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 朝になると、雨脚が強まっていた。ここ最近、ずっと降っている気がする。早くこんな時期過ぎれば良いのにな、と思う。  憂鬱になりつつも、早めに家を出る。狩南さんよりも先に着きたいのだ。昨日は、また教科書やらを濡らされないように机のなかを空にして帰ったけど……代わりに何か入れられる可能性もある、と思っていたから。あの人ならやりかねない。  ところが、こんな時に限って、電車が遅延していた。ホームのアナウンスで、何度も、人身事故だと謝っていた。  結局、教室に着いたのは、いつもより少し早いくらいの時間になった。狩南さんがいるのを見て、しまった、と思ったけど、机のなかには何も入っていなかった。  椅子に何か塗られているんじゃないかとか思ったけど、そんなこともなかった。 安堵の息を吐くと、ちら、と教室の後ろの方で談笑している狩南さんを見る。もう、気が収まったのだろうか……? 座ろうとしたところで、華井さんがやって来る。 「あっ。お、おはようございます」  立ったまま、頭を下げた。自分から挨拶するのは初めてで、つい、緊張してしまったのだ。  けど、華井さんは何も言わず、どころかこちらを一切見ずに、席に座った。  一瞬、自分が幽霊になったのかと思った。  いや、と私はすぐに思い直す。そんな訳ない。ちょっと、朝だから声が出ていなかったのかな……? うん、きっとそうだ。  腹から息を吐くことを意識する。 「あの、華井さ」 「あ~なんか電話きたぁ」  華井さんは、スマホ画面をじっと見つめながら教室を出ていった。  頭が真っ白になる。 ぼうっと暫くそのまま立ち、それから、ハッとして座った。 ……そんな、まさか……。昨日の今日で、これって……。  いや、違う。本当に何か急用があったのだろう。  そう思いたかったけど、華井さんはずっと様子が変だった。休み時間になると、すぐに教室を出て行くのだ。それで、授業が始まるギリギリまで戻って来ない。移動教室のときもそうだった。今までは、そんな行動することもなかったのに。 『もしかして、避けられているのでしょうか?』  休み時間にも話す仲になってきていたのに、一言も話さないで放課後になってしまったから、ノートで桃弥に聞く。 う~ん、と桃弥は唸った。 「確かに……華井さん、さっきも何も言わずに帰っていったよね。でも、まだ分からな」  そこまで言って、窓縁に座っている桃弥は正面を見て口を噤んだ。  横を見ると、狩南さんが立っていた。  慌ててノートを閉じる。 「な、なんですか」 狩南さんは、「あーごめんね、勉強してるとこ邪魔して」と楽しそうに言った。 それから、私の耳元に顔を近づけると、小さく低い声で言う。 「昨日、あんたが帰った後、華井とちょっと話したのよね。何を言ったのかは教えてあげないけど……すーぐ私の嘘を信じたよ。華井は、あんたが自分のこと嫌ってるって」  短く息を漏らして笑った。 「だから言ったじゃん。あんたは、滑稽で惨めだ、って」  まっ、これでもう何もしないであげるから、と狩南さんは私の肩を叩くと、じゃーね、と明るく言い、友達の輪のなかに入っていった。  私は、ひとり椅子に座って俯くことしか出来なかった。 確かに、惨めだな、と。本当に言う通りだ。でも……何だか私らしいな、とか、思ってしまった。   とぼとぼと、帰り道を歩く。  狩南さんが、何を言ったのかは分からない。けど、華井さんは、私と口を聞かないという選択をした。それはもう、どうしようもない事実だった。  奇跡だったんだ、華井さんと、友達になれたことは。だから別に、どうってことない。  そう自分に言い聞かせるも、俯いた顔をなかなか上げられずにいた。  勘違いしていたのかな……華井さんと、前より話せるようになったからって、それだけで、本当に友達になれたと……いや、友達だったのは、本当なんじゃないかな。友情なんて、狩南さんの言う通り、こうやって簡単に壊れていくもので…………。  