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 謹慎二日目、謹慎せず。  「やあ、夏生君。よく来たね」  「……どうも」  俺は朝から金魚屋へやって来ていた。  俺は一度も名乗っていないのに何故この女は俺の名を知っているのだろう。  内臓を弄り回されたこの怪しい店に来る気にはなれなかったけど、それでも沙耶はここに入って行った。  探さないわけにはいかないのだ。  「どうだい?ご飯とケーキは口に合ったかな?」  あの後逃げ出そうとした俺を引き留めて、この女は金魚柄の大きな紙袋を俺に寄越した。  さあさあと差し出されたのそれはずしりと俺の手を引っ張り、想像以上に重かった。  中を覗き込むとそこには大量のタッパーが詰め込まれている。ふわりと炊き立ての白米の香りがして、煮物や漬物、カレー、缶詰やら果物まで詰め込まれている。  この数年冷めたコンビニ弁当が主食の俺の喉がごくりと鳴った。  しかし今さっきあんな目に遭わされて食べ物なんて受け取る気にはなれない。  「……お気持ちだけ頂きます」  「おやおや!遠慮はいらないよ!気にせず持って行くがいいよ!」  ほらほら、と女は勝手に俺のリュックを開けて残しておいたコンビニ弁当をぽいぽいと捨て、そこにもタッパーを詰め込んでいく。  まるで登山者のようにリュックは膨れ上がった。  今まで詰め込むほどの物を持っていなかった俺はこのリュックってこんなに膨らむんだな、なんて事に感心してしまった。  「やあやあ、詰めすぎてしまったかな。でも男の子はこれくらい食べるだろう?」  「い、いりません。帰ります」  「いいから持っておいき。それにこれはね、と~っても有名なお店のケーキなんだ。きっと気に入る」  それでも受け取れないから何とか返そうとしたけれど、女はどこにそんな力があったのか、いいから持ってさっさとお帰り、と言って俺をぽいっと外に放り出した。  ここで扉のところにでも置いていけばよかったのだが、結局俺は誘惑に負け、タッパーが温かいうちに自宅に着いた。  あの店で貰った食べ物を見るのは怖い気がしたが、開けた途端に広がったその美味しそうな香りと温かさには勝てなかった。  タッパーにはおかずだけではなく白米も入っていて、ほかほかと湯気が立っていた。出来立ての柔らかい白米なんていつぶりだろう。  そのままずらりと並んだ温かいおかずに手を伸ばすと、見た目も香りもコンビニ弁当とは全く違う。  俺は耐え切れずにタッパーにぎゅうっと詰め込まれている肉じゃがをぱくりと口に放り込んだ。すると、甘辛く煮られていたじゃがいもはほくほくで柔らかく、まるで肉のソースだったかのようにとろとろに溶けて行く。  見た目だけじゃなく味もコンビニ弁当とは全く違い、確実に手料理だった。プロのような洗練された料理ではないが、温かみがあり心まで染み入ってくる。  ついさっきまで食べられないと思っていた事などすっかり忘れ、俺は次から次へとタッパーを開けた。  中には和食洋食中華など様々な料理が入っていて、肉や魚のメイン料理だけでなく、副菜や漬物、果物、水筒には味噌汁まではいっている。しっかりと一汁三菜のお膳にして一週間分はある。  日持ちしないものから食べていかねば、と俺は即座に献立を立てた。  お腹いっぱい食べられるだけでなく、女性の手料理でしかも美味しいなんて何という贅沢だろう。  「そういやケーキもくれたんだっけ。有名店ってどこだ」  ケーキすらろくに口にできない俺が有名店なんど知ってるわけもない。  それに今は手料理の方が嬉しくて、余り期待せずにケーキの箱を取り出した。  店名を知るために包装紙を見ると、それは聞き覚えのある店名だった。  人生で一度も有名店に触れたことの無い俺が知っているたった一つの有名店。  「ジャン=ポール・エヴァンの、チョコレートケーキ……」  沙耶が食べたがっていたケーキだった。  (絶対に偶然じゃない。この女は沙耶を知ってる)  人には見えず触れない金魚。  沙耶が逃げ込んだ金魚屋。  金魚屋が弔い、消えた金魚。    (この金魚は何なんだ。金魚の弔いって何だ)  だがあの時の内臓が引き出されるような恐怖を思うと、うかつにこの女に手を出してはいけないと本能が訴えてくる。  でもここで引いては沙耶への手がかりが消えてしまう。  どうしたらいい。  どくどくと自分の心音が耳につき冷や汗が流れたけれど、女はそんな俺をくすりと笑って身を翻した。  「さあて、僕は仕事に行くよ。君はどうするんだい?」  女は細長い和綴じの冊子を持っていた。  