そして更に一週間ほど経った今も、桃弥は隣にいる。私は何も頑張っていないけれど、桃弥が地縛霊になってしまう気配はなかった。 桃弥の言うとおり、神は気長だったんだ。焦らないで、良かったんだ。あと少しで夏休みになる、と思ったら、学校を休み続けているという罪悪感も薄れていった。勉強は桃弥がみてくれているから、遅れる心配もなさそうだし。 日曜日、真昼。温かな布団のなかであくびをしつつ、ぼんやり考える。 これからずっと学校に行かなくて良いなら視線に怯えることもなくて良いなぁ。そうだ。今までずっと無理してたんだ。これからは、こうして、全く人と関わることなく生きていきた―― そこで私は、バッと起き上がった。 「胡桃?」 「あ……いえ、おはようございます」 「あはは。もうお昼だけどね」 桃弥は明るく笑った。 その顔を見て、改めて思い直す。 ……私は、桃弥に協力したいって言ったんだ。桃弥に幸せになって欲しいから。だから、未練を解消する為に頑張って、自分のなかの最大の欲望に気付けた。狭くていいから、ここでなら生きていきたい、って思えるような世界を築きたいと……。 忘れては、いけない。 忘れたら、本当に駄目になる。 そんな予感が確かにあった。 けれど、学校に行く気にはなれなかった。一度心が折れてしまうと、こんなにもずっと休んでしまうのか、と落胆する。 「桃弥……あの、行きたいところとかありませんか? 気晴らしに、そこに出掛けたいです」 最近は家にこもりがちだった。 インドア派だし、桃弥が「万が一、俺と同じく事故に遭ったら……」と心配していたから、近所のスーパーに行く時か、車通りの少ない道を散歩する時しか外に出ていなかった。けど、このままだと、いずれひきこもりになってしまう気がした。それは防ぎたい。そう伝えると、桃弥は不安そうな顔をしつつも、「まぁ、ずっと部屋に居ても楽しくないよね」と頷いてくれた。 ……日曜日だから、学校の人に会ってしまう可能性はあるけど……。私は影が薄いから気付かれないだろう、と願う。 「うーん、行きたいとこか……」 顎に手を当て、唸る桃弥。それから、あっそうだ! と笑顔を見せる。 「なんか美味しいもの食べに行こうよ、チョコレートケーキとか」 私は苦笑してしまった。 「桃弥の、行きたいとこで良いんですけど……」 ん? と桃弥は首を傾げた。 「俺は、胡桃が美味しそうに食べてるとこ見れたら嬉しいよ」 ぱっと顔を逸らしてしまった。 一気に顔が熱くなる。別の意味で、目が見れなくなったじゃないか。 「……でも、家の近くにあるケーキ屋さんしか知らないです」 「俺、お洒落なカフェあるの知ってるよ」 ……カフェ。そうか、甘いもの食べたい時は、そういう所に行くのか。 私は口を噤んでしまう。 行ってみたい気持ちはある。けど、店内にいる人もみんなお洒落なんだろうなぁ、私みたいな人が行っても良いのかなぁ、とか余計なことを考えてしまう。 貞子って呼ばれてるし、学校に何日も行っていないし……追い出されたりしないだろうか。「あんまり行きたくなさそうだね」 桃弥はふんわりと笑った。 「いえ……あの、すみません。お洒落なカフェとか入ったことなくて、緊張してしまうというか……今、こんなですし。その、人の目が気になってしまって」 つっかえて話してしまう。自分から誘ったのに、何ワガママ言っているんだろう。自己嫌悪に陥っていると、桃弥が「謝る必要はないよ」と平坦に言ってくれた。 「うーん、そうだなぁ……でも、気晴らしに出掛けるなら好きなもの食べて欲しいな。日曜日だし、どこも人多そうだけど……」 桃弥の優しさがじんと沁みていく。 腕を組み、天井を見上げる桃弥。数十秒もそうしていると、あっ! と口角を上げた。 良いこと思いついた、と何やら得意気な顔でこちらを見つめる。 「今日は、俺に任せてよ。