駄目だ。  頭を横に振り、暗い考えを吹き飛ばそうとする。  このままじゃ、桃弥の未練を、解消出来ない。 「胡桃」  柔らかい声が聞こえ、ぱっと桃弥の顔を見る。   優しい表情で見つめていた。 「俺は……まぁ、地縛霊になっても良いからさ。胡桃は、自分のことを第一に考えて」  胸がぎゅうっと締め付けられる。  地縛霊になっても良いって……そんな訳、ないのに。  桃弥の顔をじっと見つめ返す。 「大丈夫です。まだ、諦めたくないです」涙が出そうになるのを、ぐっと堪えた。「明日、華井さんに言ってみます。……狩南さんに、何を言われたのか知らないですけど、私のことを信じてくださいって」  でも、また、無視されたら?  怖い。  目から水が垂れてきて、すぐに顔を逸らした。  ……本当に、弱い人間だな。  いつまでも、傷つくのが怖い。  桃弥は、暫く黙っていた。  それから、少し震えた声で言う。 「俺はどうなっても良いんだよ、もう。死んでるからさ。……でも、」  言葉を詰まらせたから、どうしたのだろうと思って桃弥を見ると、全身が、小刻みに震えていた。両手で顔を覆い、苦しそうにしていた。 「も、桃弥」  呼びかけると、三拍ほどして「心配なんだ」と桃弥は呟いた。 「俺が不登校になる前の状況と、似ていて……胡桃も、俺と同じようになるんじゃないかって」  私は、出来るだけ、明るい声で言う。 「それは考え過ぎですよ」  でも、桃弥の震えは、止まらなかった。 「……本当に、神を恨むよ。生きてるときに、救ってくれなかった癖に、死んでからも、こんな、胡桃を巻き込まないと成仏出来ないようにして……」  やがて、啜り泣く声がする。 「胡桃。頑張っているのは、本当に素敵だし、嬉しいし、応援したいよ。……でも、一つだけ、約束して」  私はすぐに答える。 「はい。なんで、しょうか」 「絶対に、こっち側に来ないで」  透けている、桃弥が懇願する。 「もう無理だって思ったら、俺のことは忘れて。地縛霊になっても、胡桃を恨んだりすることなんてないから。安心して、何事もなかったように、生きていって」  頷くことが、出来なかった。  でも、嫌だとも、言えなかった。 「……わ、分かったかも、知れないです」  だから、そんな、可笑しな返事をしてしまった。  桃弥の震えは止まっていた。  へへ、と、こちらを見て笑った。  それから、もっとハッキリ言ってよ、と、頭を撫でられた。触れられていたら、多分、髪の毛がぐしゃぐしゃになっていただろうな。  桃弥は、言っていた。  一人だけでも、俺のことを信じてくれたら良かったんだ、と。  本当に、それだけで救われるのだと思う。  私の理想とする世界もそうだ。 どれだけ狭くても良い。ここでなら、生きていきたい、って思えるような。 そんな世界を築きたい。  ……私は、まず、お父さんに必要とされなかったから。余計に憧れが強いんだろうな。  今更ながら、自分のなかの最大の欲望に気が付く。  うん。  やっぱり、ここで諦めたくない。  まだ、一歩踏み出し始めたばっかりだから。 桃弥の提案で、チョコレートケーキを買って帰ろう、ということになった。落ち込んだ時は、大好物を食べるのが一番だ、と。  家の近くの大通りに、ちょうど新しく出来たケーキ屋さんがあった。まだ行っていなくて気になっていたから、浮き立つ思いで向かう。  けど、あと数メートルで着くというところで、思わず足を止めてしまった。 「胡桃?」  目に入った光景を、信じたくなかった。それでも、確認せずにはいられない。  私は、ケーキ屋の前で話している、男女を指差す。 「あの、あれ……お父さん、ですよね?」  知らない女の人と、仲良さそうに話していた。  桃弥は、「あ、ほんとだ」と言った。私は、すぐ横にあった電信柱の後ろに隠れる。 鞄を抱え、ひたすら俯いていた。 今、見つかったらどうしよう。  心臓が激しく鳴り、脇汗が横腹を伝う。 