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 窓を叩いていた雨音が止んだ。喫茶店を出る時にはもう日も暮れるころで、ぬるくなった紅茶を飲み干し、家へと戻った。玄関を開けると彼女がいて、 「おかえりなさいませ」  と頭を下げる。 「ただいま」  微笑みかけた表情は固かったように思うが、彼女はいつもの無機質な表情のままで私の上着と荷物を預かってくれた。  荷物を渡すときに彼女の手を握る。  今、ここでこの手にぬくもりが宿ればいい。そうしたら、彼女は心を宿していることになり、廃棄されることもなくなる。  そうは思っても彼女の指先はひんやりとしたままで、私はゆっくりと彼女の手を離した。 「結婚式にさ」 「はい」 「出てくれないかな?」  彼女の鳶色の瞳を見つめる。 「申し訳ありません。私の一存では決定できないので、ご主人さまにお伺いしてもよろしいですか?」 「いや、いい。じゃあ、結婚式に出てくれ。約束だ」  結婚式は来月の半ば。彼女はもうこの家にいるはずがないことはわかっていた。それでも、彼女の頷く姿が見たかった。 「かしこまりました。来月の12日。11時より結婚式の予定を登録いたします。このスケジュールは、メイド長やご主人さまにも共有されますが、よろしいですか?」 「大丈夫だ」  父はまた呆れるだろう。彼女に来月の予定をどれだけ入れたとしても、壊される未来は変わらない。 「登録いたしました」  彼女の無機質な声が室内に響く。  せめて結婚式までの予定を全て入れよう。彼女が来月を、彼女の未来を見ることができるように。 「君の結婚式で着る衣装を買わないとな。試着の予定を入れよう」 「かしこまりました」  私はそのあと、彼女とさまざまな予定を組んだ。明日は映画に行く。明後日は私の料理教室に付き合う。その次の日は、父の仕事の手伝い。さらに次の日は、招待客を選ぶ手伝い。彼女のメモリに私との架空の未来が増えていく。その予定は全てキャンセルになるだろうが、彼女との未来を想像するのは悪くなかったように思う。 「予定の登録が完了いたしました。他にご登録したい予定がございますか?」 「いや、大丈夫だ。長い時間付き合ってくれてありがとう。結婚式の予定は忘れないでくれ」  消されることがわかっているはずなのに、女々しくも言わずにはいられない。 「かしこまりました。知識や記憶をなくすのは恐ろしいことです。忘れることはありません」  相変わらず彼女は、忘れる、という言葉に敏感だ。 「よかった。約束だよ」  しばしの機械音の後、 「結婚式、楽しみにしています」  と彼女は頭を下げた。  忘れたりはしないのかもしれない。けれど、彼女が私の花嫁姿を見てくれることはないだろう。

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