ムスタとノワール
第一話 僕は飼われています

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 僕のご主人は物好きで、黒猫を二匹も飼っています。人間にとって黒猫は不吉の象徴なんだそうで、外で野良をしていた頃はあからさまに嫌がられたり追い払われたり、時には石を投げられることもありました。そんなとき、ご主人が現れて、傷ついた僕を抱き上げてくれたのです。 「かわいそうに。うちにきて」  ご主人の柔らかな胸に抱き包まれながら、安堵のあまり意識を手放してしまったことを覚えています。  ご主人の家はとても大きな建物の一室にあります。清潔で、ちょっと甘い匂いのする部屋です。ベージュのふかふかの絨毯と、灰色のキャットタワーがあります。窓の上には僕らの歩ける専用の道も取り付けられています。ご主人は猫想いの優しい飼い主です。  飼う飼われるの関係について、僕に教えてくれたのは先住猫でした。僕と似たような黒い毛並みを持っていて、少し年上のお兄さん。普段は無口で、ちょっと愛想がないけど、ご主人の膝の上でちゃっかりと、ごろごろ甘えていることを僕は知っています。  僕も甘えてみたいけど、後から来ただけあって、まだ少し遠慮してしまいます。 「ごはんよ」  今日の晩も、ご主人が呼んでいます。  僕は一目散にタワーを駆け下ります。野生の頃の習慣で、食事となるとどうしても遠慮がなくなってしまうのが僕の悪い癖です。  ご飯の味はちょっと淡泊に感じるけれど、絶対に同じ時間に食べられるし、食いっぱぐれることがないというだけで胸に染みる美味しさです。  僕の隣にも皿が置かれて、お兄さんがやってきます。一口、二口舐めるだけで、あとは澄まして立っているお兄さん。もっと食べないと、万一外に放り出されたときに困るのはお兄さんなのに。 「おいしい?」  ご主人は僕が食べ終えるまで、目の前にしゃがんでにこにこしています。優しい笑顔。記憶の底に埋もれたお母さんのような温かさを、ご主人からは感じます。 「そういうわけで、僕はご主人が大好きなんだけどさ」  夜中、ご主人が寝静まると僕たち猫は少しだけ話をします。といっても、いつも僕が一方的に話しかけているだけだけど。 「一つだけ、どうしても不満があるんだ」  お兄さんはキャットタワーの頂上でまっすぐに立っています。金色の丸い瞳を宙に投げたまま、まるで置物のように。 「この服、なんとかならないかな」  僕とお兄さんにはそれぞれ、お揃いの服が着せられています。毛並みと同じ黒の布でできた服は、部屋の中を自由に動き回るには結構窮屈なんです。 「お兄さんは長い間、よく平気でいられたね」  お兄さんは丸い眼を、じ、と僕に向けました。どこか寂しげな微笑をたたえたまま、微かにうなずきます。 「……わかってる、僕が慣れなきゃいけないんだよね」  服もお皿もお兄さんとお揃いで、爪研ぎやベッドは共用です。でも、文句なんて言えません。ご主人がいなければ、僕は今頃ぼろぼろになって、血まみれになって、雨風に晒されていたに違いないからです。  お兄さんもきっとそれがよくわかっていて、黙って従っているのでしょう。  ふいに、お兄さんがタワーからしゅっと飛び降りました。細身の体での俊敏な身のこなしは、本当に飼い猫生活を送っていたのか不思議に思うほど身軽で、お手本のように綺麗です。お兄さんは音もなくベッドに飛び乗ると、ご主人の枕元で身体を丸めました。  あっ。  眠るご主人の目と鼻の先に、彼がいます。お布団からちょっとはみ出たご主人の指先に黒い尻尾を重ねながら。  僕はまだ、そこに入っていくことができません。たぶん、ご主人は許してくれるだろうけど、なんというか、この光景を目にしてしまうとちょっと入りづらいんです。僕が来る前の絆とか、空気とか、そういうものを打ち壊してしまう気がして。  野生ならそんなこと考える前に自分の利益を優先するのだろうけど、残念ながら、僕の精神は着実に飼い猫のそれになっていました。  僕のベッドはキャットタワーの中にあります。暗くて狭くて、温かな毛布がふんわりと敷き詰めてある、ご主人手作りのベッドです。ここから顔を出すとご主人の無垢な寝顔が見下ろせます。  しょうがないから、もう少しだけ、二人にしてあげるね。  僕もベッドで丸くなりました。  毛布はご主人と同じ、微かに甘い清廉な匂いが染みついていました。僕は幸せな、ご主人の猫です。

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