「あ、お父さん、向かいの道路の方に行ったよ」  桃弥がそう言うから、一旦、胸を撫で下ろすも、自然と目はお父さんを追っていた。  お父さんと知らない女の人は、煌びやかな装飾のお店に入って行った。よく目を凝らして見ると、有名なジュエリーブランド店だった。 「……何、あれ……」  デート? あの女の人に、買ってあげるの?  吐き気が込み上げてきて、すぐに口を押さえた。何か、黒くて濁ったものが、胃の中に流し込まれていくようだった。  私は、そのまま走って家に帰った。ケーキなんて、食べる気になれない。    暗い部屋のベッドで、制服を着たまま、暫く横になっていた。  眠たくはないけど、何もする気が起きなかった。 「……楽しそうだったな、お父さん」  誰に言うでもなく呟く。 「もう、お母さんのことなんて、とっくに忘れていたんだね」  桃弥は、傍に居て、ただ俯くだけだった。何と言えば良いのか分からないのだろう、と思った。でも、それで良かった。  窓の外の重い空を見ながら、お父さんに言いたいことを吐き出す。 「私を、睨むくらい……それで、精神的に病んで、離れて住むくらい……お母さんが亡くなったのが、悲しいんじゃなかったの?」  上ずった声だった。けど、全然、涙は出てこなかった。もう枯れちゃったのかも知れない、と思った。 「――み、胡桃!」  いつの間にか、眠りに落ちていたようだ。  桃弥の声で目を覚ますと、窓の外はすっかり暗くなっていた。時計を見ると、二時半だった。 「……ごめん。何度か声をかけたんだけど、ずっと起きなかったからさ、このまま寝かせておこうかとも思ったけど……俺、布団かけられないし。風邪引いちゃうと思って」  桃弥は、申し訳なさそうな顔をして、頭を搔いていた。 「いえ、ありがとうございます」 制服を見ると、どこにも皺がついていなくて安心した。……寝返りを打っていなかったのだろうか。頭がまだぼうっとしていた。一度大きなあくびをしてから、シャワーを浴びに行く。  寝間着に着替えながら、私を見ないようにと床に伏せている桃弥に話しかける。 「お父さんと、あの女の人のことは、もう忘れることにしました。なんか呆れましたし」  本当は、まだずっと心に引っかかりっぱなしだ。  でも、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかない。 「そんなことより……色々と思うことがあるんですけど、聞いて貰っても良いですか?」  私にとっては、桃弥の未練を解消することの方が大事なのだから。  桃弥は、もちろん、と頷いてくれた。  私はゆっくりと話し始める。 「狩南さんが、言っていましたよね。結局みんな表面的なところしか見てないし、ちょっとしたきっかけで離れていくもんなんだと。……それが、人なんだと」  うん、と桃弥は短い相づちを打つ。 「あの時は、よく分からなかったというか……分かろうともしませんでした。でも、今こうして華井さんが離れていったことで……一理あるのだと思ってきました」  着替え終わったから、もう良いですよ、と桃弥に言う。  二人ともベッドに腰掛け、なんとなく月を見上げていた。 でも、殆ど雲に邪魔されてボヤけていた。 「……実際に。狩南さんが、華井さんが中学のときに人の男を奪ってたという嘘の噂を流したら、みんなは華井さんの喋り方や動作を見て、ぶりっこだからと信じました。それで華井さんは、ずっと一人になっていました。桃弥のときは……どうなんでしょう。桃弥を苛めていた人の言い方が上手かったんですかね。それだけでも、人は流されて、離れていってしまう……」  一度、唾を飲み込んだ。  それから、桃弥の顔を見て話し出す。 「でも……だからこそ、逆手に取ることも出来ると思うんです」 「逆手?」  桃弥は、キョトンとした顔で聞き返す。  私は深く頷いた。 「表面的なところしか見てなくて、ちょっとしたきっかけで離れていくのだとしたら……その逆もあり得るのではないかと。