彼女は間違いなく才女だった。 ここではない異世界の生まれである彼女が、こうして2040年の首都で暗躍していることこそがその証明だ。 確かに、界軸大災を経て世界の壁は薄くなった。だからといってそう簡単に世界を超えられるかはまた別の問題がある。 まず【異形化】。世界の壁を越えるものが必ず直面する問題。要するに世界の意思によるマーキングのようなもので、問題を起こした時に排除できるようにするためのもの。 エレクトの場合は、月の子どもに変質し、血が必要な体になった。かわりに、彼女はずっと求めていたものをーー美しさを、手にした。 エレクトが、まだエレクトラと呼ばれていた頃。 彼女の家は異世界で最も有名な俳優一家だった。 豪華な屋敷で、華やかな一生が約束されたはずの彼女は、その美を受け継がなかった。その上、芝居の才能もなかった彼女は、義務教育を終えると同時に養子に出され、絶縁された。 養子に出された先の商家で、彼女はその才能を遺憾なく発揮した。そして、両親や兄妹のような派手な美しさではないものの、素朴な美しさを持っていた彼女に恋をする男は多かった。多かったのだがー― 「ごめんなさい。タイプじゃ無いの」 彼女の美貌に惹かれるのは中の上くらいの男ばかり。 家族が皆美しかった彼女は、自然と求めるレベルも高かった。 やがて、彼女に声をかける者はいなくなり、彼女はいっそう商売に打ち込んでいった。 それから十年後、彼女はふと気づく。 「ああ、私は誰にも選ばれなかったんだ」と。 彼女の妹と弟は数年前に映画を大ヒットさせた上に、華やかな結婚式を挙げていた。 「別に、結婚だけが女の幸せではないけれど。でも、私はーー幸運の神にすら選ばれなかったんだ」 荒れてガサガサになった手。鏡に映るやつれた顔。 それを見た時に彼女の心は壊れた。 経営マニュアルだけを残して、エレクトラは行方をくらませた。 それからしばらく長い旅に出た。 商人としては間違いなく成功していた彼女には莫大な金があった。 優雅な船旅、暖かい日差し。それが崩れたのは、最後の国の離島でのこと。 「美しくなれる花……」 神秘が消えたはずの世界で、神秘を色濃く残すアキツ国の秘境。 「ええ。この花の種を飲むだけでいいんです」 差し出された真紅の種に、彼女は抗えなかった。 ーーどうして私だけ、美しく生まれなかったのか。 幼い頃から燻り続けてきた疑問と怒り。 ーー美しければきっともっと、別の人生を歩めたはずなのに! 叶わないと無理矢理に押し込めた強い願い。 ーーどのみちこの船旅で終わりにすると決めていたんだもの。 この種が毒なら、それもいい。 彼女は躊躇いなく、その種を飲み込み、その場に倒れた。 店主は赤く変わった瞳で、嗤う。 「もっとも残酷で美しい我が主人よ。喰らって、作り替えてください」 エレクトラは人でなく、「吸血鬼」へと変質していく。 パキパキと音を立てて、骨格が組み変わる。 鼻は高く、目は二重。体つきは豊満でメリハリのあるものへ。 荒れていた肌も、しわやシミが取れ、白く美しく、柔らかく。 深く眠っているエレクトラは気づかない。痛みも感じない。 やがて変質を終えたエレクトラは水鏡に映る自分の姿を見て、歓喜に震えた。 「ああ、私は紛れもなく美しい!私を捨てた家族なんかより!ずっとずっと美しい!」 それから数十年後。 稀代の女優 エレクトとして、彼女は突如芸能界に舞い降りた。 この正体不明の大女優は数々のヒットを飛ばし、今もこの世界の芸能界にしっかりと爪痕を残している。 結局のところ、彼女に欠けていたものは、美しさと自信だけだった。 もしも家族の中にひとりでも、彼女を認めてくれるものがいたならばもっと早く花開くことはできただろう。人間のままでいられたかもしれない。 それからさらに数百年後の異界で、キメラ使いの殺人鬼となることなど今の彼女は知る由もない。 そして、女優 エレクトの功績がなくなることもまたないだろう。 ** 「はあ」 夜風に白い髪を靡かせて、エレクトはため息をついた。 満月の夜、少し界の壁は薄くなる。それを利用してエレクトはユーリィスの結界を発見。それから洋館を襲撃し、現実世界でサクノに重傷を負わせるまでわずか15分。その後ユーリィスが出てくるまであまりに退屈で柄にもなく自らの過去を追想してしまった。もう数百年は過去の話だが、それは間違いなく彼女にとっての黄金時代だった。 「本当にわたくしにはわかりませんわ。ユーリィス。気高い吸血鬼である貴方がなぜそんな醜い男を選ぶのですか」 「……君には絶対にわからないよ、エレクト」 紅く染まった月に照らされ、全身に傷を負いながら、それでもユーリィスは鎌を下ろさない。後ろには重傷を負ったサクノが倒れていて、彼の石妖カナが不安げな顔で寄り添っていた。 「それよりも美しいものには手を出さないはずだった君がボクを襲撃するとはね。良くも悪くも原初の月の子どもだ。美しさには自信があるのだけど」 エレクトの背後のキメラの尾が鎌首をもたげる。 「ロストエデンにいた頃のあなたなら美しかった。白い髪、憂いを帯びた瞳。失敗作の処分で返り血を浴びるから、いつも甘い血の匂いがしていた……たまらなかったわ」 「でも、今の貴方は!」 「っ!」 エレクトは踏み込んでユーリィスに鞭を振り下ろす。 「……そんな男に体を許し、パートナーになった時点で。