翌朝。 千夜の足は、歩道の上を駆けていた。家を出た時点では早歩きだったはずなのに、いつの間にか息が弾んでいる。 気が急いていた。 ――早く。早く伝えたい 意識だけがどんどん先走りしていく。出せる速度の限界が、もどかしくて仕方ない。 外気は冷たいはずなのに、千夜の身体はすっかり汗ばんでいた。 ――伝えなきゃ。私がこれから、どうしたいのか。銀くんとどうなりたいのか シャッターは開いている。店内の明かりが漏れて、早朝の歩道をオレンジ色に染めていた。 千夜の手がガラス戸を開けた。 カランカランという、厚みのある鈴の音が二回鳴った。そして甘く優しい香りが、千夜を出迎える――――はずなのだが。 「あれ?」 店内の異変に、千夜はすぐに気がついた。 「チョコが……ない」 陳列台には、埃よけのカバーが並んでいるだけだ。その下に整列しているはずの商品は、一粒も見当たらなかった。 「銀くん?」 時計を確認したが、千夜が早く着きすぎたわけではないようだ。いつもならこれくらいの時間には、商品は全て並べ終えているはずなのだ。 上がりきった呼吸を整えながら、千夜はコートとブレザーを脱いだ。いつものように会計台の奥の荷物置き場に、鞄と一緒にそれらをまとめる。 昨日の今日でのこの異変に、不安が心にさざ波を立てていた。 「銀くん、どこにいるの?」 その時。奥のドアの内側から、耳を劈く大声が聞こえてきた。 「俺は本気だ‼」 びっくりした千夜の耳に、間髪入れずに次の大声が飛び込んでくる。 「一丁前に何を言いやがる! この小童!」 凄みのある怒鳴り声は、千夜の知る男のものではなかった。もっと年配の男性のようだった。 「小童じゃない! もう大人だ!」 「はっ。笑かすなコラ。まだ成人認定すら取れていない癖に」 「成人認定? ただの目安でしかない。そんなもので推し量られてたまるか!」 「あなた、ギー。ちょっと落ち着いてよ。もう少し冷静に話し合いましょう」 「うるさい黙ってろ!」 「今なんて?」 「ハ……ッ。ウソウソウソウソウソウソ……うそです、かーちゃん……」 「しっかり聞こえたんだけど? 黙ってろ? 黙ってろって言った? 今、言ったわよね。黙ってろって。妻に向かって、『黙ってろ』はどうなの? ねえ、あなた?」 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。久しぶりに大声出したら、ちょおっと気が大きくなりすぎて、口が滑ってしまってぇ……」 「あのう……すみません、お父さんお母さん。論点を戻して頂いてもよろしいでしょうか。きちんとご家族で話し合って、結論を出していただかないと……」 「あら、ごめんなさいね。イトウさん。お見苦しいところ見せてしまって。ホホホ」 「もー、ママとパパったら。いつもこうなんだから。アタシが取り仕切ってあげる。で、ギー兄。もう決意は固いって感じなの? もう絶対に絶対に絶対に、気は変わらないっぽいの?」 「だからそう言ってるじゃないか」 「ギー。お前本当に分かってんの? 移住って簡単に言うけどな、そんな甘くないぞ?」 「分かってる」 「本当かよ。俺もこの間、社員旅行で地球行ったけどさ。やっぱり香りが合わねえよ。長くは住めないって思ったわ」 「俺は地球の香りが好きなんだ」 「え? マジ? お前変態?」 「ギー兄が変態なのは周知の事実だよね」 「あのう、論点を……」 複数の人間の声がする。何やら揉めているようだった。 ――銀くんの家族かな…… 会話の趣旨がよく分からないが、お互いの呼称から、そうであろうことは察しがついた。千夜はドアをノックしようかどうか迷ったまま、暫くの間立ち尽くしていた。 しかしギーの大きな一声が聞こえて、遂にその扉を開けたのだった。 「俺は千夜ちゃんを愛してるんだっ! 彼女を残して帰るなんて……ありえない!」
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