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「夢日記をつけると不幸になるらしいよ」 以前、誰かがそんなことを言っていた。ただのジンクスなのか本当なのか、よくわからない。 (どっちにしろ、一度や二度なら構わないよね) 先程見た夢を、寝巻きのままメモ用紙に書き留めていく。映し出された世界のすべてを詳細に。色彩も、音も、温もりも。何一つ取りこぼしたくない。急がなければ、ペンを走らせているうちにも、夢の記憶はひこうき雲みたいに少しずつ薄れていってしまう。 夢に現れたのは、一年前に急死した私の母だ。岡山の実家で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。地元の短大を出て上京し、二十年近く独り暮らしを続けていた私は、ここ何年かは正月にも帰省せずにいた。 うっすらと化粧をした母の顔は穏やかだったけれど、私の胸中は後悔の念に掻き乱されてばかりいた。 どうしてもっと帰ってたくさん話をしておかなかったんだろう。 どうしてもっと東京の色々なお店に連れていってあげなかったんだろう。 どうしてもっと二人で旅行とかしなかったんだろう。 どうして、どうして…… 三十の半ばを過ぎても、孫の顔を拝ませるどころか結婚する気配すら見せなかった私。そんな一人娘が帰省する度に、父や親戚は遠回しに私を責めた。何も言わずいつも笑顔で迎えてくれたのは母だけだった。 母だけが私の味方だった。 葬儀を終え、再び東京の生活に戻った私は、これまで以上に虚しさと戦いながら日々を過ごした。時折、スマホに残った母の番号を見ては、「電話をかけてきて」と本気で願った。帰り道、いい歳をして、「お母ぁさん、お母ぁさん」と子供みたいに泣きじゃくりながら夜空を見上げたことも何度かあった。夢でもいいからもう一度、母に会いたかった。 けれども何ヶ月が経っても、母の声が聞こえたり、母が夢に現れることはなかった。 そうして一年が過ぎ、夢でさえ会うことができないんだと諦めていた私に、昨夜、ようやく母が会いに来てくれたのだ。 夢の中の母は、台所の前に立っていた。時折こちらを見て何かをしゃべっていたが、声は聞えなかった。白っぽい光につつまれていたから、朝ご飯を作ってくれているのかなと私は思った。案の定、テーブルの上には味噌汁や卵焼きが並んでいた。私は、懐かしい朝食の光景を必死で書き留めた。 数日後、再び母が夢に現れた。今度は南仏の高級ホテルのテラスのようなところでランチを食べていた。海外に行ったことのないはずだった母は、ライトグリーンのジャケットを羽織い、キョロキョロと楽しそうに周りを見ていた。私は、夢の情景をイラストも使って可能な限り書き留めた。 こうやってちょくちょく夢に出てきてくれれば、もう寂しくないかも。 私は、始まったばかりの夢日記を何度も見返しながら思った。 翌日、私は恐ろしい悪夢を見た。 街中でナイフを持った男が人々を切りつけようとしている。皆が悲鳴を上げながら逃げ惑う。やがて男が私の方へ向かってくる。私は逃げようとするがなぜか足が一歩も動かない。どんどん迫ってくる男。どうしても動けない私。万事休すと思ったところで目が覚めた。 とても書き留めたいと思う内容ではなかった。一刻も早く忘れたい夢だった。私はふと「夢日記をつけると不幸になる」という言葉を思い出した。 それから一ヶ月が過ぎた頃、私は休憩中になんとなく職場の篠崎さんに、母が夢に出てきたことや夢日記のことを話した。篠崎さんは嘱託で経理事務をしているおじいさんで、他の社員とはあまり上手くいかない私の、唯一の茶飲み友達だ。 「たしかに、夢日記はつけない方がいいって言いますね」 給湯室で篠崎さんは、丁寧にお茶を入れながら私の話を聞いてくれた。 「やっぱり、ただのジンクスじゃないんだ」 「ジンクスかもしれないけれど、それなりに理にかなったジンクスですよ。夢を書き留めて記憶に定着させちゃうと、そのうち現実にあったことと区別がつかなくなる恐れがあるでしょ」 「ああ、そういうことか」 篠崎さんの説明がすっと頭に入った。偉そうにしている職場の営業マンたちよりよっぽど優秀だ。 「でも、もう夢日記をつけようにも、あれから母は一度も夢に出てこないんですよね」 私は寂しげにお茶を啜った。 「青山さん。お母さんはたぶん夢日記のジンクスを知っていたんじゃないですか。だから出てこなくなったのは、あなたに夢日記をつけさせないためだと思いますよ」 篠崎さんにそう言われ、私はハッと思い出した 。 「そう言えば夢日記を書いた次の日、すごく怖い夢を見た!」 「ああ、やっぱり」 篠崎さんは、お茶を飲みながら頷いた。 私は悲しいのか嬉しいのかもわからず、ぽろぽろ涙を流した。湯飲みの中で一瞬茶柱が立ったようにも見えた。確かに母はジンクスとか縁起とかをいろいろ気にする人だった。 「じゃあ、もう母は夢に出てこないってことか……」 なかなか泣き止めずにいた私は、「夢日記をつけないって約束すれば、安心して、また出てきてくれますよ」 という天才過ぎる篠崎さんの言葉で、ようやく涙を止めることができた。 私は温かい湯飲み茶碗を両手でそっと持ち、口の中に含んだ。すると、私の中で、「このお茶、おいしいね」とつぶやく母の声が聞えた。

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