カクリヨ美容室の奇譚黙示録
第一話 呪われた髪 5
父の名前は如月鉄男。出身地は九州地方の、福岡県北九州市。五人兄妹の末っ子として生まれ、大学進学を期に神奈川県へ上京したと聞いていた。
その話は父に直接聞いたわけではなく、姉がこっそりわたしに教えてくれた。どうも父は地元があまり好きではないらしく、その過去を聞いたことすらなかった。
大学卒業後は警察官の道へ。母親と数年の交際を経て結婚、わたしの姉が生まれた。その後にわたしが誕生するのだが、それまでの7年間は三人家族。当時の記憶を思い返した姉曰く、「とにかく優しい人」というのが父親の印象らしい。よく内緒でおもちゃなどお菓子を姉に買い与えては、母親にこっぴどく叱れていたという。逆に、姉から見た母親は「厳しい人」というのが正直な感想。でも理不尽な怒り方ではなく、自分のためを思っての叱り方だったと姉は記憶している。
以上、ありふれた平凡な家庭。何事もない幸せな日常だったそうだ。わたしが生まれてくる、そのときまでは。
わたしが生まれた。そして、母親が亡くなった。
わたしの母親にあたる人物は、わたしを出産した数時間後にも息を引き取った。出産時に頭の血管が破裂し、そのまま帰らぬ人となった。
父が変わってしまったのは、その頃からだったらしい。
姉は「お父さんとそっくりの人が来て、いつの間にか入れ替わったみたい。だから先生、本当のお父さんを返してください」と当時の担任に相談していたみたい。そのくらい、厳しい父と変わり果ててしまった。
ただ、わたしが物心を覚え始めたときには既にそうだったので、わたしにとっての父とは厳しい印象というのが大前提。また父に言われたことを忠実に守って育ったものだから、父もわたしに対してとやかく言ってくることはなかった。むしろ、わたしは父と姉の仲裁役に回ることが多かった。
怒髪天の父が、地獄鬼のような剣幕で怒声を轟かせる。乱れ髪の姉が、荒れ狂う般若の如き狂気で癇癪を起こす。姉が大学生となり一人暮らしを始めるまでは、それがわたしにとっての日常だった。
幼き頃は、どうしてわたしの家庭は他の子みたく普通じゃないのかなって、不思議に思ってばかりだった。ただ人より少し早く大人の考えに至ったわたしは、母親がいないからこうなったのかと一人悟っていた。そして、その母親の命を奪ったのがわたしであることを知り、ふと、思わされた。
そもそもわたしが生まれたせいで、全てが無茶苦茶になってしまったのだ、と。そんな罪悪感に目覚めた頃、わたしは中学生となっていた。
当時のわたしは成績も良好、中学から始めた陸上短距離では県大会へいける好タイムを収めていたこともあり、中三の夏頃には高校推薦の話が浮上した。担任にも「お前なら自信を持って推薦できる」と太鼓判を押されていた。父にも「悪くない話だ。さすがだ」と珍しく褒められた。だったら大人たちに従い、彼らが求める「如月結衣」を演じるのが最善であろうと、答えは決まっていたけれど……頭の片隅で、考えていた。
誰にも迷惑かけることもなく、一人で生きていける力が欲しいと──と。
その頃にも、だった。
『賢い子でした。幼い頃から、誰よりも好奇心が旺盛で、自分から勉強がしたいと言い出した時は、きっとこの子は将来すごいことをしてくれるんだろうって、そんな予感がしました』
そんな書き出し。ある日、夏季講習の帰り道だった。大船駅中にある本屋で、その地元ローカル雑誌が目に止まった。何気なくペラペラとページをめくり、当時一斉を風靡させていたイケメンカリスマ美容師の、その生い立ちを彼の母親が語るという記事を見つけてしまった。
『でもまさか、美容師になるなんて予想もしていませんでした。てっきり、医者とか弁護士とか、そういった職に就くものだと。別に美容師という職業を下に見ているわけではありませんが、酷く残念に思いました』
