微かな泣き声を聞いた。 どうして、その声が届いたのかは今でもよく、わからない。 気づくと引き寄せられるようにその場所に立っていた。 「……嫌だ。記憶を失いたくない。あの子の記憶を失いたくない」 声の主は少年だった。瞳にたくさん涙を溜めて、溜めきれなかった分はぽろぽろととめどなく。捧げられるように手足を柱に縛られ、服すらも身に纏ってはいなかった。 「……聞こえるか」 「……だれ?」 「……お前は、そこまで記憶を失いたくないのか。方法はあるが、そのために代わりに何かを失っても構わないか?」 「……僕が差し出せるものは、僕自身しかないよ。だけど、記憶のために死んじゃったら、結局全部消えちゃう……それは、ダメなんだ」 俺は、その方法を知っていた。少年が全てを差し出しても、記憶を失わずにいられる方法。 【神降ろし】に成功した少年と、俺だからこそ許される方法を。 「……お前の記憶を、魂を俺が預かろう。代わりにお前の体を俺に譲れ。どうしても、終わらせなければいけないことがある」 「考えさせて、ください……」 ** 提案はしたものの、うまくいくかは五分五分だった。 数日後、状況は変わった。 ロストエデンの堕天使と、おそらく平行世界からの界渡りの青年が少年の救出に手を貸したのだ。 運命は彼を生かそうとしている。 「最後にもう一度だけ訊くぞ。状況が大きく変わった。運命はお前を生かそうとしているらしい。もちろん、理不尽な死という運命を受け入れることもできるが、お前は初めて出会った時に泣いていただろう」 素直になれ、と背中を押す。 「……本当に忘れずにいられるの?ここから出られるの?」 「ああ」 「じゃあ、もう迷わない。あなたなら、生き延びられる。それを、信じていいですか」 「……生き延びた方が辛いかもしれないが」 少年は小さく首を横に振る。 「生き延びて、どうしてもあの子に会いたい。そばにいたい。彼をひとりにしたくないんだ。そのためなら、もう迷わない」 その強い瞳に惹かれるように、少年にくちづける。これは自らと少年をつなげるための儀式だ。 「……怖かったら目を瞑っておけ。ああ、あの男の言った通りか。……全く、俺も流石に……ーーを見捨てることは、できないな」 「……あとは、お願い……」 記憶が、魂が溶け合って再び切り離される。 視界が暗転した。 ** 「……うまくいったようだな」 その様子を深く黒フードを被ったひとりの男が眺めていた。 髪の色は漆黒、瞳の色は若葉のような柔らかな黄緑。 「……この世界が最後の希望。唯一、ハッピーエンドにたどり着ける可能性を残した世界か」 男の首元できらりと光ったのは、つぎはぎ細工のようなモザイクオパール。 「……この世界で、お前が生きて笑えるというのなら。彼らと同じで俺も手段は選ばない。世界からも運命からも……奪い取る」 男は少年と入れ替わった男の体を抱き抱えるとその首に別のオパールの首飾りをかけた。 「お守りだ。君が最後に希望にたどり着くように。どの世界のあいつでも、多分そうするだろうから」 景色が揺らぎ、次の瞬間フードの男は姿を消す。 柱に縛られた少年はまだ目覚めずに、その時を待ちわびる。
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