ムスタとノワール
第九話 追憶 一

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 炎が差し迫っている中、死んだ猫の皿を抱えて突っ立っているなんて、傍から見たら滑稽に違いない。  墨で塗ったみたいに綺麗な毛並みに見とれて、気がついたらあの子を買ってしまっていた。我に返って慌ててマンションの管理人に確認したら、小型の動物なら飼育してもいいとのことだったので、店員さんと一緒に胸を撫で下ろしたのを覚えている。  あの子の体はまだ小さくほわほわしていて、抱き上げると骨を折ってしまいそうだった。家に上げて床に放したとき、おそるおそる一歩一歩慎重に歩きだす様が愛おしくて、涙が出そうになったなあ。  あまりに黒かったから、名前はすぐに決めていた。夜の闇、ノワール。ちょっとかっこつけすぎたかな。でも、賢いあの子にはちょうどいい響きだと思う。小さい間は子どもらしい無邪気さがあったけれど、成長するとすぐに落ち着いてしまった。その深い金の瞳に見つめられるとまるでこっちが保護されているような気分になった。  ノワールを家に迎えてからわたしの人生は一変した。仕事と家との往復しかなかった灰色の毎日が確かな意味を持ち、ほのかに色づいていったのだ。使うこともなく貯まっていた無意味なお金はあっという間に消えていき、ふかふかのキャットタワーや柔らかな絨毯、猫のベッドに猫のトイレ、猫の服、ボールや猫じゃらしなどのおもちゃに変わっていった。ノワールはその一つ一つをとても喜んでくれて、全部ちゃんと使ってくれていた。それでいて汚すことも壊すこともなかった。本当に、信じられないくらい賢い猫。わたしの相棒で、家族で……いや、それ以上の情がわたしの中にあった。ノワール自身は暑苦しくて迷惑だったかもしれないけれど、わたしは、ノワールが人間になって現れてくれないかなあなんて常に妄想して胸をときめかせていた。今思えば本当にバカな女だったと思う。いい歳して、何をやっていたんだろう。  そんな、ノワール病をこじらせていたわたしだけれど、現実の人間に好意を抱いてもいた。それは会社の別部署の先輩で、ある企画の際に一緒に仕事をしたことがきっかけだった。見た目もスマートで好印象だったけれど、落ち着いた話し声やさりげない仕草に強く惹かれてしまって、気がついたら恋に落ちてしまっていたのだ。。  先輩と同じ部署に大学時代から親しい友人のヨーコがいて、休憩時間が被ったときは一緒にお茶を飲みながら先輩の話題で盛り上がっていた。 「ちょっとコーヒーを淹れてあげるとさ、ありがとうって、何気ない一言なんだけど、あの人が言うとなんか良いよね!」  ヨーコの言葉にうなずきながら、わたしは寂しい気持ちを押し殺していた。羨ましかった。わたしは彼にコーヒーを淹れられない。かといって、缶コーヒーを手軽に渡せるような関係でもない。  そうやって落ち込んでいた矢先、ノワールが食べたものを盛大に吐き出すようになった。  その頃仕事が繁忙期に入っていて休みが取れず帰りも遅かった。猫は時々毛玉を吐くし、餌が合わなかったのかもしれない、とその程度に考え、餌を変えたり部屋を念入りに掃除するくらいしかしなかった。だけど便の排泄が細くなり見るからに元気がなくなっていったので、仕事の合間を縫って慌てて動物病院へ連れていった。そして、ノワールが重篤な腸閉塞を患っていたのを知った。なぜもっと早く連れてこなかったのか、と言われたときは、返す言葉もなかった。ありったけのお金を払って手を尽くしてもらったけれど、どうにもならなかった。ノワールはみるみる衰弱して、わたしのベッドの上で最期を迎えた。  その冷たくなった体を抱いたとき、まだ信じられない自分がいて、額を撫でたり頬を突いたり、いつも愛でるときの動作を一晩中繰り返していた。何かの間違いでぱちりと眼が開いて起きてくれるんじゃないか――ただ眠っているだけで、急に寝返りでもするんじゃないか――気づけば窓の外に薄く陽が照り始め、わたしの希望は打ち砕かれた。  落ち込んでいるわたしを追い立てるように、母からの電話が増えていった。内容はいつも同じ。「三十歳も近いのだから仕事ばかりしていないで、いい加減に結婚相手を見つけなさい」と。  昔から、女は結婚できなくちゃだめだと耳にたこができるくらい言われ続けてきた。教育というよりもはや洗脳に近い。母はわたしに落ち込む暇を与えなかった……「猫ですって? ペットなんて放っといてもすぐに死ぬのよ。いちいち気にしてどうするの」「次も買うの? どうせなら血統書つきのいいのにして、婚活に利用しなさい。そうやってムダなく使っていたら死んでも落ち込まないでしょう」……明らかに無茶苦茶な言い分だったけれど、わたしは母に強く逆らえなかった。内向的で消極的な性格故に、強く出る人に抵抗できないのだ。  あの時ムスタを拾わなかったら、悲しみと疲労に溺れて死んでいたかもしれない。  ムスタとの出会いは本当に偶然だった。職場のお局に散々嫌味を言われ、心が沈みきっていた帰り道、工事中の建物の近くに真っ黒な毛玉が落ちているのを見つけたのだ。それは黒猫の子どもだった。