それは、ほとんどがその母親のエゴのように感じられた。また自分のIFの未来を暗示しているようにも思わされた。わたしもきっと、父に従わなければこんなことを思われるのだろう。思われるだけならまだいい。絶縁されるかも……なんて、他人事のはずなのに、どうしても他人の話とは思えなかったのだ。
これ以上は心に毒だ──わたしは意気消沈。そのまま雑誌を閉じようとして、ふと。
『ですが、ある日。たまたま時間がなくて、地元の商店街にある小さな美容室へ立ち寄った時でした。私は、今述べたことを担当してくれた美容師さんに明かしました。白髪頭の綺麗な、ご年配の美容師さんでした。彼女と話していると、なぜか、これまでずっと抱えていた自分の気持ちが溢れ出してきたんです』
話の流れが、変化した。もう少しだけ読んでみよう。わたしは舐めるように文字を目で追った。
『そんな体験が、私を変えてくれました。美容師とは、ただ髪を切る存在ではないと気付いたのは、その時からです。そして息子が、彼女のようにさまざまな人の話を聞いて、その癒しとなっているのかと思うと──』
その後に綴られた言葉の数々は、ただただ理解し合えなかった息子に対する母親の懺悔でしかなかった。読んでいるこっちが同情してしまうくらいの反省文だった。
そして、最後はこう締め括られる。
『──は、立派に成長しました。あの子は、私の自慢の息子です』
その夜、わたしは湯船に浸かっているときにも「仲直りできたらいいのにな」と、記事のことを思い返してほっこりしていた。なにか尊い感情が、胸の中へ澄み渡っていたのである。
「美容師かぁ……」
自身の出生に対し、後ろめたさを感じていたこともあったのだろうか。誰かの癒し、救いとなれるかもしれない「美容師」という職業に、わたしは魅了されていた。またその記事の二人みたく、美容師になればいつか親とも理解し合えるのかなって、ぼんやりと憧れのような理想を抱いていた。
それからだ。父には内緒で、美容師となる道を考え始めたのは。そして横浜の方に、美容資格取得コースを選べる高校があることを知った。ダブルスクーリング制といって、高校の単位を修得しながら姉妹校の美容専門学校へ通える制度。高校卒業後に専門学校へ進学するより安く、卒業と同時に美容師の免許を取得できるという。
これだと、直感的にそう思った。
そして、あの日はやってくる──8月の夏休み、お盆前。塾で実施されていた夏季講習の帰り道のことだった。ひと雨きそうだからと、父が車で迎えに来てくれた。実際、その後にも激しいゲリラ豪雨が発生した。
「すぐに止むだろうが、迎えに来て正解だったな」
フロントガラスを打ち付ける雨を見つめながら、父はそう言っていた。わたしも、正解だと思った。なかなか仕事で会えない父に、美容科高校への進学を打ち明けるチャンスが到来したのだから。
このとき、わたしも父も、いまこの選択が不正解であることを知らなかった──
「父には、言語道断で否定されました。あんな父を見たのは初めてで、仲の悪かった姉に対してですら、あそこまで怒り狂ってる姿を見せたことはありません。そのくらい、あのときの父は異常でした」
そこまで話したあたりで、一度話を区切る。ふと、窓向こうを眺める。陰気さ漂わせる暗い空、強い雨。緊迫とした雰囲気の室内に、猛烈な雨音が響き渡る。
「美容業に対して、なにか強い恨みでも感じていたのでしょうか?」
先程と同じ立ち位置、椅子に付いたわたしを鏡越しに見つめるほだかさん。
わたしは首を傾げた。
「さあ、どうなんですかね。わたしには分かりません。ただ父は頑なに『美容師だけはダメだ』と、そこだけは譲りませんでした」
わたしは少し間を空けて、静かに語り繋いだ。
「そのとき、でした。これまでは一度だって父に口ごたえしたことはなかったんですけど、父の言ってることがあまりにも理不尽に聞こえてしまって……つい、言ってしまったんです」
──わたしのことなんか、なにも考えてないくせに! いっつも自分の考えばかりわたしに押し付けて! どうせ、あれでしょ……お母さんが亡くなった恨みを、わたしにぶつけてるんでしょ!?
