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   隣町からこの家の玄関先までやって来るのに、彼は一週間ばかり費やしてしまった。ここ数日、降り続いた秋雨のせいだ。彼に残された時間は、せいぜいあと三、四日だろう。はたから見ても、彼の動きはふらふらしていて、どうにも頼りなかった。  無論、雨など降らなくてもすぐに来られたわけではない。訪ねていく相手に間違いはないか、念には念を入れて確認する必要があるのだか  確認作業と聞いて、君たちはネット上の検索や、あるいは探偵事務所の調査などを思い浮かべるかもしれない。だが彼には、その類の手段は一切必要ない。文字通り、力の限り念じて相手の居場所を特定するのだ。 「テレパシーみたいなこと?」と問われれば、必ずしも正確ではないが、「そのようなものだ」と取りあえず答えておこう。あまり私にも時間がないので──。  いや失礼、時間がないのはお互い様か。  話は戻るが、そもそも彼は誰かに依頼されてここへやって来たのではない。すべては彼が勝手にやっていることだ。  一週間前、隣町で目覚めた彼は、浮き浮きとした気分で、緑道や公園を散策していた。すると頭の中に一人の少年の声が飛び込んできた。 「テレビに出ているどんな有名な俳優より、あなたの演技に心を動かされました!僕も演劇を勉強してみたい」  その少年は学校で陰湿ないじめに会い、不登校の日々を送っていた。虚しさを感じながら当てもなく町を徘徊していた時、何となく気になって小劇場の前で立ち止まった。すると呼び込みの劇団員に「無料(ただ)でいいから」と笑顔で促され、少年は恐る恐る中へ入った。芝居は、十二人の多重人格に悩む青年の物語だった。狭い舞台をぼんやりと眺めていた少年は、次第にその世界に引き込まれ、何人もの人格を演じ切った主役の男の迫力に圧倒された。幕が下りると、少年は舞台の演者らと同じくらいの数の観客たちと一緒に心から拍手した。やがて劇場のロビーに演者たちが現れ、観客や関係者らと談笑を始めた。少年は主役の男に是非とも自分の感想を伝えたかった。だが上手く話せる自信がなく、いつまでたっても遠巻きに眺めているだけだった。結局、少年は何も伝えられずに家へ帰った。そして部屋の中で改めて発した声を、通りすがりの「彼」がキャッチしたというわけだ。  彼のアンテナがキャッチできるのは、誰かへの賞賛や敬慕の念といった肯定的な感情に関わるものであり、誹謗中傷のような悪意への感度はゼロに等しかった。少年の声を、他の誰でもない彼がキャッチしたことが偶然か必然かはわからないが、ともかく伝えず仕舞いの賞賛の思いをキャッチした以上、それを相手に伝えに行くのが彼の使命なのだ。  彼が玄関前で揺らめくこの家に、主役の男は両親と共に暮らしていた。学生時代に演劇の世界にのめり込み、大学を卒業後もバイトをしながら小さな劇団を率いて活動を続けた。だが何年経っても男の劇団が世間から評価されることはなかった。三十歳を過ぎても芝居ごっこをやめない一人息子に、両親はとっくに愛想を尽かしていた。  容赦なく月日が流れ、何者でもない日々が積み重なっていけばいくほど、男の焦りと不満は募った。好意的な評価を求め、暇さえあればエゴサーチを繰り返した。けれどもそもそも世間に認知されていない男の名前を入力しても、ヒットする検索結果は劇団の簡素なホームページに記載してある氏名くらいだった。  今やSNSを通じて、誰もがいつでもどこからでも、瞬時に賞賛の思いを伝えることも可能になった。ただそのような感情を持ち合わせていたとしても、実際に書き込みなどの行動を起こす者は一部に過ぎない。男の芝居に感動し、この世界を生きていく希望をもらった少年でさえ、控えめな性格が邪魔をしたのか、結局何も伝えられないままだ。  今この瞬間、男に少年の声が届けば、今度は男の方がどんなにか勇気づけられ、心の支えにすることができるだろう──。  そんな思いを胸に秘め、「彼」は遥々隣町からやって来たのだ。  彼の他にも彼と同様に使命を背負う者たちがいる。彼らは、この世界で「蝶」と呼ばれる生き物の姿を纏いやって来る。様々な蝶の姿を借りながら、各自の使命を果たすべく奮闘する。  残念なことに、本物に紛れて現われる彼らの姿は、ほとんどの人間の目には映らない。この世界でその存在を日常的に察知できるのは、おそらく今のところは野良猫くらいなものだろう。だから彼らは皆、その使命を全うできないまま息絶える。目の前の相手が気づいてくれない以上、それは仕方のないことだ。  それでも彼らは自らの儚い一生をかけ、伝えるべき相手の目の前にたどり着き、その翅を使い、賞賛する者に代わって全身全霊で拍手を送るのだ。そして声を届けるべく必死で念ずるのだ。いつかはすべてが伝わると信じて。  もしも君たちが彼らの姿を見ることができたなら、至る所で様々な色鮮やかな蝶たちが翅をはためかせているだろう。この世界はあらゆる悪意に負けないくらい、伝え損ねた賞賛や敬慕、そして感謝の気持ちで溢れているのだから──。            *  数日降り続いた秋雨が止み、久しぶりに心地よく晴れた日だった。民家の縁側で、老人が座ったまま居眠りをしていた。傍らには、小さな孫娘があんよを老人の膝の上に乗っけながら、絵本を読んでいる。 「見て見て!ほらあそこ。ちょうちょさんがいる」  孫娘が興奮気味に両足をばたつかせた。うとうとしながら老人は目を開き、孫娘が指さす庭の奥を眺めた。蝶の姿は見えなかった。 「あ、こっちに飛んできたよ!」 「どれどれ、ちょっと足をどけてくれるかな」  老人は孫娘を座らせ、もう一度、目を凝らした。  孫娘は庭に飛び出し、駆け回り始めた。蝶を追いかけているらしい。 「ほら、ちょうちょさん、また、じいじの方へ行ったよ!」    そうか。あの子には見えるんだな。先ほど見たばかりの夢に出てきた、「使命を背負った蝶」の姿が。  ということは、蝶は私に誰かの思いを伝えに来たのだろうか。  老人は、間もなくその寿命が尽きようとしていた。老人には自分の平凡な生涯のどこをどう振り返っても、何一つ誰かから賞賛される覚えなどなかった。  だが、それでもこうして彼がやって来てくれたのなら、気づかぬうちに誰かのお役に立てたのかもしれない。  老人は穏やかな表情を浮かべ、再び目を閉じた。  こちらに向かって健気に拍手する紋白蝶の姿が、微かに瞼の内側に映し出されているのを感じた。

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