楽しませてみせるから」 思わずフリーズしてしまった。 そんなこと言われたのは、生まれて初めてだったから。 けど、すぐにハッとして正座をすると、深々と頭を下げる。 「よ、宜しくお願い致します」 あははっ。堅っ! と桃弥は腹を抱えた。 本当に楽しそうに笑うから、自然と頬が上がっていく。 ……私が、桃弥を好きなところに連れて行きたかったんだけどなぁ。 そう思ったけど、桃弥が「よしっ、じゃあ早速外に行く準備しようか!」と張り切って言うから、うん、と笑顔で頷いた。 これで良いんだ、と思ったんだ。 十分ほど電車に乗って、ショッピングモールに着いた。同年代の女の子達が楽しそうに歩いているのを見ると、つい顎を引いて顔を隠してしまう。子供の甲高い笑い声もよく聞こえてきて、なかなかに騒がしい。 そんな私とは反対に、前を行く桃弥は意気揚々と自動ドアをすり抜けていった。そして、「ここにとっておきの場所があるんだよ。そこなら、人目を気にせずにチョコレートケーキを食べれるから」と言った。 生前この近くに住んでいて、休日によく遊びに来ていたらしい。 「ここは何年経っても変わんないなぁ。あっ、でも映画館が出来たのか」 へぇー、と桃弥は入口付近にあるマップに顔を近づけ、見入っていた。 「映画とか見に行きますか?」 「おっ良いね! 俺はタダで入れるし」 からっと笑う桃弥だった。 「ホラー映画とか見ちゃう? 隣に幽霊連れて」 試すように口の端を上げてこちらを見てくるから、ふふ、と声を漏らしてしまう。 「私は良いですよ。幽霊なんて、怖くないですから」 桃弥が悪霊になりかけた時は流石に怖かったけど……。なんて口には出さず、平気な顔をして見せる。 言うねぇ、と桃弥は弾んだ声を上げた。 「一人でお風呂に入れなくなっても知らないぞ~」 耳元に顔を近づけてきて、細い目で下から覗き込む桃弥。 なんか、凄く子供扱いされている。 ムッとした私は真っ直ぐに目を見つめ、敢えてぼそっと言う。 「そしたら……桃弥に傍にいて貰えばいいですから」 すぐに後悔した。 尋常じゃないくらい恥ずかしい。……何を言ってるんだ、私は。 自分の顔が赤くなっているのが分かって、すぐに逸らした。 すると、桃弥は「ま、参りました……」と頭を下げる。人目を気にせず、ぷふっと吹いてしまう。 暫くの間、二人で小さく笑い合っていた。 その内、桃弥は手のひらを上に向け、私に差し出してくる。 「じゃあ、行こうか」 優しく包み込んでくれるような笑顔に、つい釘付けになる。喧騒が遠のいていって、まるで二人だけの空間にいるような錯覚に陥った。こんなところで、お姫様になった気分を味わうとは思わなかった。 「映画を見終わったら、良い時間になると思う。俺が連れて行きたいとこは、夕方になってからの方が綺麗だから」 差し出された手をじっと見つめ、手首に出っ張っている骨が綺麗だなぁ、とか思いながら私は言う。 「……ますます気になります」 へへっ、と桃弥はこれでもかというくらい頬を上げた。 「楽しみにしてて」 その笑顔につられ、目の前の手に自分の手を置こうとする。 も、当然すり抜けていく。 重ねることなんて出来ないのに。 二人して、そうだったね、と気まずく笑い合った。 ちょうどあと五分で上映されるホラー映画があった。私は急いで(桃弥に教えて貰いながら)チケットを買い、なかに入る。ギリギリだけど、席はけっこう空いていた。人目を気にしなくて良いな、と心底安心した。 真ん中辺りに座り、大きなスクリーンを見つめる。 映画はすぐに始まった。 「…………もう、絶対に見ません」 とぼとぼとショッピングモール内を歩きながら、静かに呟く。 「あははっ。胡桃、途中から耳塞いでたし。絶対目も瞑ってたでしょ」 桃弥に笑われ、口を尖らせてしまう。 「あんなの、ズルいですよ。