一つの明かりもついていない家に帰り、ベッドに顔から倒れ込む。全身が、このまま深く深く沈んでいって、消えてしまえばいい、と思った。 「なん……で……」 乾いたはずの涙が、また溢れ出す。 「桃……弥」 嫌だ。嫌だ。私が今、何か行動しないと、桃弥が地縛霊になってしまう。 でも――拒絶されたんだ。 私には、もう無理だと。だから、桃弥も辛くなって、諦めたんだ。 何度も鼻を啜り、呻き声を漏らし、布団をグーで殴った。 「私が……っ、私が代わりに、幽霊にでもなれたら、」 そこで、私は桃弥の言葉を思い出す。 ――絶対に、こっち側に来ないで。 ――もう無理だって思ったら、俺のことは忘れて。 ――安心して、何事もなかったように、生きていって。 「うぅ……っ」 私は、歯を食いしばって、何度も涙を拭った。でも、思い出すのは、桃弥の笑顔ばかりだった。桃弥に触れられた感触が、確かに残っているんだ。桃弥は、この世にいないのかも知れないけど、確かに私の隣に居たんだ。 ずっと、傍で、私に一歩踏み出す勇気を与えてくれてたんだ。 「無理、だよ……今更、忘れろだなんて……あなたは、どれだけ私にとって」 トントン、と部屋の扉がノックされた。 私は、ハッとして起き上がり、身を固める。 「胡桃……大丈夫か?」 お父さんの、声だった。 胸の奥が、どんどん冷えていく。 何が? お母さんのことなんて忘れて、私のことを遠ざけていた間も、ずっとあんな風に知らない女の人とデートしてた癖に。 私は、何も返事しなかった。扉にはいつも鍵を掛けているから、お父さんは入って来れない。 「……ケーキ、買ってきたから。冷蔵庫に入ってる」 お父さんは、それだけ言うと、階段を下りていった。 ……ケーキ……? 私の頭のなかは「?」だらけになる。 何で? 私に買ってきたの? この前、ケーキ屋さんの前で女の人と話してたけど……あの人と一緒に買ってきたの? 何考えてるの? 私は頭を掻きむしった。涙は、いつの間にか止まっていた。 ……分からない。お父さんの考えていることが、何も分からない。 ――聞いてみれば良いじゃん。 どこからか声が聞こえてきて、私は部屋のなかを見回した。 けど、当然、誰もいない。 ――大丈夫。胡桃なら、ちゃんと向き合えるから。 目頭が熱くなる。 あぁ、桃弥の声だ。 桃弥が、今もずっと、私のなかにいて、背中を押してくれようとしている。 私は、もう一度泣いた後、顔を布団で拭って、扉の前に立つ。 大きく、深呼吸した。 そうだ。桃弥に、いつの日か言ったんだ。近いうちに、ちゃんと、今のお父さんの気持ちを聞いてみる、と……。 胸に両手を当てる。 桃弥。忘れることは、出来ないけど……このくらいの約束だったら、果たせるよ。 私は、鍵を開けると、そうっと扉の向こうへと踏み出した。 リビングには明かりがついていた。けど、入ってみると誰もいなかった。 私は、冷蔵庫を開けてみる。そこには、小さな白い箱が入っていた。出して中を開けて見ると、チョコレートケーキがあった。私の、大好物の。 思わず眉を顰める。 どうして、これを、今日買ってきたの? トイレの水が流れる音がして、お父さんの足音が近づいてくる。私は、逃げ出しそうな足をぐっと踏ん張り、チョコレートケーキを持ったままじっと立っていた。 お父さんが、リビングに入って来る。 「……胡桃……」 私は、俯いたまま、静かに聞いた。 「どうして、ケーキなんか買ってきたんですか?」 しばらく間が空いた。 お父さんは、少し柔らかい声で言う。 「今日は、胡桃の誕生日だろ」 私は、一瞬思考が止まった。それから、言われた言葉の意味を、脳内で必死に考える。 誕生日……。そうだ、っけ。あぁ、確かに今日は、私の誕生日だ。 すっかり忘れていた。 なんで……覚えてるの? なんで、私のことを、祝ってるの? ――別に、普通の人に見えるけどなぁ。 桃弥が、以前、お父さんを見て言った一言を思い出す。 息が、浅くなる。気を抜いたら倒れそうだった。 私は唇を引き結び、やっと言葉を発する。 「お父さんは……私のことが嫌いなんじゃないんですか?」 聞くと、お父さんは、二、三歩、私に近づいてきた。 まだ少し距離があるけど、私はついビクッと肩を震わせてしまう。俯き続けていると、お父さんは、はっきりとした口調で言った。 「いつ、そんなこと言った?」 私は、何も答えられなかった。 言われたことは、ないから。 「で、でも、」 そこで、黙り込んでしまう。あの時、お母さんが病院で眠ってるベッドの横で、私のこと睨んでたじゃん。そう言って、もし、忘れられてたらどうしよう。