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 それが朔也に見え出したのは、風呂で長々と考え事をするようになった頃からだった。  湯船に浸かっていると、正面にある五十センチ角ほどの窓ガラスが薄っすらと曇り出すのだが、ある部分は曇らずに黒い影となって浮き上がる。その形を見て、朔也の頭に真っ先に浮かんだものがあった。落武者だ。大きなハの字の影と、その内側に別の小さな二つの影があり、まげを下したざんばら髪の武士が、目を閉じているように見えた。  はっきりした形ではないから、何か他のものが思い浮かんでもよさそうな気がしたが、いろいろイメージしてみても、結局、最初に思い浮かんだ落武者よりしっくりくるものはなかった。  風呂に入ると、落武者は毎日現れた。朔也は試しに指で窓ガラスをこすってみたが影は消えなかった。多分、ガラスの外側についた汚れか何かが影響しているのだ、と朔也は思った。  不思議と、怖いとか、気味が悪いといった感情は湧いてこなかった。おどろおどろしさよりも、どこか弱々しい雰囲気を漂わせていたからかもしれない。  戦に敗れ、長い逃亡生活に疲れ果ててしまったのかな。  そんな落武者に、朔也はいつしか自身の境遇を重ね合わせるようになった。この春、中学受験に立て続けに失敗した一人息子への両親の評価は、ますます厳しいものになっていた。大手の外資系製薬会社で役員を務める母親と大学教授の父親は、自分たちのような高学歴夫婦の子供がどうしてこんなにも出来が悪いのか、と嘆き続けていた。幼い頃から何人もの家庭教師をあてがわれたが、一向に成績は上がらなかった。両親の嘆きは朔也にもいやというほど伝わっており、何とか期待に応えようと頑張り続けたが、もはや両親の叱咤激励の熱意は消え失せ、諦めや無関心といった境地へ移り変わりつつあった。近頃は、やけに両親の口喧嘩が目立ち二人の仲が険悪になっていたが、それもこれも詰まるところは自分の出来の悪さが原因なのだと朔也は考えていた。 「負け戦ばかりで、お互いへこむよね」  朔也は、窓ガラスの落武者に愚痴を言った。落武者は何を話しかけられても黙っていた。でも朔也には、落武者がいつも渋い顔でうなずいてくれている気がした。落武者は朔也にとって、何でも話せるたった一人の友達であり、味方だった。  半年ほどが過ぎたある日曜日の午後、工事業者が訪れ、家の壁の洗浄作業を始めた。両親は別々の用事で不在だった。朔也は風呂の窓ガラスの辺りにも高圧洗浄機の水が向けられているのを見て、心配になった。落武者は大丈夫だろうか……。  朔也の不安は現実のものとなった。その夜、風呂に入ってみると、落武者はいつまでたっても現れなかった。やはり外側の汚れが関係していたのだ。次の日も、その次の日も、落武者は二度とその姿を見せることはなかった。  突然、親友を失った朔也は、ひとり部屋のベッドに突っ伏して泣きじゃくった。何も言わずにいきなり業者に作業させた親に、戸惑い、腹立たしく思った。  翌朝、朔也は母親に呼ばれテーブルについた。前に朝食を一緒に食べたのはいつだったかなと考えていると、母親が真顔で切り出した。 「お母さんたち、離婚することにしたの」  予感はしていたから、朔也はさほど驚かなかった。ただ、「どっちについていきたい?あなたが決めていいから」と言われ、どちらも引き取りたがらない現実を突きつけられたのは辛かった。  いずれにしても家は早々に売るつもりだと母親は言った。外壁の洗浄はその準備だったのだ。  結局朔也は、母方の実家に住む叔父のところで世話になることになった。どちらへついていくかはっきりしない息子にしびれを切らした母親が提案したのだ。自分は海外支社に赴任が決まったので一緒には住めないが、叔父の方は了解していると言われた。お荷物扱いされて親のどちらかと同居するよりはましかもしれないと思った朔也は、素直にその提案を受け入れた。  叔父とは小さい頃、親戚の結婚式で一度会っただけで顔もよく覚えていなかった。母方の両親は、ともに体が不自由で数年前からケア付きの高齢者施設に入居していたので、今年で四十歳になる叔父は、片田舎ながら大きな庭もある一軒家に一人で住んでいるらしかった。  最寄りの駅まで車で迎えに来てくれた叔父は、細身で少し頼りない雰囲気もあり、おじさんというよりは、大学生くらいの若者に見えた。車の中で叔父は、口数は少ないながらも「気を使わず、好きなように暮らしていい」といった趣旨の言葉を朔也にかけてくれた。  実家から歩いて十分ほどの中学校へ通い始めた朔也は帰りにスーパーに寄り、毎月叔父から渡されていた十分な食費で好きな弁当を買った。弁当に飽きるとたまに食材を買って自分でも作るようになった。台所にはいつも叔父が近くの農家から取り寄せた野菜や果物がたくさんあった。最初は一人で食べていたが、次第に叔父と食べる機会も増えていった。相変わらず口数は少ないが、どことなく自分に近い何かを感じていた朔也は、叔父との二人暮らしに少しずつ居心地の良さを覚え始めた。  夜、風呂に入ると、時々落武者のことが思い出された。この家の風呂には、前の家よりも大きな引き戸のガラス窓があるが、落武者が姿を現すことはなかった。窓を開けると星がいくつも見えた。  叔父は、昼間も家にいることが多く、仕事は何をしているのか謎だった。ある日、思い切って尋ねてみると「漫画を描いているんだ」と予想の斜め上をいく答えが返ってきた。美大を卒業してから、二十年近く描き続けているが、世間に知られているような作品はないらしい。いくつか代表作を見せてもらったが、確かに朔也が知っているものは一つもなかった。けれども読んでみるとどれもすぐに物語に引き込まれ、「もっと人気が出てもいいのに」と正直な感想をもらした。  叔父は照れくさそうに「ありがとう」とつぶやいた。そして少し間を置いてから、「でもいい加減、次で最後にしようかなと思ってるんだ」と言って、着ていたフリースのポケットから折りたたまれた紙を取り出した。それは次回作のキャラクター案のラフスケッチや、構想のメモ書きだった。  中央に描かれた主人公の姿を見て、朔也は目を丸くした。そこにいたのは、まぎれもなくあの落武者だった。風呂場の窓から飛び出してきたみたいに、生き生きとした線で書き込まれていた。メモには、「絶体絶命の窮地に追い込まれた敗者の、どん底からの逆襲劇」とあった。落武者の周りには、魅力的なサブキャラクターたちが所狭しとひしめいていた。  朔也は思わず両手を握りしめ、ラフスケッチに向かって小さく「ヨシッ!」と叫んだ。きょとんとしている叔父と目が合うと、いてもたってもいられなくなり、彼の背中側に立った。そして、にんまりしながら肩揉みを始めた。  両手に力を込めた朔也は、湯船に浸かっているようなポカポカした気分になっていた。  

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