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   およそ一年ぶりに袖を通した制服は、他人の持ち物のようで美加はどこか落ち着かなかった。玄関に用意してあったマフラーに気づき、しっかり巻いて家を出た。長かった美加の冬休みは、次の冬休みが来る前にようやく終わりを告げようとしていた。  先日、母から紹介された男性は保険会社で働いているサラリーマンだった。歳は四十歳で、母が外交員をしていた時からの付き合いらしい。自分のことを励ましたいと言っていたくらいだから、熱血漢の少し暑苦しい感じを想像していたが、実際会ってみると、細面の、将棋の棋士みたいな物静かな人で、美加は少しほっとした。母からは、本当にお父さんと瓜二つなの、でもあの人には絶対内緒にしておいてね、と念押しされた。そう言われても美加は父親の写真すら見たことがないので、どの程度似ているのか判定のしようがなかった。何にせよ、母の電話の相手が作業員でなかったことは確かなわけで、美加の仮説については容赦なく却下された。  再び学校へ行こうと思った理由は、行かなくなった時のように曖昧だった。母が母なりに自分の人生を生きているとわかったことが、無意識に背負っていた重荷を下ろしてくれたのかもしれない。でも美加は密かに思うのだ。本当はあの作業員のおかげではないか、と。少なくとも、部屋から出るきっかけを作ってくれたのは間違いないのだから。  散々振り回された声のトーンの違いについて、美加は母の告白を聞いた日の翌週の月曜日、偶然ある光景を見かけその謎が解けたような気がした。  掛け声が聞こえやはり気になって駆けつけてみたところ、いつものように収集車は過ぎ去っていた。ため息をつきながら何気なく周囲に目をやると、通り沿いの古い民家の玄関前に、一人の老婆が杖をついて立っていた。間もなくそこへデイサービスのお迎えがやって来て、老婆を慎重に車へ乗せていった。やせ細った老婆のふらふらとした足取りは、子犬が吠えただけでもよろめいてしまいそうだった。  ああ、あの作業員はきっと月曜日の朝に現れるのであろうあの老婆を気遣って声を抑えていたのだ、と美加は思った。  もちろんそれも、お得意の妄想のまま終わるのかもしれない。  それでも美加は、危うく心許ないこの世界にどこか心を躍らせずにはいられないのだ。母の告白を聞いたあの日以来、配置換えが行われたのか、もうこの街にやって来ることは無くなってしまった朝の声の主に、思いを馳せるたびに。

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