きみのことなんて
1.きみのことなんて(後編)

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 家に帰ると、家族はまだ誰も帰っていなくて家の中は真っ暗だった。電気も点けないまま、適当にタオルを引っ張り出して濡れた鞄を拭う。  傘の下で言われた言葉が、耳に残って離れない。 『俺、嫌われてないって思ってええんかな』  そのすがるような声が何度も頭の中で響いていて、言葉の理由を考えてしまう。  嫌われていないと思っていいのか、ということは、私に嫌われたくないということなのだろうか。嫌われたくないというのは、つまり。  ここまで考えて、しっとりと濡れたタオルを洗濯機に放り投げた。  いくらなんでも、思考が飛びすぎている。そんなわけがない。だって私たちは、図書室でしか話したことがない。  先ほどまでどくどくと高鳴っていた胸に、ずしりと黒いものが押し込まれていく。  なんであいつのことばかり考えてるんだろう。  シャツのボタンを外す指が、なかなか動かなかった。  重い瞼を擦りながら登校すると、廊下にシロヤマくんがいた。隣の教室の、扉の前。私の教室のすぐ近く。シロヤマくんはいつもここで、友達と話している。  教室に入りづらい。階段をのぼってそのグループが目に入ってから、ずっと手に力が入っている。私は男子と積極的に話すタイプではないから、こういう時にすごく戸惑ってしまう。  思いきってグループの横を通り抜けて、教室の中に入って行く。がはは、と笑うシロヤマくんの瞳には、私が映ることはなかった。  また雨だ。昼を過ぎてから雨が降り出した。朝の間、灰色の雲にたっぷりとしみ込んでいた雨粒が、惜しみなく溢れ出している。  今年の梅雨は例年よりも長いと今朝のニュースでやっていた。毎日のように雨が降っていて、学校は薄暗い世界に囲まれている。  きっと今日も、シロヤマくんは図書室に来てしまう。  どうしよう。嫌だ。会いたくない。どんな顔をしたらいいのか分からない。  それでも私は、図書室に行くのをやめられなかった。頭では会いたくないと思っているのに、心は言うことを聞いてくれない。頭と心がちぐはぐになったみたいで、気持ちがわるい。  図書室にはやっぱり誰もいなくて、カウンターの貸し出し係の人に頭を下げてから閲覧席に向かった。いつもと同じことを繰り返しているだけなのに、足元がふわふわしたみたいに落ち着かない。  奥に座って本を開いていると、扉が開く音がした。そちらには目を向けず、必死に文章を追っていく。文字の羅列は、一文字も頭に入ってこない。視界に映ってはするすると頭を通り抜けていく。  床を踏む音がして、よく知る気配が近付いてくる。お疲れ、という言葉とともにシロヤマくんが私の前に座った。 「あれ? なんか怒っとる?」 「別に」  席に座った途端、そう尋ねてきた。よほど分かりやすい顔をしていたのかもしれない。 「……俺、なんかした?」 「別に、何もしてない」  そう、シロヤマくんは何もしていない。なのになんでこんなにイライラして、泣きそうになるのか分からない。こんな気持ちになったことがなくて、感情をどう整理すればいいのかも分からずにいる。 「……無視したくせに、話しかけてこないでよ」  なんて面倒臭くて自分勝手なことを言っているんだろう。こんな子どもみたいなことを言うなんて、自分で自分が嫌になる。  でもどうしようもなかった。廊下で見かけた時、目が合わなかったのが、なんだか寂しかった。どうして見てくれないの、と思ってしまった。  私はずっと、屈託なく近付いてくるようなシロヤマくんが苦手だったのに。矛盾している。 「無視? 俺が? そんなんしてへんやん」 「うそ。した。今日廊下で、」 「廊下?」  ああ、これじゃあまるで。かまってほしかったみたいじゃないか。 「え、あの時?」  シロヤマくんの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。それに気付いたのか、こちらを向いていた視線を机に落とした。前髪で目が隠れて、表情が掴めない。 「え、だって俺、なんか反応したらハルちゃん嫌がるかなぁと思って」  声が少し震えているように聞こえる。机に置いた本の角を指先ですりすりと撫でながら言った。 「ほら、友達もおったし、やから、」 「ちょっと、なに赤くなってんの、やめてよ」  こっちまで赤いのが移りそうだ。勘弁してほしい。 「はあ? なってへんわ。そんなんハルちゃんやって真っ赤やん!」 「ちがう!」  ごほん、とカウンターのほうから咳払いが聞こえた。声が少し大きくなってしまったみたいだ。静かになった途端、今の会話が頭の中で甦ってきて、咄嗟に手で顔を隠した。頬が熱い。熱が完全に移ってしまった。 「もう、なんなんほんまに……」  シロヤマくんは前髪をくしゃっと掴んで、顔を隠すようにしながら言った。手の端から、泣きそうで悔しそうな顔がちらっと見える。  シロヤマくん、こういう顔もするんだな。 「じゃあ、明日はちゃんとするから」 「ちゃんとって、なに?」 「んー。内緒」  そう言ったシロヤマくんはいつもの表情に戻っていた。人懐こそうな、少し幼い笑顔。私は小さく頷くことしかできなかった。シロヤマくんの声が優しくて、私をなだめるように柔らかく包み込まれた気がした。  翌日、休み時間に廊下へ出るとシロヤマくんが立っていた。いつもの友達と輪になって話をしている。足を前に出すたびに、緊張が私に覆い被さってきた。 「あ、ハル、白山くんいるよ」 「うん……」  隣を歩いている友達の声にどきりとした。この友達は私とシロヤマくんの関係を知っているわけではない。クラスの子たちはみんな、彼を見かけるとこうやって囁き合っている。  音楽の教科書をきゅっと握りしめて、歩くスピードを速めた。さっさと通り過ぎてしまいたい。横で友達が不思議そうな顔をしたその時、シロヤマくんと思いきり目が合ってしまった。  一瞬、時が止まったかと思った。  濃い茶色をした瞳が潤んで、私を捉えている。図書室で何度も見ているのに、他の人がいるところで目を合わせられると、体が沸騰したみたいに火照ってくる。湿気を含んだ髪が色っぽく見えて、心臓が爆発するかと思った。  白いシャツの上からでも分かる厚みのある体や、広くて幅のある肩。それだけで、私の体とは違う、男の人なんだなぁと思って胸がぎゅっとなった。  私が固まっていると、シロヤマくんは友達の輪の中からこっそり微笑んだ。そして腰のあたりで、小さく手を振ってきた。  うわ。  これ以上前を向いていられなくて、俯いたまま駆け足で音楽室に向かった。  恥ずかしい。なにしてんの。 「ん? どうした?」 「んーん、なんもない」  そう言ってまた話し始めるシロヤマくんの声を後ろに感じて、背中がくすぐったくなった。シャツと素肌が触れ合っているところが、心許なく感じる。いつの間にか少し前を歩いていた友達の腕にしがみついて、大きく息を吐いた。

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