一瞬、ノワールが帰ってきたのかと錯覚してしまうほど姿形はとてもよく似ていた。  他の猫と喧嘩したのか、猛禽類に襲われたのか、近所の子どもにいじめられたのか――ところどころに怪我が目立っていたのでその足で病院へ連れて行った。治療が終わってから家に連れて帰り、そのまま飼うことを決めた。  もしかしたら死んだノワールがわたしのために会わせてくれたのかもしれない、などとお花畑な思考でムスタとの出会いを喜んだ。ムスタとはどこかの国の言葉で「黒」という意味があった。単純だけど、可愛らしい響きだと思う。  せっかくなのでノワールとお揃いの服を買ってあげた。少し窮屈そうな顔をしていたけれど、本当にかわいいので慣れてもらいたかった。そのうち、ノワールが乗りうつってくれているんじゃないかと思ってしまうほど似た顔つきをするようになった。だけど、二人の性格はほど遠いものだった。  ノワールはいつも冷静で穏やかで、貴族のシャム猫のような気品があった。一方ムスタは野生の癖が抜けないのか元気すぎるところがあり、おもちゃの扱いも乱雑でがっついていて、やっぱり二匹は別の猫なのだと痛感せずにはいられなかった。餌やトイレのしつけも大変だった。「ノワールはうまくできたのに」とこぼしてしまう時もあった。本当に、ひどい飼い主だと思う。それでもムスタは自分なりにちゃんと覚えてくれていて、気づけば立派な飼い猫になっていた。  ムスタが来たからといって、ノワールのことを忘れたわけではない。あの子を悼むために、いつ帰ってきてもいいように、餌の時間になるとノワールの使っていた皿を用意して、一緒に餌を盛ってあげていた。ムスタもこの時ばかりは行儀よく、隣の皿の餌に手を出すようなことはしなかった。  新たな猫との生活が始まり、わたしの心境は穏やかになっていた。だけどある日業務に致命的なミスが発覚し、職場の信用問題に関わるほどの惨事に発展してしまった。それはお局の指示を鵜呑みにしたために起こったものだったが、彼女はすべてわたしの独断と暴走だと言い張り、周囲もそれを信じた。よってわたしはミスの対応に追われ、信用を取り戻すために毎日余計に気を張り続ける生活が続いていた。  残業が度重なり、休日に休めなくなった。気力だけで電車に乗って帰り、家の玄関についた途端に脱力して、玄関マットに突っ伏してしまうこともあった。  そんなとき、必ずうちの猫が迎えに出てきてくれる。倒れたわたしを心配して、においをかいだり頬をすり寄せたりしてくれる。  限界を超えて疲れ切っていたわたしは、ぼやけた視界に見える黒猫のかたちが懐かしい飼い猫の姿に見えてしまうことがあった。優しくて穏やかで賢いノワールが、わたしを心配してくれている……だけど何度か瞬きすると、似ているがまったく違う猫なのだ。  その後もたびたびノワールの幻影を見た。だけどそれはすべてムスタの姿だった。わたしは何度もふたりを間違えてしまった。飼い主の錯誤をムスタが理解していたのかわからないけれど、本当に申し訳ないことをしたと思う。  バレンタインが近づいたある日、ヨーコが先輩にチョコを渡すと言い出した。わたしも買いたい――と一瞬思いはしたものの、職場での負い目もあり到底叶いはしないこともわかっていたのですぐに感情を引っ込めた。今思えばそれでよかったのだ。この後二人は結婚した。初めからわたしの入り込める余地などなかった。わたしはただの邪魔者だったのだ。  その事実がわかったときほど、自分の性格を恨んだことはない。ヨーコみたいに明るく社交的な性格だったら、お局に言い返せる強い精神の持ち主だったら、彼の隣にいる未来もあり得たかもしれないのに……そんな風に考えてしまう自分が惨めでならず、独りでいるとふさぎ込んでしまいそうだった。  大人になると人間はそう簡単に成長できない。自分の性格が災いを呼ぶとわかっていてもどうにもならない。母の執拗な電話に追い立てられるように、わたしは次の異性を探す羽目になった。といっても自ら動くこともなく、相手の方からやってきてくれた。それが部長だった。  本来、下っ端の下っ端であるわたしが近寄れる相手ではないけれど、残業続きのとき、給湯室で動かないポットを前に格闘していた部長と遭遇し、少し話すようになったのだ。自分用に買ったポットが潰れて泣く泣くやってきたものの使い方がわからない……とこぼす中年の男性がなんだかかわいらしく見えて、つい世話を焼いてしまった。それから残業のときはほぼ必ず給湯室で出会うようになり、ついにあるとき、休日デートに誘われてしまったのだ。  部長は独身で、誰に対してもスマートで優しくて、女子社員から人気があり、うちのお局たちも彼の話になると年甲斐もなく色めき立つほどだった。そんな人に誘われた、という事実がわたしを自惚れさせた。がらにもなく女性らしい服装をして、化粧も気合いを入れて、香水もいつもと違うものを選んだ。嬉しかった。わくわくしていた。うまくいけばもう母からせっつかれることもなくなるかもしれない、とまで思っていた。その夜、家で部長に押し倒されるまでは。

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