二人で、赤いゴンドラのなかに入っていく。 桃弥は迷わず私の隣に座り、そっと手を重ねてきた。 触れられないのに、指先から熱くなっていって。前後のゴンドラに誰も乗っていなくて良かった、と思った。きっと今、茹でダコみたいになっているから。 気を取り直すように、チョコレートケーキの入った箱をバッと勢いよく空ける。すぐにフォーク一杯に掬い取ると、口のなかに放り込んだ。すると、普段味わうことのない深い甘みが口いっぱいに広がり、思わず感嘆の声を上げる。 「美味しい?」 「……はい、凄く」 桃弥は、へへっ、と嬉しそうに笑った。 幸せ過ぎて、蕩けてしまいそうだ。 ゴンドラはゆっくりと静かに上昇していく。そして、ショッピングモールよりも高い位置に来ると、一気に視界が開けた。 「わぁ……!」 思わず窓に張り付く。 柔らかな陽の光に、街中が包まれていた。まるで別世界の景色を眺めているようだった。 「……綺麗だね」 「はい」 どうしてか、懐かしいような気持ちになってきていた。ずっとずっと、この時間が続けば良いのにな。そう思うと、目頭が熱くなる。 「久しぶりだなぁ。ここからの景色」 桃弥は静かに呟いた。 「幽霊になってから、来たりしなかったんですか?」 窓の方を見ながら聞くと、数秒ほど空き、うん、と返ってきた。 その妙な間が気になって、桃弥の方を向く。 「どうして、ですか?」 桃弥は眉を下げる。 「話し出すと、長くなっちゃうけど……良い?」 深く頷いた。 桃弥は、ゆっくりと口を開く。 「最後に乗りに行ったのは、不登校になってからすぐだったんだけどね。……まぁ、中学生になったら一人で乗るのも恥ずかしくなって全然行かなくなってたから、ふと思い出して、行ってみようってなって。でも、」 そこで、また俯いてしまった。 暫く黙って続きを待っていると、桃弥は苦しそうに息を吐く。 「その時いたスタッフさんに……君、いつも来てるけど中学生か高校生だよね? 学校は? って責めるように聞かれて。曜日感覚とか狂ってたから、平日の昼に来てたんだよね。……なんか、その時、もういいやってなって……そっから一切来なくなっちゃった」 自嘲気味に微笑むと、少し顔を上げた。 「優しいスタッフさん達に遊んで貰ってた思い出が、汚されたような気がしたんだよね。あぁ、不登校にならなかったら、って思った。クラスに、一人でも信じてくれる友達が居て、ちゃんと学校生活を楽しめてたら……こんなことにならなかったのに、って」 「桃弥……」 言葉を詰まらせてしまう。 桃弥はゴンドラの天井を見上げ、ぐったりと座った。 「……分かってたのにね。この世界には、ちゃんと優しい人達がいるんだって。なんで、もう全てが嫌になっちゃったんだろう。それから、運悪く事故に遭って……」 数秒後。 ハッ、として桃弥は背筋を伸ばした。 大きく口を開けている。 「桃弥?」 聞くと、目を丸くしたままこちらを見る。 「……本当の未練が、分かったかも知れない」 「えっ」 思わず身を乗り出した。 「な、なんですか?」 すると、桃弥はまずそうな顔をした。 焦ったように片手で口を押さえ、それから、あー、と思い切り顔を背ける。 何故か笑って、頭を搔いていた。 「……やっぱり、違うかな。うん、ごめん。本当に、何でもない」 私は、何も言えなくなった。 桃弥は、私を追い詰めないように、誤魔化す選択をしたんだ。 一瞬で、心にぽっかりと穴が空く。 ……もう、頼られていない? 私は、もう、必要とされていない? いつの間にか、ゴンドラは頂上に近づいてきていた。 黙ったまま、雄大な景色を見下ろす。 見ていると、どんどん気持ちが解放的になっていくようだった。 ……あぁ、どうしよう。 涙が頬を一筋伝う。 この気持ちは、ずっと、抑え込んでいたのに。留めないと、いけないのに。 「……私、桃弥の為に、もっと頑張りたいです」声が上ずっていく。「それで、どうなっても、絶対に後悔しません。私は、」 ――桃弥のことが、好きだから。 うっ、と声を漏らし、窓におでこを付ける。 駄目だ。 この気持ちは、抑えないと。 私は、ギュッと目を瞑り、視界を真っ暗にした。 でも、一度解放された想いは、留まることを知らない。 口を開かずにいるのに精一杯だった。 ――私は、桃弥とずっと一緒にいたい。もっともっと、楽しい時間を過ごしたい。……本当は、成仏して欲しくない……目の前から、消えて欲しくない! 