真っ赤で金魚の鱗のような地模様が浮かぶ起毛生地でみるからに高級品だ。  しかし気になるのは表紙だ。そこには金で『金魚帖』と型押しされている。  また金魚だ。  「ほらほら、どうするんだい」  「……付いて行ってもいいですか?」  「おお、ついに興味を持ってくれたのだね。よしよし、来るが良いよ」  わざとらしい。  その苛立ちからか俺は無意識に唇を噛んでいたようで、女がするりと俺の唇をなぞった。  白く細い指と金魚と揃いの赤に塗られた爪が恐ろしくて、けれどそれが女性の手である事に俺は顔が熱くなった。  「血が出ているよ。噛むのはお止め」  「っさ、触らないで下さい!」  女はふふと含み笑いをすると、何でも無いようにひらひらと指を遊ばせた。  そして動揺する俺なんか相手にならないとでも言うかのように背を向けスタスタと歩きだしてしまった。  (くそっ!何なんだよ!) *  女は金魚帖を片手にあちこちをうろうろと歩き回った。  やたらと信号機や電柱を見て同じところをぐるぐると歩くばかりで何をしたいのかさっぱり分からなかったが、金魚帖を覗き見てふと気づいた。  「……もしかして迷子になってます?」  「ええ!?どうして分かったんだい!?」  金魚帖には住所がずらりと書いてあった。  しかし地図は載っていないから住所を示す何かを探していたのだろう。  女がここに行きたいんだよ、と指差した住所を見て俺はスマホを取り出した。    「次の交差点を右ですね。もう一本向こうの通りを」  「へええ!君は賢いのだねえ!僕はこういうのはからきしなんだ!」  「はあ……」  たかが地図アプリなのに女は凄い凄いと目を輝かせた。  あまりにも無邪気な姿に毒気を抜かれ、警戒しているこっちが馬鹿みたいじゃないか。  よし行こう、と女は意気揚々と俺の腕を引っ張って駆け出した。  そして目的の住所に辿り着くと、女はいたいた、と何かを指差した。  「あれ、金魚……?」  「そうだよ。よしよし」  女は金魚帖でつんつんと突くようにして金魚の頬を撫でた。  すると、気を良くした金魚はふよっと飛び乗るように女の右肩あたりに身を置いた。  「そいつ、連れて行くんですか?」  「そうだよ。金魚屋だからね。さあさあ次へ行こう。次はここに連れて行っておくれ」  そして、同じように金魚帖に載っている住所へ向かうと金魚がいて、次も、次も、次も――……  そんな事を三時間近く続け、既にニ十匹以上の金魚を捕獲していた。  そうして日が暮れ空が金魚色になった頃、女はようやく帰ろうか、と言って金魚屋へ帰る事となった。  女の周りは金魚だらけで、長い髪に埋もれている金魚はまるで女を彩る美しい髪飾りのようだった。    女は大量の金魚を引き連れて例の葬儀場に入って行き、葬儀場に着くと金魚はうろうろと水槽の周りを泳ぎ回った。  この前一斉にいなくなってしまったから水槽はがらがらだ。  女は一匹ずつ水槽へ案内し、お前はここだよ、お前はこっちだ、とちゃんと振り分けているのを見るに何かの規則性があるのだろう。  「さあ全員決まったね。では水槽に入れるとしよう」  女が両手を広げると波が押し寄せたような感覚に襲われた。  そしてそれと同時に、俺は足に枷が付いたように足が重くなり、そのまま水槽へ引きずられるように転んだ。  「な、何だ!?何!?」  「おお、いけないいけない」  「……は?何?」  女がぱっぱっと俺の足を叩くとふっと軽くなった。  一体何だ。何が起こったんだ。  見回すと、さっきまでいた金魚達はすっかりいなくなっていた。  その代わり水槽にはニ十匹ほどの金魚が収まっていた。さっき連れて来た金魚達を入れたのか。  だがおかしい。  この水槽は天井まで続いている。横から開ける場所なんて無いのにどうやって中に入れたんだ。  「あの……どうやって入れたんですか……?」  「すいっとね」  「俺の足、何か、今、引っ張りましたよね」  「そういう感じですいっとね」  まさか、あのまま引っ張られていたら俺もあの金魚と一緒に水槽に入れられていたのだろうか。  何のために?  女を見てもにこにこと微笑んでいるだけだ。  「……この金魚……何なんですか……?」  水がきらきらと光っている。  水の中で赤い宝石のような金魚が光っている。  女の瞳に赤い光が反射する。  そして女は、いつものように大きな身振りで水槽を背負うように手を広げた。    「金魚は魂。未練を残して死んだ人間の魂さ」  女の瞳はぎらぎらと光っていた。

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