君、良いじゃない。頑張って!」  林佳代に言われると頑張ろうと言う気持ちが大きくなるが、本当に他校の選手を抜くような力が出せるのか自信などなかった。むしろ大きく順位を下げることになったらどうしようか、学校に行けなくなるのではないかという気持ちがのしかかってきた。  翔は先生からアンカーの走るコースを説明された。道は土曜日に山川と一緒に走ったので分かってはいるが、軽く流して走っただけなのでペース配分とか勝負になりそうな所は考えてなかった。記憶を頼りにどう走ろうかと考えたが、頭の中は混乱した。他校の選手を相手にとにかく抜かれにない、抜かれたら抜き返す、できれば抜こうと思った。身体が震えた。応援だけのつもりで気楽な気持ちでいたが、ウォーミングアップをもう少し入念にやろうと思った。身体を動かしていろいろ考えているうちに覚悟が固まってきた。できるだけの走りをしよう。急に走ることになったのだから順位を落としてもそれほど文句は言われないだろうから力まないようにしよう。みっともない走り方だけはできない。心の中では何とか奮い立たせようとする言葉が飛び交った。  号砲が大きく鳴って第一走者がスタートした。駅伝大会が始まった。興奮はまだ走っていない選手だけでなく応援に集まった生徒や教員にも伝わった。拳を握り締め、「頑張れ」と声援を送っている。すでに中継地点に向かった選手もいる。  翔の走る第八区は球場を出た後、御幸通りを宇治の内宮前まで往復するコースだった。帰りの御幸通りの上り坂が勝負になりそうだと思った。  待っている時間は長かった。第四区から五区への中継地点は大会本部のある球場だった。翔の中学校が第四位であることが分かった。タスキが手渡されるのを見ているだけでも緊張してきて何故かその場で足踏みをしてしまっていた。皆は両手でメガホンを作って「頑張れ!」と叫んでいる。右腕をぐるぐる振り回している者もいる。  中継が終わって選手たちの姿が見えなくなると周りは先ほどの興奮した歓声もどこへ行ったのかと思われるほどに静かになった。応援に集まった生徒たちは中学校ごとに固まって寒さを避けようとした。冷たい北風にさらされてポケットに手を入れて小刻みに足踏みをしている。髪の長い女子生徒は風で顔を隠されたりしている。  係りの教員からアンカーの選手は集合するようにという指示があった。翔は上下のトレーニングウエアを脱ぐと中継ラインに向かった。 「頑張れよ」 「頑張れよ」肩に負担になるくらい皆は声援をくれた。翔は手を振って答えた。  寒さに震えて待っていると一位の走者が現れた。タスキをもらった一位の中学校のアンカーが走り去るとすぐに二位と三位の中学校の走者が現れすぐにタスキを渡していった。翔の中学校のは四位で走ってきたが、すぐ後ろに五位の中学校の選手が追ってきている。翔はタスキを受け取ると斜めにかけて勢いよく走り出した。 「翔、頑張れ!」声援がいくつも背中を押した。翔の足は機械的に舗装路を蹴っていた。タスキを受け取った瞬間、翔は自分だけが皆のいる現実から切り離された別の空間にいるような気がした。明るい色どりのトンネルの中を走っているように思えた。北風の冷たさも分からない。この空間では一つのことだけに集中しなけらばならなかった。それは第一中学校の選手として走ることだった。とにかく走る。道の両側にいる応援の中学生たち、両側に立つ樹木が後ろへ流れていく。特徴の少ない景色が記憶されたかと思うとすぐに次の景色で上書きされてしまう。前の走者に追いつきたい。呼吸は苦しくなる。後ろの走者がどのくらい離れているのか気になる。振り返ってはいけない。振り返ったら遅くなる。向かって来る風は冷たいが、北風ではない。空気を切り開く時の抵抗だ。道は続く。  御幸道路に出た。道は広い。長い下り坂が始まった。前のめりになり過ぎないように走る。突然、風が吹き抜けるようにして後ろの走者に翔は抜かれた。一瞬のことで気付くこともできなかった。抜かれた悔しさと申し訳なさが残った。抜き返さなければならない。腕を力強く振って一歩を大きく、速く踏み出す。並んだ。相手は速く走り出した。追いかける。下り坂で速度を上げる。地面を蹴るたびに膝に大きな力がかかる。足首をくじきそうだ。並んだ。抜いた。今度は速度を上げては来ない。翔はそのままの速度で走る。いつ追いつかれるか分からない恐怖から速度を落とすことはできない。ふと顔を上げると三位の走者の背中が小さく見えた。  内宮前の折り返し点に近づいた。長い直線道路の先の方に二位、三位の選手の背中が見える。折り返してきた一位、二位、三位の選手とすれ違う。三位との差はそれほどない。折り返し点を過ぎた。三位の選手を追いかける。なかなか距離が縮まらない。  御幸道路の上り坂にさしかかった。前を走る選手が遅くなった。翔も遅くなった。限界など考えずに走らねばならない。苦しい。胸が痛い。ふくらはぎが痛い。前の選手との距離が縮まった。走り続けていると距離はさらに縮まった。並んだ。抜いたと思ったら、相手は突然もがくように速度を上げると翔を抜き去った。相手の今のダッシュにはついていけない。しばらく後ろを走る。再び速度を上げて並び、抜いた。相手は怒った野生動物のように速度を上げた。この速度に翔は再び抜かれた。競い合う力は出なかった。翔は後ろを走るしかなかった。  上り坂が終わると六百メートルほどでゴールの球場に着く。起伏の少ない道を翔は三位の選手に離されないように走った。 その時「翔君、頑張って!」と沿道から聞き覚えのある声が聞こえた。同じ中学校の何人もの生徒から同じ声援を聞いていたが、この声だけはすぐに聴き分けられた。清美が応援に来てくれたのだ。頑張るしかない。どこにいるのか確かめたかったが、そんなことはできない。走り続けるしかなかった。勝負をゴール直前と決めると翔は三位の選手の後ろにぴったりとついた。  沿道に群がったたくさんの人が拳を上げたり、身体をジャンプさせたり、叫んだりしている。ゴールは近い。残り百メートルくらいだと思った地点で翔は腕を思いきり振って短距離走のつもりでダッシュをした。前を走る三位の選手も気が付いて同じようにダッシュをした。二人はほぼ並んで走った。苦しい。何故もっと速く走れないのかと思った。道の両側に並ぶ人たちは歓声を上げた。  ゴールインした。翔はそのまま走り続けて人混みを抜けた。徐々に速度を落として大きな息をしながら歩いていると同じ中学校の陸上部員が大きなタオルを被せてくれた。 「翔君!」駆け寄って声をかけてくれたのは林佳代だった。 「土坂、ようやった」続いて吉川先生も駆けつけて肩を叩きながら言った。 「先生、結果はどうだったんですか」翔は大きく息を継ぎながら聞いてみた。 「同着だと思ったんだが、審判の判断によると四位だった」 「三位じゃなかったんですか。あんなに走ったのに」 「ええやんか、四位でも。順位を落とさなかっただけでも大したもんや」 「土坂、ありがとう。代わりに走ってくれて。俺だったらあんな走りはできなかったよ」山川が手を差し出しながら言った。翔と山川は硬く握手をした。  荒かった息が徐々に収まっていった。同時に身体が寒さを感じ始めた。

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