これまで男手一人で育ててくれた父に対して、あまりにも失礼で最低な暴論。わたしも、正気ではなかった。
父はきっと、さらに怒り狂うだろう。なんだったら、殴られるかもしれない。上等だ。そのくらいの覚悟はあった。だから運転席でハンドルを握る父を、いつまでも睨み続けていた。憎しみのこもった睨みで、父が怒号する瞬間を今か今かと待ち続けた。
だけど、
「父は……真っ直ぐ前だけを見つめて、黙ってしまったんです。てっきりわたしは、親子の関係を絶たれてしまうんじゃないかなって、内心ビクビクしていたのに……肝心なとこで、父はいつもの自分を押し殺したんです」
ほだかさんは悲しそうに、目を細める。あのときの父も、今のほだかさんと同じような瞳をしていた。悲しそうだった。だからそれ以上、わたしはなにも言えなくなった。その後に残ったのは罪悪感だけ。泣きたくなった。ただそこで泣いたら父に屈服するような感じがしたから、窓の向こうを眺めることにした。
そんなあの日も、大雨──まるでわたしの代わりに空が泣いてくれているみたく、雨が次第に強くなり出したことを記憶している。そのときのわたしは、これからのこと、将来のこと、それに父のことで頭がいっぱいだった。それら問題が、巨大な壁となって立ち塞がっているように思えたのである。
そして、あのときは訪れたのだ。
「いきなりでした。父に……突然グイッと、髪を強く引っ張られたんです。当時の髪の長さは今と同じくらいなので、大体このへんでしたかね」
わたしはヘアゴムを取って、肩へ下ろした髪の毛先部分を手のひらで撫ぜた。不意に当時の記憶が走馬灯となり、背筋に悪寒が走る。
「殴られるって、直感的にそう思いました。途端に怖くなって、それで、大声で、悲鳴をあげて……」
胸にざわざわと、嫌な感覚が雪崩れ込んでくる。
「でも結局、父はわたしを殴りませんでした……いや、殴れなかったと、そう言った方が正しいかもしれません……わたしは、そのときのことは、あまりよく覚えないんですけど……とと、トラックが、対向車線から、突っ込んできたみたいです……」
医師曰く、強い衝撃を受けて記憶が断片的に飛んでいるらしい。そのくらいの激しい接触事故だったらしい。
警察曰く、事故当時は雨の影響で視界が悪く、尚且つトラックを運転していた男性の居眠り運転が災いしたらしい。
「父は、即死、だったみたいです……わたしが助かったのは奇跡みたいなもので、あと少しズレていれば、きっとわたしも……」
「如月さん。話してくれて、ありがとうございました」
「あの頃から、なんです……この髪を切ってくれた人が、事故にあってしまうのは。だからこれは、きっと、父の呪いなんです……」
「如月さん、もう結構ですよ」
「父は、今でもわたしのことを恨んでいるんですよ……忘れるなって。亡くなった今でも、わたしに対する強い恨みが、わたしの髪に憑いていて……」
「如月さん」
「だだ、だから、わたしは……」
「如月さん!」
「あっ、はい!?」
びっくりした。見ると、鏡越しにほだかさんが優しく微笑んでいた。その笑顔を見て、少しほっとするわたしだ。
ほだかさんは「少し失礼します」と、わたしの髪を触れる。シザーケースから取り出したコームで髪を梳かして、小さく頷いた。
「やはり、切りましょう。それがきっと、今の如月さんにとって、最良な選択だと僕は思います」
「で、でも……そんなことをしたら、ほだかさんが……」
「僕のことを心配しているのなら、安心してください。僕は、如月さんのような方を救うことができる、そんな美容師ですので」
意味が分からなかった。だがその表情、瞳、漂わせる雰囲気、その全てに説得力があって、しぶしぶ肯くわたしだ。
「ちなみにですが、中間から毛先にかけては切る必要があります」と、ほだかさんはコームの先端をわたしの肩に添えた。
「最低でもこのあたりまでは短くなりますが、よろしいですか?」
「は、はい……むしろ、もう少し短くても、いいかなって……あっ、いや、」
なにを我儘なことを言っているんだわたしは。この髪を切ってくれることだけで有難いことなのに、さらに髪型の注文までするなんて、いくらなんでもがめつ過ぎる──
「構いませんよ、言ってください。今の如月さんは、僕のお客さまです。そしてお客さまの要望に応えるのが、美容師である僕の役目です。そのことに関して言えば、如月さんの過去もその身に起きていることも、関係ありませんから」
夢みたいな話だった。このわたしが、髪型の注文をできるなんて信じられない。いつも同級生たちがばっさり髪を切ってイメチェンしているのを眺めて、淡い憧れを抱いていた、このわたしが。
わたしなんかが、本当にいいのかなって、そんな罪悪感を完全に捨て去ることはできないけれど──
「じゃあ、あの……ちょっと、待ってください……」