つまり、私がこの長い前髪を切って、ちゃんと目を見て華井さんに思いを伝えたら……それだけでも、華井さんは思い直してくれるのではないかと……思うんですけど……」  最後の方は、何だか自信がなくなってきて小声になってしまった。  すると、桃弥は「おお、なるほど……!」と明るい声を上げる。  けど、すぐに唸り、眉を下げてしまった。 「確かに、それなら今の状況も変わるかも知れないけど……でも、前髪を切るって……」  私は苦笑して俯く。 「そうですよね。言うのは、簡単ですけど……」  三拍ほど空け、でも、と私は出来るだけ明るい声で言う。 「もしかしたら、そんなことしなくても、めげずに華井さんに話しかけ続けたら口を聞いてくれるかも知れないですし……その、最終手段、ということで」  桃弥の顔を見ると、浮かない表情をしていた。  私は、ふふ、と思わず笑ってしまう。  何が言いたいのか、分かるから。 「大丈夫です。無理は、しませんから」  桃弥は、うん、と優しく頷いた。相当、私が桃弥と同じことになるかも知れないのが、怖いらしい。  頑張ります、と笑顔で言った。  翌朝。私は駅のホームで吐いた。  お父さんと、あの女の人が仲良さそうに歩いているところを、何度も思い出してしまった。その度、いや、そんなことより……と華井さんに話しかけるシミュレーションを脳内でした。でも、全然、上手くいかなかった。私が話しかけても、華井さんは振り向いてくれなくて。やっとのことでこちらを見てくれたと思ったら、何故か、華井さんの目が、お父さんの目になっているのだ。あの時の、お母さんが眠っているベッドの横で、泣きながらこちらを睨んでくる目に――。  ホームのベンチで、スカートについてしまった吐瀉物をティッシュで拭いとっていると、桃弥が言った。 「今日は学校を休もう」 「でも……」 「休まないと、呪います!」  桃弥はうらめしやのポーズをし、べっと舌を出す。 「それは嫌です」  あはは、と桃弥はポーズをやめた。お互い、冗談だと分かっていた。 「俺、思うんだ。地縛霊になりかけたとはいえ、それまでに五年も経ったし、胡桃に出逢えたら、あっさりと教室から出られたし……神って気長なのかなって」  恨む気持ちは変わらないけど、と明るく言った。  ○番線に電車が参ります、とアナウンスされた。 「だからさ、焦らないでいこう。多分、またあと五年は大丈夫だよ。ベテラン幽霊の勘!」  へへ、と歯を見せて笑うと、私の頭を撫でた。  私は、静かに頷いた。  ホームに走ってくる電車の音が、やけに大きく聞こえた。もしかしたら、あと一歩で人身事故を起こしてしまったかも知れない、と思った。  それから私は、二週間も学校を休んだ。 毎朝、制服を着て家を出て、お父さんが出勤した頃に家に帰っていくのがルーティンになっていた。そのまま、ずっと部屋に閉じこもって桃弥と話したり、家の近くを散歩したりした。一度、担任の先生から家に電話がかかってきたけど、その時は私しかいなくて、元気になったら行きます、とか言ったら電話がかかってくることもなくなった。それほど心配していないらしい。 「これじゃ、桃弥のときと同じじゃないですか」  学校に行かなくなって一週間が過ぎた頃、暗い部屋で布団にくるまって呟いた。そんなに連続で休んだのは、初めてだったのだ。このままずっと休んでしまう気がして、怖かった。 「同じじゃないよ。生きていたら、俺にはならない」  それから、桃弥はこちらをじっと見つめた。 「胡桃、今、消えたいって思ってない?」  ドキッと心臓が跳ねた。  否めないでいると、桃弥は俯く。 「俺もそうだったから、分かる」  それから柔らかい口調で言った。 「生きてるとき、心のどこかで、ずっと消えたいって思ってたから。分かるよ。……今も、そう思うのは変わらないけどね」  私は一粒の光もない夜空を見上げる。 「……同じじゃないですか」  桃弥は首を横に振り、「胡桃は俺が死なせないよ」と凛とした声で言った。  

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