「とりあえず、俺で練習すればいいよ。……あっ、そうだ! いいこと思いついた」 にひ、と笑う桃弥に首を傾げたところで、三時間目開始のチャイムが鳴る。 人と目を合わせられるようになるにはどうすれば良いのか、って聞いたんだけど……何を思いついたんだろう? 授業中、真面目に先生の話を聞いていると、離れていっていた筈の桃弥がやって来る。不思議に思いつつ何も反応出来ないでいると、桃弥は、私の前に来てしゃがんだ。机の上に腕を置き、じっとこちらを見上げてくる。 ともかく板書を写すことに集中していると――桃弥の顔が、ノートから出てきた。 「ぎゃあっ」 思わず悲鳴を上げた。す、す、すり抜けてる! 改めて幽霊だということを認識する。 ……いや、本当に何やってるの……? 「燦美野さん、どうかしましたか?」 国語の先生が驚いた顔で私を見ている。当然、クラスのみんなも。 「あ、いえ、なんでもないです。ちょっと虫がいて……」 沢山の視線を浴びて胃を痛めつつ、適当な言い訳をして誤魔化した。あぁ、これでもう変な人確定だ。 桃弥は私の足元で土下座し、「やり過ぎました」と呟いた。ノートで詳細を聞くと、強制的に目を合わせると授業中だったら顔を背け辛いだろう、訓練するのに最適だ、と考えたらしい。 『確かに良い考えだと思います。でも、』 私はそこまで書いて、一旦、桃弥の方に顔を向けた。 数秒経ってから、また文字を綴る。 『今、私は桃弥と目を合わせていたと思いますか?』 「……ようにも見える」 『そういうことです。顔を向けていたとしても、長い前髪のお陰で、実際に目線をどこに遣っているのかは分からないのです。ちなみに私は今おでこ辺りを見ていました』 何それ、ズルいっ! と桃弥は大きな声を上げた。ふっ、と笑った息が漏れてしまう。けど、隣の人がこちらを見てきたのですぐに真顔になった。 「じゃあ、前髪をちょっと分けてみてよ。……駄目かな?」 桃弥は、遠慮しつつも興味津々な様子で私を見つめてくる。 何だか嫌な気がしなくて。むしろ、ちょっと嬉しい、なんて思ったりして。そんな自分のことを変だと感じつつ、私は前髪を分けてみることにした。 両手でゆっくりとカーテンを開けるようにして、目を露わにする。 桃弥の顔がハッキリと見えた。きめ細かい肌に、潤った唇。血色もよくて、ますます幽霊に見えない。 そんなことを思っていると、桃弥が更にこちらを覗き込んできた。 不意に目が合ってしまう。何だかやけにキラキラと輝いた目をしている。 「胡桃ちゃん。可愛いよ」 私はさっと前髪をなおし、顔を背ける。……何、今の。駄目だ、心臓の音が鳴り止まない。何だか顔も熱くなってきたし、どうしよう。 初めての感覚に戸惑っていると、桃弥は明るい声で呟いた。 「もっと見たかったなぁ」 ずっと目線を感じて、私はそれから授業どころじゃなくなってしまった。 次の休み時間にも、その訓練をやってみる。前髪を分け、こちらを見てくる桃弥と目を合わせるようにする。けど、やっぱりすぐに顔を背けてしまう。 横を向こうが上を向こうが桃弥はすんなりと顔を合わせてくるので、かなり恐怖だった。 あんまりやっていると休み時間でも目立つと判断し、すぐに中止する。授業中にもやったけど、前髪を分けながらひたすら目を瞑ってぷるぷるする人になってしまったので、途中で断念した。 目を合わせることは出来なかったけど、とりあえずこの訓練は続けよう、ということで二人の意見はまとまった。 お昼休み。 一旦訓練は休憩し、おにぎりを頬張っていると、一つ疑問が湧いてきた。 『桃弥にとって、楽しい学校生活とはなんですか?』 相変わらず窓ふちに腰掛けた桃弥は、太ももに肘をついて悩み始める。 「……友達がいる、かな」 何だか凄く気を遣って言われた。 