――時計の針は巻き戻る。 思えば全ては偶然だった。たったひとつの目的のためにどれほどの世界を巡りどれほどの絶望を目にしたのか、もうよくわからない。 「あ、気がついたみたいですね」 「……ここはどこだ?そしてお前は………?」 「江ノ島ってわかります?そこの海岸にあなたはいきなり降ってきて、そのままだと溺れそうだったので助けたんです。僕は人間って嫌いですけど、目の前で特に恨みがない人間が溺れ死ぬのを傍観するほど性格も悪くないので」 「お前、人魚か。素直に礼を言う。俺も黒化侵食が進んではいるが、幸い自我を喰らい尽くされるのにはまだ時間がありそうだからな。ありがとう」 「おや、一発で見抜くとは」 青年は笑っていない瞳で助けた青年を見つめた。 「勘違いするな。俺は戦うのが好きじゃないし、お前を狩る趣味もない。ただ、あやかしにも半妖にも会ったことがあるからわかるだけだ」 「……嘘ではないですね。あなたはこの世界に属する存在ではなさそうですし」 「ああ。やはり人魚は鋭いな。その通りだよ」 人魚は少し考えて、 「色々な世界を渡れるならひとつ頼まれてくれませんか。助けた恩返しに」 「内容による」 「……人を探しているんです。大事な僕の片割れを。戦闘中にこちら――現世に飛ばされたと聞いて、僕も追ってきたんですけどいまだに巡り会えていないのです」 青年は少し考えて頷いた。 「……お前も人探しか。引き受けてやる。そいつの名前や特徴を」 「ありがとうございます。片割れの名前は瀬入拓人(せいるかいと)。鏡界の世界防衛機構シルーディア幹部。通り名は「戦鬼」。黒髪の三つ編みにルビーのような真紅の瞳。体質的にはマナ過多で、定期的に力を使う必要があります。僕は逆にマナが常に枯渇する体質なので彼の過剰なマナを吸い取っていました」 「戦鬼、か。戦闘狂なのか?」 「いいえ。彼は、そのことで仲間を傷つけないかずっと悩むぐらいの優しい人です」 人魚はそう言い切ると青年に小瓶をふたつ差し出した。 「ひとつはマナの過剰生産を抑える薬」 「もうひとつはあなたへの協力報酬です。人魚の秘薬……たった一度だけ心から愛した人を死の淵から甦らせる秘薬です。使わないのが一番ですが……僕があなたにできることはこれぐらいですから」 「……ありがたく。俺はそろそろ行くが、お前の名前は?」 人魚は少し寂しげに微笑む。 「上波深潮(うえなみみしお)。シルーディアの幹部にして、拓人の恋人だった男です」 ** 「異世界で恋人探しか。人魚の寿命は長いだろうが……」 首都の雑居ビルの屋上で夜風に吹かれながら黒いフードを目深に被った青年は独りごちた。 「俺にはあいにくそこまで時間はなさそうか。しかし、そこまで深潮の異世界の恋人が見つからないとはどういうことだ?マナを交わしていたのなら本能的に相手の居場所はわかるはず。もしかしてその相手は、もう……」 青年の思考は屋上に突如現れた黒い犬によって強制的に止められた。 「マヨイゴか」 意思を持たない黒い犬の群れが青年めがけて一斉に飛びかかってくる。 しかし青年は落ち着いた様子で一言だけつぶやいた。 「邪魔だ」 途端に黒い風の嵐が青年を中心に吹き荒れ、黒い犬の群れは一瞬で引き裂かれて塵になった。実態を持たない存在なので地面に血痕すら残ってはいない。 「ふう」 青年は息をつくと、夕食用のコンビニのサンドイッチを取り出してひとくち齧る。 「なかなかだ。この世界の食べ物の味も問題なさそ、」 急に頭上に影が差し、何かが高速で落ちてきて、激突した。 ** 「だ、大丈夫ですか?す、すみません」 「……てん、し………?」 痛む頭をさすりながら体を起こすと、白い翼と赤い瞳、銀色の髪を三つ編みにした天使のような姿をした存在が青年の上に覆い被さっていた。どうやら空から落ちてきて青年に激突したらしい。 「急な突風に羽を取られてしまって。あ、もしかしてサンドイッチ……」 フードの青年の近くには激突の衝撃で吹っ飛ばされた残骸が散らばっている。 「ご、ごめんなさい!