いきなり怖い顔が画面いっぱいに映ったり、大きい音鳴ったり……。心臓に悪いです」 でも、正直、桃弥が悪霊になりかけた時の方がゾッとした。 映画は、ただただビックリするだけだった。……監督は、本物の幽霊とか見たことあるのだろうか。全部、想像で創ってるのかな。 「映画に出てきたみたいな幽霊って、実際に居るんですか?」 何の気なしに、聞いてみた。 すると、桃弥は段々と表情を曇らせていき、俯いた。 しまった、と思った。 「もっと怖いのが、いっぱい居るよ。俺みたいに、ただの幽霊だったらそうでもないんだけどね。悪霊とか地縛霊になったら……人のカタチしてないから」 言うと、あっ、とすぐに顔を上げた。 そして微笑んで見せる。 「でも、俺が地縛霊になっても、本当に気にしなくていいからね。多分、胡桃には見えなくなると思うし」 勘だけど、と桃弥は付け足す。 モヤモヤが、胸のなかに広がっていく。唐突に得体の知れない液体が流れてきたような感覚がして、みぞおち辺りが気持ち悪くなった。 「見えなくなるって……」 うん。と、桃弥は安心させるように優しく頷く。 「俺と出会う前の日常に、戻るだけ。俺は、胡桃が生きていてくれたら、それで良いから」 胸の奥が冷えていき、鋭く痛んだ。 息が浅くなり、顔を逸らしてしまう。 ……嫌だ、そんなの。 桃弥がいなくなったら、私は――。 「大丈夫!」 耳元で弾けるような大声を出され、ビクッと肩を上げてしまった。 桃弥は相変わらず明るい笑顔で言う。 「まぁ、あと五年は何もしなくても大丈夫そうだし。のんびりいこう」 ね、と頭を撫でられ、無理やり口角を上げた。 絶対に上手く笑えてないと思いつつも、自分に言い聞かせるように言う。 「そうですよね。今も、隣に居ますし……」 うんうん、と桃弥は頷いた。 胸のなかのモヤモヤは、徐々に晴れていった。 あれ? これで、いいんだっけ。 一瞬、不安が過ぎったけど、まぁいっか、と思った。 「よしっ。じゃあ、チョコレートケーキを買いに地下まで行こうか」 溌剌と片腕を上げる桃弥に、思わず首を傾げる。 「地下ですか?」 そうだよ! と桃弥はニヒッと歯を見せる。 「そこの食品売り場で、一番美味しそうなのを選ぶんだ。それから、俺が言ってた〝とっておきの場所〟に行って、食べる」 「……なるほど。どこかの店に入るんじゃないんですね」 暫く、とっておきの場所が何なのかを考えてみる。けど、全然分からなかった。 「このショッピングモールに、あるんですよね……?」 ふっ、と桃弥は楽しそうに息を漏らした。 「まぁ。すぐに分かるよ」 何だろう、凄く気になる。自然と頬が緩み、鼓動が高鳴っていった。そういえば、こんなにワクワクすることは最近なかったな、と思った。さっき見たホラー映画も、今思えば良い刺激だった。 桃弥といると、本当に飽きることがない。 そのとき、少し前を歩いていた桃弥が、あっそうだ、と振り返って言う。 「胡桃、何か買いたいものとかないの? せっかく来たんだし」 私は辺りを見回してみる。 お洒落な雑貨屋さんが、幾つも並んでいた。 買いたいもの……か。迷っていると、桃弥はどこか情けなさそうに呟く。 「……生きていたら、俺が買ってあげたかったんだけどなぁ」 ふふ、と笑ってしまった。 「親子じゃないんですから」 「いや、そういう意味じゃないし」 桃弥はパッと顔を逸らす。 そういう意味じゃない……? 不思議に思っていると、私達の横をカップルが通り過ぎて行った。「ありがと~これずっと欲しかったの~! 嬉しい!」と彼女さんが満面の笑みで彼氏さんの腕を組んでいる。その腕には、可愛いらしいショップバッグがぶら下がっていた。 ああいうの、いいな、と思った。今まであんまり思ったことがなかったのだけれど。 それから、三秒ほどして、ぼっ、と顔が熱くなった。 もしかして、桃弥はあのカップルと同じことを……? 