私が、三歳の頃の記憶だけど……やけにリアルに残ってるんだ。ずっと、縛られて生きてきたんだ。そんなの―― 「お父さんの目が、怖いのか?」 私は、ゆっくりと、顔を上げた。 お父さんの方は、見れなかった。けど、こくん、と頷く。 するとお父さんは、はぁー、と深い溜息を吐いた。 「やっぱり、そうか」 それから、どこか自嘲するように言う。 「母さんにも、よく、目つきが悪いって怒られたよ」 ……へ……? 私の頭は、また思考停止する。 「それで、ずっと怯えていたんだな」お父さんは、まぁ、と優しい声色で言う。「急に、高校生になってから一緒に住むことになって……困ったよな。それまで別々に暮らしていたんだから、他人同然だし……いくら血が繋がってるとはいえ、怖がられても仕方な」 私は、そこで口を挟む。 「お父さんは、私のことが、憎いんじゃないんですか?」 何故か、涙が頬を一筋伝っていった。 「だから、私のことを、ずっと遠ざけていたんでしょ?」 願うように聞くと、お父さんは、一歩下がった。 「憎むって……どうして、そんな」 「だって、私のせいで、お母さんが亡くなったから!」 叫ぶと、涙が溢れ出てきて止まらなくなった。ケーキに、ぽたぽたと涙の粒が落ちていく。片手で口を押さえて嗚咽していると、お父さんは言った。 「…………そんな風に、思っていたのか……………」 そして、また深い溜息を吐くと、 「胡桃。ちゃんと、座って話をしよう」 と言って、近くにあった椅子を引いてくれた。 「胡桃は、事故のことを詳しく知っているのか?」 小さな机の上に両腕を置き、身を乗り出すようにして、お父さんは聞いてくる。 私は、正面にいるお父さんの顔を見れずに、俯いて返事した。 「……私が、急に道路に飛び出したとかじゃないんですか?」 お父さんは、静かに言う。 「違う」 それから、消え入りそうな声で言った。 「……車が、突っ込んできたんだ。母さんは、胡桃の背中を押し飛ばした」 何も、言えなかった。 お父さんは、しばらく間を空け、話を続ける。 「……悪いのは、全部車側だ。仮に、胡桃が飛び出していたとしても。それに、どんな事故の遭い方だろうが、父さんの気持ちは変わらないよ。もちろん、母さんも」 お父さんの、視線を感じる。 私は、すっと顔を上げた。 「胡桃が、生きていてくれて良かった」 目の前が、滲んでいく。 頭のなかが、クリアになって。私は、声を上げて泣いた。 ごめんな、と、お父さんは何度も謝っていた。 私は、何度も何度も首を横に振った。 あぁ、私――本当に、取り返しのつかないことをしてきた。 二人で、一人分のチョコレートケーキを分けて食べることにした。私がそうしたいと言ったのだ。 お父さんは、会社で唯一仲のいい女性社員さんに、ずっと相談していたそうだ。最近まで別々に暮らしていた娘と、どうやって距離を縮めれば良いのか、と。お金渡せば懐いてくれるよ、と言われたのでお小遣いを渡そうとしたが、断られた。じゃあ、誕生日とかにプレゼント渡したら良いんじゃない? と言われたので、あの日――私が桃弥と偶然ケーキ屋さんの前で見かけた時――お父さんと女性社員さんは二人でいたのだ。 ジュエリーブランド店にも行ったけど、受け取ってくれるか分からないし、好みも分からないから、お母さんの妹さんに私の好物を聞いて、それを買うことにしたらしい。チョコレートケーキで丁度良かった、とお父さんは笑顔で言った。 それから、私のことを、どうしてずっと遠ざけていたのか……勇気を出して聞いてみた。 お父さんは、私のことが嫌いになったのではなく、お母さんが急に亡くなったことで精神的に病んでしまい、とても誰かと話せるような状態ではなく、私に迷惑が掛かる、と思ったらしい。それで、まだ幼かった私は、お母さんの妹さんに引き取られることになった。 本当は、すぐに良くなって、また私と暮らせると思っていたらしい。でも、完全に精神が回復しないまま、責任感で働き始め、体調を壊し……と繰り返していると、予想以上に治療が長引いてしまった。結局、やっとまともになった、とお父さんが自分で感じたのは、私が小学四年生の頃だった。 その話を聞いて、思い出した。私は、その頃、お母さんの妹さんに聞かれたことがあった。お父さんとまた一緒に住みたい? と。お父さんが、聞いてくれ、と頼んでいたらしい。 私は、その時、迷わず答えた。 嫌だ、と。 お父さんは、私の意思を汲むことにしたらしい。 「……お母さんが亡くなった時、胡桃の顔を見て、心に決めたんだ。