弁償しますから」 「あ、いや、そもそもその風を起こしたのは俺だろうから気にしなくていい」 フードの青年は立ち上がり、改めて相手を見た。 月を背に広がる白い翼。透き通るような銀の髪にルビーのような瞳。素直に綺麗だと思った。物語に描かれる神の使い。祝福されしもの。 「しかし、天使は流石に初めて見たな」 「え、ええ?僕は天使なんかじゃないですよ?あんまり記憶がないんですけど天使じゃないっていうのだけはなんとなく。清らかな存在とは程遠い気がしてるのでどっちかといえば、堕天使の方がまだ可能性がありますね」 堕天使。それは悪魔と似たような意味合いの言葉だ。少なくとも目の前の天使のような存在からは敵意や悪意は感じられない。感じられないのに。 「堕天使?お前みたいな穏やかなのがいるのかは怪しいな。血の匂い自体はするが……それは人間に向けたものではなかったのだろう」 血の匂いだけは確かにまとわりついていた。 「確かに僕は戦うのが好きじゃないんです。だけど、目を覚ましてマヨイゴ、でしたっけ?に襲われたとき、体が自然に動いて相手を斬り伏せていた。だから、思い出せないけれどきっと僕は戦っていたんだとわかりました」 「……そうか。刀を使う堕天使ということにしておこう。こんな時刻にどこへ?」 「あ、そうです。そうだった!」 青年の問いに堕天使は慌てたように答える。 「助けたいなって人がいるんです!部外者のあなたに力を貸してもらえればきっと助けられると思うんです!」 「わ、わかったから落ち着け。助けたい人?部外者ってどういうことだ」 堕天使は数回深呼吸をして、 「ロストエデンの被検体の少年なんですけど、明日になったら【災厄の器】にされるんです……」 「少年ひとりが殺されるだけか?気の毒だが、ロストエデンはそういう連中だ。それだけなら俺が動く義理は」 「それだけじゃないんです。【災厄の器】って方がまずすぎるんです!」 「まずい?どういうふうにだ。そしてその少年はどういうやつだ。落ち着け。転移ぐらいなら一瞬でできる」 「……被検体の少年は、黒い髪に赤い瞳。元々は炎竜のスペアでした。ただし、炎竜には別の被検体が完全適合したため、彼は極秘実験の被検体になったのです。……【管理者】。わかりやすく言えば【神降ろし】。そしてそれは、成功してしまった。だから、続くあの狂科学者の提案も受け入れられてしまったんですよ」 「【管理者】だと!?そして……成功した?ひとりめは」 「ひとりめは炎の神。戦神です。問題はふたりめです」 【管理者】。その言葉を聞いた途端、黒フードの青年の魂の深い場所が大きくうねった。胸を抑え、息を吸って次の言葉を待つ。 「……日本神話。この世界の最大の厄神。その名前をご存知ですか」 「……オオマガツヒ……か。もしくは、アマツミカボシ」 「正解です。もっともどっちかはわからないんですが。そんなものが世に出たら。そしてロストエデンの兵器に加わったら、まずすぎるでしょ?」 「……まずいな。【管理者】……この世界でいうなら彼らは【神】そのものだ」 そしてそんな存在に人類は対抗できるか怪しい。黒フードの青年はそれが身に染みてわかっていた。だが、先ほどから胸がざわついて止まらないのは別のことだ。 黒い髪に赤い瞳。炎の神を宿した少年。 「手を貸そう。少年の名前はなんという?もしくはその火の神の名前は」 本当は知っている。続く名前はひとつしかない。 「ヒノハヤヒ」 やはりそうか、と呟く代わりに小さく頷いた。 「急ぐぞ」 「は、はい」 ヒノハヤヒ。日野隼陽。 どこかの世界で出会ったことがあるから知っていた。 【彼】と黒フードの青年は彼を助けて共に暮らしたこともあった。 結末は悲劇だったが、それでもあの穏やかな時間を覚えている。 それに【彼】もきっとヒノハヤヒが助かることを望むだろう。 今まで見てきた全ての世界でそうだったのだから。結局、その望みは一度も叶わなかったけれど。 「……この世界だけには【希望】があるという。だったら」 手を繋いだふたりの姿が屋上から消えた。
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