血の華を咲かせて散ることでしか……美しくなれないわ!」 振り下ろされた鞭の一撃を受け止められて、エレクトが一旦間合いをとる。 「……サクノを侮辱したね?」 ユーリィスがこつり、と鎌の柄で地面を叩くと、月の色が変わった。 紅い血の色ではなく、どこまでも冷たい蒼。 「あまりボクを怒らせない方がよかったけど。蒼月結界を張ったから、本気で行くね。断罪するよ。……美に狂った愚かな吸血鬼!」 「な……」 キメラが動きを止めていた。 鎌を動かしてもいない。詠唱を唱えてもいない。それなのに体が動かない。 まるで、首から下、全てが凍りついているように。 「ボクらを育ててくれたのはある世界の優しい竜だった。世界が壊れる時に、少しだけその力を受け継いだんだ」 ユーリィスはゆっくりとエレクトへ向かう。 「……氷の力は、凍結の力。だからこうして」 迷いなく、静かに鎌が振り下ろされ、エレクトはこと切れる。 「少しだけなら……時間を……止められる……」 主人を失ったキメラは、やがて元通りの人間の骨に戻り、そのまま灰になった。 元の色に戻った月を見上げて、ふらつきながらユーリィスは続ける。 「……ごめんなさい。あなたからもらったこの力で……生きるためにボクは葬り続けた。ボクは美しくなんて、ない。この手は血に塗れ、この体はどれだけ穢されたかもうわからない。サクノの方がずっとずっと綺麗だ……」 「ユーリィ……ス」 思わずこぼれた涙を無骨な手が拭った。 「サクノ……怪我は……」 「ユーリィスこそ……大丈夫か?」 「……ボクは月の子どもだよ。今日は満月だから……傷の治りも早い。だけどサクノは人間でしょ。誰か……」 サクノは笑っているが、不意打ちからユーリィスを庇いエレクトから受けた傷は深い。 不意に、満月を背にした男が現れ、サクノの上に影が差した。 男は小さくスペルを唱える。柔らかな光が、サクノとユーリィスの傷を癒した。 「あなたは?」 男は答えずに、「もう大丈夫」と言い残して姿を消した。 後には青薔薇を模した花が乗ったシフォンケーキと、蒼月薔薇の飴。 「……」 惹かれるように飴を手に取って、口に含むと、マナが再び体を満たしていく。 「とりあえず屋敷への道と結界を」 シフォンケーキはサクノが起きたら食べよう。 ユーリィスはケーキを冷蔵庫に仕舞い、床に寝ているサクノを寝台へと運んでいった。 ** 一方その頃、騒ぎの影に隠れて、もうひとつの計画が実行されていた。 「……逃げて……隼陽……」 「鳥束……!お前は何者だ!」 いつもと変わらない夜のはずだった。 だが、急に窓ガラスが破られ、抵抗する暇もなくその男は鳥束を人質に取り、両手足を縛り、隼陽の目の前で見せつけるように辱めていく。 「抵抗するたびに、君の大事な大事な【失敗作】を恥ずかしい目にあわせるよ。元より僕の目的は【成功作】の君だけだ。あのヒメという少女には正直あまり興味がない。組織はあの少女に執着しているようだが」 「隼陽……だめ……俺はこういうことには……慣れてるから……それに人じゃ……うあああっ!」 男のナイフが容赦なく鳥束の肩を裂いて、悲鳴が上がる。 そしてついに、一矢纏わぬ姿にされた鳥束を、もう隼陽は見ていられなかった。 「やめろおおおお!」 飛びかかった彼の背に、ナイフが突き立ち、その場に崩れ落ちる。 男は鳥束を蹴飛ばすと、愛おしそうに隼陽を抱きかかえた。 「……山蛇……隼陽を……殺したの………?」 山蛇は笑うと、 「ハ。コイツを殺す必要はないぜ。麻酔が効く程度に軽く刺しただけ。成功作品だしな。まあちょっと記憶や感情ぐらい奪ってもいいけど。再生能力も無さそうだし、例の計画のスペアとしてはスペック十分。それに何より」 ぞっとするほど冷たい眼で山蛇は鳥束を見下ろす。 「本当忌々しいんだよテメエ。鳥束とかいう名前がまず最高に気に食わない。そんなお前が傷ついて泣き叫ぶのが見れるのは最高に心地がいいんだよ。今すぐぐちゃぐちゃにしてやりたいぐらいだが、隼陽の弱点も碓氷の弱点もお前だ。利用価値があるなら生かしといて損はねえだろ?」 そう言い残して男は消えた。 「……黄鉄鉱。キミの言ったことは正しかった」 【マスター。碓氷はまだ消えてはいないのでしょう。でも、もう自由になったあなたは選ぶべきです。……隼陽か、彼か】 「……わかってる。さっきの言動でひーに巣食ってる者もわかったよ。最近隼陽とやってたソシャゲなんだけどね。俺と同じ名前の剣があった。トツカノツルギ。そしてそれが屠ったのは紛れもなき大妖怪。有名な鬼 酒呑童子がその血を引くなんて伝説もあるらしい、【八岐大蛇】」 鳥束の肩の傷はいつのまにか完全に塞がっている。寒さを感じたので空き部屋に移動して、熱いシャワーを浴びてからベッドに入った。 「……隼陽」 いつもなら、寝付くまでそばにあった温もりが今日はない。耐えられなくて 元の部屋の窓を黄鉄鉱に結界で塞いでもらったあとぬいぐるみを持ってきた。 強く、抱きしめる。 「絶対に助けるから……たとえ俺が……壊れても」 ** 一方その頃、研究室の中で目を覚ました隼陽に山蛇は静かに語り始める。 計画と、10年前にあったこと、そして記憶の欠落を。
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