『友達ってどうやって作るんですか?』 「とりあえず話しかける」 即答だった。桃弥は、少し唸ってから私に聞く。 「胡桃ちゃんは、この人と友達になりたいな、って思う人はいないの?」 頭のなかに、ポン、と一人浮かんできた。 こんな私に唯一話しかけてくれる、身も心も美しいお方。 『華井麗葉さんです。今、前の席に座っている人です』 文字にするだけで、ちょっと緊張してしまう。だって、私は華井さんの友達に相応しくないと思うから。素敵過ぎて、おこがましい。 「あぁ。今朝、仲良さそうに話してたよね」 『いえ、それは華井さんがお優しいだけです』 「そうなの?」華井さんを一瞥すると、私に微笑んだ。「この子も、けっこう一人でいるイメージだよ。まだ数日間しか見てないけどね」 確かに、その通りだ。 華井さんはどうやら、女子に好かれない人らしい。 前にトイレの個室で髪を整えていたとき、『華井マジうざい』『超ぶりっこ』『男とばっか話してる』などの陰口が聞こえてきたことがある。そのとき筆頭となって言っていたのは同じクラスの……ええっと、たぶん狩南さんだ。トイレに行くとよく見る、鏡の前で談笑しているグループで一番声の大きい人だから覚えている。 けど、華井さんは、それでどうこうしようという素振りを見せない。 自分は自分だと割り切っているように見えて、私は、それが格好良いな、と思っていた。 『華井さんは、私と友達になりたいと思ってくれるでしょうか?』 ドキドキしながら聞いてみた。 すると、桃弥は柔らかく笑って言う。 「それは胡桃ちゃんの頑張り次第じゃない?」そして、ひょいっと窓縁から降り、腰に手を当てる。「よし! じゃあ、俺が切っかけを作ってあげよう」 何やら手に力を込め始める桃弥。 ううう、と左手で右手首を掴み、そのまま右手のひらを華井さんの方に向ける。 な、何をするつもりなの……? と冷や冷やしながら見守っていると、華井さんの筆箱がボトンッと落ちた。 「出来た! ポルターガイスト! 胡桃ちゃん、拾って!」 えええっ。 急かすように言われ、私は勢いのまま拾った。そこで、華井さんが振り返る。 「わっ、ごめんねぇ。ありがとう~」 華井さんは私から筆箱を受け取ると、また前に向き直った。 会話終了。 「もっと、なんか話さないと」 桃弥は真剣な顔をして言う。ううっ……そんなこと、言われても。いや、弱音を吐いている場合ではない。協力してと頼んだのは私なのだから。ちょっと、スパルタな気もするけど。 ぐっと両拳を握りしめ、深呼吸してから、私は華井さんに話しかける。 「あ、あのっ」 切羽詰まったような声を出してしまったからか、華井さんは驚いて振り返った。 「どうしたのぉ?」 大きな目をぱちくりとさせ、私のことを見つめる。可愛いらしいな、もっと見ていたいのに……じゃなくて、どうしよう。何を話すか全く考えていなかった。 私は焦りつつも何とか口を開く。 「さ、さっきの筆箱、可愛いですね」 言うと、華井さんはそのまま数秒間も固まってしまった。 間違えた……と今すぐ頭を垂れたいくらいヘコんでいると、「あぁ、これぇ?」と華井さんは筆箱を持って笑ってくれる。 「ありがとう~。胡桃ちゃんもこういうの好きなの?」 ぱああ、と心の中に春の光が差した。 「えっと、はい、そうなんです。凄く女の子らしくて、華井さんにとても良く似合っています」 「本当ぉ? 嬉しい~」 華井さんが満面の笑みになる。私も凄く嬉しい。ほかほかと温かいお茶でも飲んでお花見したような気分になっていると、桃弥が耳打ちしてくる。 「どこに売ってるの? って聞いてみて」 えっ、どうしてだろう。何だかよく分からないまま、桃弥の言葉を繰り返すことにした。 「ど、どこに売っているのですか?」 「え~? どこだっけなぁ。