俺は、この子だけは、何があってもしっかり守っていくと。……なのに、何も、親らしいことしてあげられないで……本当に、ごめんな」 お父さんは泣きながら、全身を震わて話す。 私は、そんなお父さんの顔を見る。 そうか。 そうだったんだ。 あの時の、お母さんが病院のベッドで眠っている横で、私を泣きながら睨んでいたお父さんの目は――。 頬が緩んだ。 けど、すぐに涙が零れ落ちていく。 全部、全部、私の思い込みだったんだ。 遠ざけられていた、と思っていたけど、本当は、ずっと、私の方から遠ざけていた。 何も話そうとせずに、決めつけていた。 お父さんの、真っ赤に腫れた目を見る。 眉間に凄く皺が寄っていて、何も知らない人から見ると、怖いって勘違いされそうだな、と思った。……過去の、私のように。 今は、違う。 私は、お父さんの気持ちを、知っている。 全身が、浮いてしまいそうなほど、軽くなっていった。胸の奥に沈んでいた重りが、急に、跡形もなく消えていって、息がしやすくなる。 ずっと、真っすぐに、目を見れていた。 「……ありがとう、ございます。私の方こそ、ごめんなさい」 机につむじが付きそうなほど深く頭を下げると、お父さんは、顔を上げてくれ、と言った。 私は、また、お父さんの目を見る。 なんて優しそうに笑う人なんだろう、と思った。 本当に、もったいない時間を過ごしてきたな、と心底後悔する。 今からでも、取り戻せるだろうか? 二人で、笑い交じりに泣き合った。何度も、ごめんね、ありがとう、と繰り返していた。 「……お母さんは、どんな人だったんですか?」 聞くと、お父さんは眉間を指で押さえつつ、ふわっと頬を緩める。 「世界一、優しいという言葉が似合う人だったよ」 身体のなかを、あたたかい風が吹き抜けていくようだった。 脳裏に、幼い頃見た、お母さんが赤ちゃんの私を抱いている写真が浮かんだ。天使のように、にっこりと頬を丸くしていた。今も、私とお父さんを見て、またあんな風に笑ってくれているだろうか。そうだったら良いな、と思った。 それから、お父さんは、私の顔をまじまじと見て言う。 「その、ずっと思ってたんだが……どうしてそんなに前髪を長くしているんだ?」 私は、ふっと笑って、首を大きく傾げた。 「どうしてでしょうね」 お父さんは、困った顔をしていた。 もう、大丈夫だ。 私は、これから、何があってもやっていける。 前髪なんて、壁なんて、整えなくても。 部屋のベッドにひとり座り、筆箱に入っていたハサミと、制服のポケットに入っていた手鏡を持ち、深く息を吸った。 ジャキ、ジャキ、と。壁が崩れる音がする。 太腿の上に、髪の毛が何本も落ちていった。 あ、と私はゴミ箱を取りに行こうとしたけど、一気に切り終えたい、と思ったから、そのままハサミを入れ続けた。 瞼に、空気が触れる。 「……よし」 手鏡に映った自分の顔を見つめる。切り方が悪かったのか、前髪が重い。けど――割りと可愛いな、とか、思っていた。 桃弥が、いつの日か私の目を見て言っていたな、と頬が緩む。やっぱり、桃弥は嘘を吐かない。自信を持ち過ぎだろうか……。でも、恥ずかしいと思ったら負けだ。 私は、明日、初めて目を出して学校に行くのだから。 ……桃弥は、本当の未練が分かったと言って、教えてくれなかった。けど、私は思う。前まで言っていた、本当の友達が欲しかったという未練と、そんなにはズレていないんじゃないかと。その前は、学校生活を楽しみたかった、と言っていたのだから。 だから、私は、今分かっている事のなかで、全力を尽くす。 布団を頭まで被って、 何度も何度もシミュレーションした。朝、教室に入ったら、華井さんの目を真っすぐ見て私の思いを伝えるんだ。 それで、また無視されるかも知れない。何も変わらないかも知れない。 桃弥は既に地縛霊と化していて、私には見えなくなってるかも知れない。 でも――後悔だけはしたくないから。 待ってて、桃弥。 どうなっても、何があっても、あなたのことは諦めたくない。 まだ、この世界のことを諦めたくない。 あなたに教えて貰ったから。 一歩踏み出せば、良い方向に変わることもあるんだと。 全部が全部、そうなるとは限らない。 けど、やる前から何もかも決めつけたくない。 もう諦めてばっかりは嫌だから。 私の世界は、私で変える。 とりあえず今やるべきことは……しっかりと睡眠を取ることだ。そう、冷静に思って、私はひたすら目を瞑り、深い深い眠りに落ちていった。
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