通学リュックを背負うと、千夜は姉の部屋のカーテンを全開にした。遮光布に守られていた室内に、容赦なく日差しが注ぎ込んでくる。 「お姉ちゃん! 私もう学校行くよ。いい加減起きないと、大学遅れちゃうよ」 「うーん……千夜行くの? もうそんな時間? でも大丈夫。今日はお昼からだからあ……」 「そんなこと言って二度寝するの危険だから。先週やらかしたばかりでしょ! 夕方まで寝てたの誰? バイトにも遅刻してたじゃない。ほら起きなよ」 玄関に直行したいところだったが、千夜は姉の一番の大仕事を手伝ってやる。朝が苦手な美紀にとって、研究よりも仕事よりも、何よりも気力を使う出来事が朝の起床なのだった。前の晩に深酒した朝など、尚更である。 「うーん……ありがと。立ち上がるとこまでできれば、多分大丈夫だから」 「……ほんとかなぁ。もうお父さんもお母さんも仕事行っちゃったよ。起こしてくれる人いないからね」 「だーいじょうぶ。そんなことより千夜。あんた早く出たいんでしょ。お姉ちゃんのことはいいから、早く行きな」 ニッと笑った寝ぼけ眼の美紀は、くしゃくしゃと妹の頭を撫でた。 「学校行く前に、彼氏のとこ寄るんでしょ?」 睡魔を完全に追い払えていない寝起きの思考回路だったが、美紀は千夜の頬に上ってきた赤を確かめることはできた。 「ほら、行った行った。一秒でも長く一緒にいないと。ね!」 上ずった「行ってきます」の声を聞きながら、美紀は部屋の窓を開け放った。 清々しい春の空気が流れ込んでくる。 *** 「おはよう、千夜ちゃん」 「おはよう!」 カランカランと鳴る鈴の音。その直後の彼の挨拶が「いらっしゃい」から「おはよう」に変わった日がいつなのか、千夜はしっかり覚えていた。 千夜の願いが叶い、ギーが試験に合格した、あの日の翌朝からだった。 「今日はいつもより、来るのが遅かったね」 「お姉ちゃんを起こすのが大変だったの」 「そうかあ。君のお姉さんには、もっと朝に強くなってもらわないとね」 ガラス戸の内側には、ブラインドが下がっていた。ドアノブに掛けられた札は『CLOSED』――開店前のこの時間、千夜が乗る電車の定刻まで、店内はいつも二人きりだった。 「一緒に過ごせる大切な時間が、減ってしまう」 千夜の耳元で囁かれたその声は、店内に漂う香りよりも甘い。 軽いリップ音はわざと立てたのだろう。頬に感じた唇の熱に、千夜の顔はあっという間に真っ赤になっていた。そんな様子を見て、ギーは可笑しそうに笑うのだった。 「ほっぺにキスくらい、いい加減慣れてほしいな」 「慣れないよ、こんなの」 「千夜ちゃんって、チョコを食べた時以外の表情の変化が少ないと思ってたけど、最近少し変わってきたよね」 「それは……」 「それくらい、俺のことが好きってことだよね?」 押し黙った千夜に、ギーは肩を揺らしている。 「いちいち恥ずかしがるのも可愛いけどさ。次に進みたいし」 愉快そうに笑いながら、ギーは陳列棚から一粒摘み上げた。 「ほら、ここ」 千夜の唇にチョコレートを押し付ける。 「ここにもキスしたい」 口の中に転がり込んできた一粒は、あっという間に溶けてしまった。 小さいとか、そういう問題ではない。 ギーの言葉に、千夜の全身はあっさりと熱に浮かされてしまうのだ。
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