桃弥がいなくなったら、私は、一人で生きてける自信がない。 その時だった。 ブォンッと聞きなれない音が鳴る。 反射的に隣を見ると、そこには、誰も居なくなっていた。 「……え……?」 立ち上がり、しきりにゴンドラのなかを見回す。 窓の外を見てみるも、居る筈がない。 「桃弥?」 私は、息が詰まっていった。 「……どこに、行ったんですか?」 急いで学校に向かう。 すぐに、ピンときたから。 桃弥は、また、教室に縛られたんだ。 どうしよう……私のせいだ。 今、私のせいで、桃弥は地縛霊と化しているかも知れない。 私が、一瞬でも諦めたから――桃弥の未練を解消するより、自分の勝手な想いを優先して……それで、桃弥が成仏出来る可能性がなくなっちゃったんだ。 走り慣れていないせいで、すぐに息が切れる。けど、構わずに走り続けるしかなかった。 電車に乗るのも煩わしくて、人生初のタクシーを使う。 「急いでください!!!!」 タクシーの運転手さんは、驚いた顔をしつつも、すぐに発進してくれた。 まだ、間に合うかな。 大丈夫かな。 桃弥が、地縛霊になってしまっていたら、私―― 学校に着くまで、ずっと泣き崩れていた。 校門前に着くと、すぐにお礼を言って料金を支払い、タクシーを出た。部活帰りだろうか、何人か生徒が出てきて、ビクッとしてしまう。 そうか、私、不登校の身だった。 でも、そんな後ろめたい気持ちはすぐに飛んでいく。 早く。桃弥のところに行かなきゃ。 私服でなかに入って行くと、凄く視線を感じた。けど、前を見て走った。走って、階段を駆け上がって、教室まで辿り着く。 「桃弥!!」 ドアが開かなくて、何度も叩いた。 泣き喚いた。 「桃弥っ!! 大丈」 すると、小窓から、ひょいっと桃弥が顔を出す。 「びっくりした……胡桃、来たんだ」 私は、安心して、すぐに膝から崩れ落ちた。 ――良かった。 まだ、ヒトの形をしていた。 地縛霊には、なっていなかった。 全身から、力が抜けていった。本当に、良かった。 「だ、大丈夫? 胡桃」 私は、よろよろと立ち上がり、小窓越しに桃弥の顔を見る。 「大丈夫、です。桃弥こそ、何ともないですか?」 再度確認すると、うん、と桃弥は明るく言った。 「いきなりさ、こう、ビュン! って体が吸い込まれる感じになって、気付いたら、この教室に居たんだ」 大きく身振り手振りをし、楽しそうに話す。 私は、深く息を吐いて俯いた。 「ごめん、なさい。私が、一瞬でも気を抜いたせいです。私のせいで、もう少しで、桃弥が地縛霊に……ごめんなさい。もう、一瞬でも絶対に気は抜きませ」 「胡桃。もう帰って」 顔を上げた。 桃弥の後頭部が、そこにあった。 「え……?」 桃弥は、何も言ってくれなかった。 「……一緒に、帰りましょうよ」 どうしてか、ドア越しに啜り泣く声が聞こえてくる。 訳が分からなくなって、私は、何故か笑ってしまった。 「あっ、もしかして、教室から出られなくなったんですか?」 桃弥は、何も答えない。 そのうち、桃弥の頭が下がっていき、小窓から見えなくなった。 「桃弥っ」 「……胡桃のことが、嫌いになった」 上ずった声で言う。 「だからもう、一緒にいたくない」 なんで? どうして、そんなことを言うの……? 「早く、行って」 一歩も動けなかった。 ここから、離れたくなかった。 涙が溢れて、止まらなくて。手が震えていた。 「行けよ!!!!」 大声で叫ばれ、私は、やっと一歩後ずさることが出来た。 何も考えられなくなって、勢いよく走って帰っていく。 校門を出る。 脇目も振らずに走って、それから、徐々にスピードが落ちていった。 足が止まる。 えずいて、その場に蹲った。 誰かの足が、肩に当たった。 「チッ、危ねーな」 心底鬱陶しそうな声で言われ、私は、とりあえず道の端に寄った。数メートル先に、最寄り駅が見えた。……そうだ、帰らないと。 私は、俯き、暫く立ち止まっていた。けど、そのうち涙が乾いてきて、ゆっくりと歩き出す。 ――元いた世界に、戻った。 そうだ。ここが私のいた世界だった。 誰にも必要とされていない。 ずっとひとりで諦めて耐えるだけ。 今までそうだったじゃないか。 何を、変われる気でいたんだろう?
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