あ、S駅前のpioni-だ」 ぴ、ぴお……知らないブランド名だ。女子高生に人気なのかな。 何も返せないでいると、また桃弥が耳打ちしてくる。 「こ、ん、ど、一、緒、に、買、い、に、行、こ、う!」 ……いきなりお誘い!? 戸惑いつつも、隣で桃弥が何度も「がんばれ」と両拳を掲げてくるので、やるしかない状況に追い込まれてしまった。 「ここ、今度、あの、一緒に」 「お~麗葉、また一人で食べてんじゃん」 ガクッと肩を落としてしまう。割り込んできたのは……ええっと、西田くん、だと思う。西田くんはよく華井さんに話しかけている人だ。あとはサッカー部ということしか知らない。 「そうだよぉ」華井さんは一瞬ムッとした顔をするも、私の顔を見て「あっ」と明るい声を上げ、食べかけの弁当を持って私の机に置いた。 「今日は胡桃ちゃんと食べてるんだよ~。ねっ?」 何だかちょっと圧のある笑顔だった。えっと、そうだったっけ……と戸惑っていると、西田くんが顔の前で手を振って笑う。 「いやいや、燦美野困ってんじゃん」 「えぇ~? 私達ぃ、超仲良しだもん」 仲良し!? しかも超!? ひとり舞い上がるも、西田くんに「絶対仲良くねーだろ」と否定され、やっぱりか、と落ち込んでしまう。けど、華井さんはぷくぅと頬を膨らませて「ちょっと~酷いんですけどぉ」と反対していた。 こ、これはもしかして、華井さんには既に友達認定されているということだろうか? ちら、と桃弥の顔を見るも、何とも言えない表情をしていた。……あれ? 喜んでいるのは私だけ? すると、西田くんは嘲るように口角を上げて華井さんに言う。 「だってお前、女子に嫌われてんじゃん」 華井さんの頬がすんと下がった。 初めて見た。 「そんなことないです!」 気付いたら、立ち上がっていた。ガタッと椅子が後ろの机に倒れる音がするも、私は気にせずに西田くんを睨みつける。……前髪で見えないだろうけど。 賑やかだった教室が、一気に静まり返る。 みんなの視線が集まってくる。 「わ、私は……」 息が詰まる。口が上手く動かない。 ――私は、華井さんのことが好きです! 本当に言いたいことが、脳内で弾け散っていく。 こんなにも、言いたいのに。 なんて無力なんだろう。 そこでチャイムが鳴り、少しずつ視線が剥がれていった。みんな席に着き始め、西田くんも驚いた顔をしつつ去っていく。 ひとり俯いて立っていると、華井さんがこちらを見上げて言う。 「くるみん。ありがとう」 柔らかい、天使のような笑顔だった。 胸のなかで固まっていた何かが、温かい水で溶かされていく。 私は、いえ、とだけ言い、静かに座った。それから、くるみんに呼び名が変わっていることに気が付き、ぽっと火照る。 「よかったね、胡桃」 隣を見ると、桃弥がニコニコとして「俺も呼び名を変えようと思って。駄目?」と聞いてくる。私はすぐに、ふるふる、と首を横に振った。 呼び名が変わるだけで、一気に距離が縮まった感じがする。ということをこの歳になって初めて知った。 その後、私はハワイにでもいる気分で授業を受け、桃弥との訓練に精を出す。結果、前髪なしで一・五秒くらい目を合わせられるようになっていた。 「くるみんっ。またね~」 放課後、華井さんは私に両手を振ってくれる。朝以外に挨拶されたのは初めてだった。それだけでも嬉しいのに、向日葵のような笑顔を向けてくれるからもう有頂天になる。 「は、はい、また!」 表情筋が枯れている私だけど、今は自然に笑えた気がする。 これは、桃弥の未練を解消出来る日も近いのではないだろうか。 いつの間にか雨は上がっていて、太陽の光が教室に差し込んできていた。ずぶ濡れだったスカートの裾や靴下も既に乾いている。よかった、明日は朝から晴れるといいな。