耳の先まで熱くなってくる。 いや、考え過ぎかな。でも……。 「あのっ、桃弥」 真似したいな。とか、思ってしまった。 随分と細い声が出てしまったけど、桃弥は「ん?」と反応してくれる。火照った顔を見られたくなくて俯く私を、真剣に覗き込んでくる。 「……も、桃弥が、私に買いたいものを、買いたいです。だから、選んでくれませんか?」 数秒も間が空いた。 ちら、と顔を上げて見ると、桃弥の顔も赤くなっていた。 「わっ。分かった! 全力で選ぶ!」 両拳を掲げ、叫ぶように言う。私は、人目もはばからず大きく吹いてしまった。 桃弥は、人を笑顔にさせる天才だ。 そう実感しながら、夢見心地でフロア内を歩き回る。 桃弥は何度も唸りながら色んな店を見たあと、よし、と力強い声を出した。 「決めた。胡桃の、財布を買います!」 びっ、と兵隊さんがするような敬礼ポーズをしてみせる。 「財布ですか?」 「うん」桃弥は、眉を下げて微笑む。「映画館でチケット買う時に見て、改めて思ったんだけど……その、凄くボロボロだな、って」 私は、財布の入っているズボンのポケットを隠すように触る。確かに、もう随分と使い古していた。小学生の頃に百均で買ったものだから、生地はところどころ剥がれているし、色褪せている。けど、買い換えようという気はなかった。単に物欲がないのだ。 「あっちの方にある店に、良いのが売ってあったからさ。行こう」 頷き、桃弥が案内する通りに歩いていく。 店内には、若い女性が沢山居た。みんな立派にお洒落してキラキラしているのを見て、緊張してしまいながら店のなかを回る。 桃弥は、あった! と少し跳ねながら商品棚の方に行き、指差して見せる。 そこには、くすんだピンク色の長財布があった。 「可愛い……!」 「でしょ? こういうの、似合いそうだと思って」 桃弥は得意満面な笑顔をこちらに向ける。私は目を逸らしつつも、えへへ、と笑った。凄く、凄く嬉しい。桃弥に、こんな大人っぽいのが似合う、と思われていたなんて。 早速その財布を持ち、レジに向かった。 店員さんは、完璧な営業スマイルではきはきと言う。 「プレゼント用ですか? ご自宅用ですか?」 「あ……ご自」そこまで言って、私はすぐに言い直した。「プレゼント用、です」 ひとりでに顔が熱くなっていく。……でも、間違ったことは言っていないし、うん。 「プレゼント用ですね。今、追加料金を支払って頂くと、相手のご自宅に送ることが出来るサービスがあるのですが、如何なさいますか?」 ……えっ、そんなサービスがあるの? 凄い、知らなかった。 あっ、そうだ! 私は良いことを思いついた。 「そ、それで、お願いします」 財布の代金と追加料金を支払うと、店員さんに貰った紙に、宛名と住所を書く。 Dear:燦美野胡桃 From:仙二桃弥 自分で書いていて尋常じゃないくらい恥ずかしくなる。とにかく平然を装うことに集中していた。けど、店員さんは特に何も言わず、事務的に受け取ってくれる。最短で二日後に届けられる、とのことだったのでそうして貰うことにした。 「桃弥から届くの、楽しみに待ってますね」 店を出てから言うと、桃弥は悪戯っぽく笑い、「凄いの来るから待っててね」と言った。堪らず、二人でぷっと吹き出す。 あぁ、なんて良い日なんだろう。 今なら浮いて歩けそうな気がした。 「なんか、デートしてるみたいですね」 気付くと、口から出ていた。 ハッとしてすぐに真顔になる。な、何を言ってるんだ、私……。 慌てて誤魔化そうとすると、桃弥はこちらを真っすぐに見て、微笑んだ。 「今からもっとデートっぽいことするよ」 あまりにも、さらっと言うから。意味を分かっているのだろうか、とか思ってしまった。 胸がはち切れそうで、心地よい苦しさを味わう。 もう明日死んでも後悔しないな。