わたしはスマホを取り出して、恐る恐る画像フォルダを開いた。いつか髪を切れる日がきたらと、いつもニヤケながら保存貯めて置いた画像フォルダをスクロールしていく。いざ切るってなると、超悩む。あまりに没頭し過ぎて、何分も迷ってしまう。ふと我に返り鏡越しにほだかさんを見る。
ほだかさんは「大丈夫。決めるまで待ちますから」と、にっこり微笑み返してくれた。その笑顔が尊くて、美しくて、神々しくて。もう幸せ過ぎて、一生分の幸せを今この瞬間に使い果てしまったのではなかろうと、そんな意味不明なことすら思わされていた。
それからさらに数分ほど経って、わたしはようやく髪型のイメージ画像をほだかさんに見せた。髪型の注文についてはよく分からない。人生で初めて美容室へ行ったときも「短く切ると自分で手入れをするのが大変ですよ」と、やんわり断られたことがあった。その後にも「この髪型が一番似合うはずです。一カ月経ったらまた来てくださいね」とドヤ顔で言われても全くのちんぷんかんぷんで、美容師さんがそう言うのなら間違いないんだろうと勝手に思い込むくらい髪型に疎いわたし。その美容室にも、なんだか行くのが億劫になってそれ以降行くこともなかった。以来、「長めで」と注文することしかわたしはできなくなっていた。
だから、ドキドキした。もしかして、ほだかさんにも同じことを言われるかもしれない──
「……かしこまりました」
ひと言、ほだかさんはそれだけだった。その後は真っ白なカットクロスをわたしの首に回し、水霧(スプレイヤー)でわたしの髪を濡らしていく。あまりの淡々とした動作に、わたしは面を食らってしまう。
そして、いざカットが始まるのかと、期待と恐怖がいっぺんに押し寄せてきた。
そのときだった。
「如月さん、先に伝えておきます。これからなにが起きても、取り乱さないでください」
そう言ったほだかさんがどこからともなく手にしていたそれは──淡い水色の組紐で彩られた、鈴のついた小槌であった。ほだかさんは小槌の持ち手を、しっかり握りしめる。
わたしはよく分からないが、黙って頷いた。ほだかさんは頷き返してくれて、「では、いきます」と薄く笑った。次の瞬間。リーン……爽やかな鈴の音が、室内に反響した。
リーン、リーン……続けて、鈴の音が鳴らされる。音が収まり、静寂が訪れた。
なにも、起きない。
少し身構えていただけに、内心ほっとするわたし。なにかのおまじないかなって、そんなにも楽観的な考えを抱かされていた。直後だった。
もわっ……鏡に、黒い影が漂った気がした。またぞわぞわと、全身を得体の知れない悪寒が襲う。カタカタカタ……風が吹いているのか、窓が小刻みに揺れている。ほだかさんは黙ったまま。恐ろしさを感じさせる程の、静寂。沈黙。そして、鏡に浮かび上がったそれを、今度こそわたしは見逃さなかった。
黒い人影が、ほだかさんの脇に立っていた。
姿形は人の形をしているのが、目や鼻はない。ただ口だけが不自然に浮かび上がって、ムンクの叫びみたく歪み切っていた。それはまるで、苦しみもがいているように見えなくもない。
「キィィィイイ……」
小さな金切り声が聞こえてくる。
怖い……怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
そのうち、その手がわたしへと伸ばされる。その折にも、思った。これは、お父さんだ。お父さんの怨念が実態を帯びた姿だと、なんとなくわたしは思った。
我慢の限界だった。わたしは頭を小刻みに揺らして、無意識に目から大粒の涙を流して、「う、うわぁっ」と声を漏らしかけて──
「安心してください」
手に、温もりがかぶさる。
ほだかさんが、わたしの手を握ってくれていた。また、わたしの恐怖を甘やかに溶かし尽くしてくれるように、笑って諭してくれる。
「大丈夫、僕が付いています。それに……きっと守ってくれますから」
「ほ、ほだかんさん……わたし、怖いです……」
「はい、分かっています」
ほだかさんは黒い影から守ってくれるかのように身を傾け、わたしの頭を優しく撫でてくれた。
「怖いことは、すぐに終わりますから」
根拠は、なかった。だけど今この瞬間、どうなってもいいから、最後まで、ほだかさんを信じてみようと思った。
「よ、よろしく……お願いします……」
泣きじゃくりながら頭を下げれば、ほだかさんは「かしこまりました」と、爽やかな笑顔を見せた。次に胸元から取り出したそれは、天を昇る白竜みたくとぐろを巻く紐布──たすき紐を唇に挟み、器用に両肩を縛る。たすき掛け。
そして、
「では、始めます──」
銀色の光沢を放つシザーの刃は開かれる。シザーの開閉音、軽やかなメロディがわたしの耳へと澄み渡る。
固く閉ざされた呪いの過去が、ゆっくりとその時を刻み始めたのだ。
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