嵐のなかでも登校したい気ではいるけれど。桃弥とは、この教室でしか会えないから。 今日はすぐに帰らずにちょっと残ろう。 ホームルーム中も私から離れていた桃弥を探すべく見回すと、出口付近にある掃除用具入れの上にいるのを発見した。ちょこん、とお留守番する犬みたいに座っている。……高いところがお気に入りなのかな。 桃弥は私に気が付くと、ふわっと飛び降りてこちらまで来る。よく見ると、ちょっと ながら歩いていた。幽霊だから、そんな移動の仕方になるのかな。でも、仮に普通に移動出来たとしても、桃弥はずっと浮いてそうな気がする。そういうのが好きそうだから。 桃弥は、また窓縁に腰掛ける。 私はノートを開くと、さっそく訊ねてみた。 『華井さんとはもう、友達になったと言っていいのでしょうか?』 すると、三拍遅れて、 「……そうだね」 と返ってきた。何だか浮かない顔をしている。 どうしたのだろう? 具合でも悪いのかな。 「あっ。今日このまま残れる? もうちょっと話したいな、と思って」 桃弥はからっと笑って言う。特に気にしなくてもいいのかな、と判断し、私は『全然大丈夫です。というか、そのつもりでした』と書く。やった、と無邪気に喜ぶ桃弥を見て、自然に頬が緩んだ。 それから、他愛のない話をした。 お互いの好きな食べ物や、音楽について。桃弥は意外と辛いものが好きで、音楽は、そのとき流行っていたのは何でも聞いていたけどJ-Rockにハマりがちだったらしい。こちらも意外。 私は甘いものが好きだ。特にチョコレート。好きな曲は〝羽をください〟だと言ったら、桃弥は腹を抱えて笑っていた。 趣味は共通して、寝ることだった。 あと、家族構成も似ている。 お互い一人っ子で、桃弥は母子家庭で私は父子家庭。この話題だけは盛り上がらず、すぐに流れていった。 そのうち、教室には誰もいなくなっていき、桃弥と二人きりになる。 ノートを閉じ、他愛のない話をしながら時々訓練もした。 窓の外が暗くなり始め、吹奏楽部の合奏する音が聞こえてくる。自習にと空けられているこの教室も、もうすぐ閉められるだろう。 私は必要な教科書などを鞄に詰め込んだあと、桃弥にずっと気になっていたことを聞く。 「……これからも、華井さんと仲良くやっていけるでしょうか?」 友達にはなったらしい? けど。これでいいのだろうか。 どうしてか、胸がモヤモヤとしてしいた。 桃弥は、うーんと唸ってから、空を見上げる。紫がかった、不思議な色をしていた。 「華井さんは、たとえばクラス全員が胡桃の敵になったとしても、味方してくれると思う?」 突然そんなことを聞かれ、私は戸惑った。 クラス全員が敵……? どうして、そんなことを聞くのだろう。 「分かりません」 私は、短く答えるしかなかった。すると桃弥は、「そうだよね。そういうもんだよね、みんな。何言ってるんだろ、俺」と自嘲しながら頭を搔く。 一体、何があったのだろう。 そういえば、とあることがあって不登校になったと言っていた。 聞きたいけど、桃弥が言いたくないのなら、聞きたくない。 ただ、私は桃弥の願いを叶えたい。 「華井さんとそこまで仲良くなれたら、桃弥の未練は解消出来ますか?」 桃弥は振り返って私を見て、薄く微笑む。 「うん。そうかも知れない」 そして、空虚を見つめて言った。 「俺は、本当の友達が欲しかったんだと思う。何があっても、信じてくれるような」 俯いて黙ってしまう桃弥に、私は、「……頑張ってみます」としか言えなかった。 これから行動で示すしかない。 楽しい学校生活を送るという目標が、より具体的になった――けど、もっと難しくなった気がする。
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