そう、確信した。 地下フロアに、チョコレートケーキを買いに行く。様々な食品店が連なっていた。とりあえず一周してから、「ここが一番美味しそう!」と桃弥が指差したスイーツ店で、華やかなチョコレートケーキを選ぶ。プラスチックフォークも販売していたから、それも買った。手のひらにポンと乗るくらいの箱に詰めて貰い、それを提げてまたエスカレーターで上に行く。 一階についたところで、桃弥が言う。 「じゃあ、外に行こうか」 えっ、と思わず声が出た。 「このショッピングモールに、とっておきの場所があるんじゃないんですか?」 「そうだよ」 桃弥は、にやりと口角を上げた。 「屋外に子どもが遊べる敷地があるんだ」 子どもが遊べる敷地……? 首を傾げる私を、桃弥は楽しそうに見つめる。 「まぁ、あそこで食べるなんて思いつかないよね。でも……人目につかなくて、本当に良い景色が見れるから」 もう分かった? と聞かれるも、全然検討がつかなかった。 桃弥と一緒に、屋外の敷地へと出た。むわっと生暖かい風が吹いてきて、前髪が乱れないようにすぐに手で押さえる。 少し歩いたところで、桃弥は遠くの方を指差した。 「ほら、あれだよ。ショッピングモールに入る前から、ずっと見えてたと思うんだけどなぁ」 あっ! と私はすぐに驚きの声を漏らす。 「観覧車……!」 赤いゴンドラが、数メートル先にあった。首が痛くなるほど見上げて、やっと頂上にあるゴンドラが見える。 「いや、確かに見えてましたけど……ショッピングモールにあるものだとは思っていませんでした。その、近くに遊園地があるのかと」 「……胡桃の距離感が心配になってきたよ」 桃弥は真面目な表情で言った。 つい、口を尖らせてしまう。 「だって、こういう、子どもが遊べる敷地とか来たことなかったですし……。仲の良い家族が来るところじゃないですか」 ショッピングモールすら、数える程しか来たことなかった。 私が最近までお世話になっていたお母さんの妹さんとは、そんなに仲良くはなかったから。悪くはないけれど、一緒に出掛ける程でもない。 想像以上にゆっくりと回る観覧車を見て、思い出す。 一度だけ、小さい頃、遊園地に連れていって貰ったことがあった。けど、ほとんど遊べなかった。私が迷子になって、時間を潰してしまったから。それから、どこかに連れていって貰えることはなくなった。私から、どこかに行きたいと言えば……一緒に行ってくれたかも知れないけど。なかなかそんな勇気が出なかった。人混みとか苦手だし、家にいる方が楽しいから、と自分に言い聞かせて諦めていた。 「……そうだね」 桃弥は、床を見つめながら静かに言う。 けど、少ししてから、こちらを見て微笑んだ。 「俺も、母さんとこういう所に来たことなかったよ。だから、一人でよく乗りに来てた」 「一人で、ですか?」 桃弥は頷くと、目を細めて観覧車を見上げる。 「遊園地に行くのに憧れてたんだ。でも、流石に一人では行けないからさ、この観覧車に乗って欲を満たしてた。高いところ好きだし、雄大な景色を見てたら癒されたんだよね」 あっ、そうそう、と朗らかな声を上げる。 「小学生の頃に初めて行ったらさ、スタッフの人に、お母さんは? って心配されて。でも、事情を話したら、快く乗せてくれたんだよ。それから仲良くなったスタッフさん達に、たまに遊んで貰ったりしてた」 桃弥と一緒に、私も自然と頬が緩んでいく。 「素敵な思い出が、沢山詰まってるんですね」 うん、と桃弥はこちらに満面の笑みを向けた。 「そんな場所を、胡桃に紹介したかったってのもある」 息が詰まるくらい、心臓が跳ね続けて苦しい。 胸焼けしそうだ。 これから、桃弥と観覧車に乗って、大好物を食べるなんて……もう一生分の幸せを体験してるな、と思った。 それ以上は、何も思わなかった。
コメントはまだありません