PYG
その3

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〈小百合〉  「ジーザスさん、私苦しい。彼に虐待を受けているの。体中あざだらけよ。それでも私、彼のことが好きでたまらないの。彼に殴られるとその時は憎くなるけどそのあざが愛しくてたまらないの。もっとぶってって思う。もっと蹴ってって思う。でも殺したいほど憎いのよ。その葛藤で私、変になりそう」  今夜も新たな訪問者が来た。 〈ジーザス〉 「小百合さん、ようこそ。人間心理の迷路に迷い込んだようだね。あなたの苦しみは快楽も混ざってごちゃごちゃに入り組んでいるんだね。根本的な解決には彼と別れるかしかないね。でも別れられない。彼が問題じゃない。あなたの心が病んでいるんだ。たとえ彼と別れられてもあなたはまた同じような関係を持つだろう。実はあなたがそれを望んでいるんだ。呼び寄せているんだよ」 〈小百合〉 「そんなの分かっているわ。私は自分に処罰を与えたいのよ。腕じゅうリストカットしてもうするところはないわ。乳房まで傷つけているのよ。無数に痕があってあとは乳首を切り落とすしかないわね」 〈ジーザス〉 「ほう、ご機嫌だね。ねぇ、彼から一時避難しないか。うちは富士の麓で養豚場を経営しているんだ。一度来てみないか。もちろん、働かせるつもりなんかないよ。おいしい豚肉をたらふく食べさせてやるから」 〈小百合〉 「からかっているの! 私がこれほど苦しんでいるのを茶化しているのね。私を苦しめて楽しい? 切り取った乳首を送りつけてやろうか」 〈ジーザス〉 「おいおい、興奮しないで。壮大な自然の中で安らげばそんな気持ちは起きなくなるよ。毎日、目の前に富士山が見られるんだぜ。世界遺産にもなったしな。そんな事はどうでもいいが。心の病には何と言っても肉だな。薬なんて飲んでも治らないよ。あれは医者と製薬会社を利するためにあるんだからな。肉の中でも牛肉よりも鶏肉よりも豚肉が最高だ。あなたはお客さんだ。歓待するよ、仲間もいるしね。といっても今のところ一人だが。前はもっといたんだが知らぬ間にいなくなるんだ。不思議だね。きっと心身ともに回復したから帰ったんだね。私の方は何の礼もいらないし逆に嬉しい限りなんだけどね」 〈小百合〉 「富士山の麓? へぇ、そんな所で豚を飼っているんだ。奇特な人だね。豚は臭いでしょ。私、臭いの駄目なんだ」 〈ジーザス〉 「養豚場とは離れた別の建物に私たちは住んでいるんだよ。豚の臭いなんて風の便りにもないね。あなたは豚肉を食べるだけだ。後は好きなように過ごしてくれればいい。富士五湖だってあるしね。案内してやるよ。間違っても富士の樹海に入らないでね、迷い込む人もいるんだ。うちに来た人がいなくなったのは樹海に迷い込んだからかなぁ」 〈小百合〉 「私は樹海なんか入らないわ。あんな所で腐って獣に食われてたまるもんですか。私はきれいな死に方をしたいの。睡眠薬を大量に飲めば死ねるわ。飲む直前にね、友達に一時間後にメールが送信されるようにスマホをセットしとくの。そうすれば完全に死んだ状態で、しかも腐ることなく発見されるでしょう」 〈ジーザス〉 「小百合さん、まだ若いんでしょ。若いみそらで死ぬことないよ。あれ、この表現、死語か。私の年がばれるね、ちなみに私は立派な中年のおじさんだ。従業員も汚いおじさんが三人いるだけだ。君と同じような若いお客さんが一人いるけどね。どうだい、来てみないか。富士宮から一時間弱かかる所に養豚場があるから、駅に着いたら電話してね、お迎えに上がるから」  それから一週間ほどして小百合は富士宮駅に立っていた。電話すると、駅前の食堂で豚丼を食べて待っているようにと返事があった。うまい豚丼だった。本当に毎日、豚肉を食べられるのか? 一時間ほどして一台のバンが来た。降りてきた中年の男が小百合に近づいて言った。 「ようこそ、世界遺産、富士山へ。今日は天気がいいから、ほらあんなにきれいに富士山が見えるよ。馬鹿な彼氏と離れてくつろいでね。豚丼はおいしかったかい。あの店はうちの直営なんだ。うちの豚肉はうまいだろう」  小百合は『加藤養豚場』と書かれた作業着を着ている男をださいと思った。豚臭いんじゃないかと思ったが不思議と臭いはしなかった。小百合は加藤の車に乗って養豚場に向かった。 「ねぇ、この車もあなたも豚臭くないわね。なんで? 一日中、豚にまみれているんでしょう」 「今ではもう作業はおおかた従業員にやらせているからね。ここが軌道に乗るまでは豚にまみれていたよ。でももう今は主に経営の仕事に専念しているんだ。私は人に使われるのはまっぴらご免だが、人を使うのは好きなんだ。人をはべらすのが好きなんだ。彼らは私から見ればわずかなお金で忠実に働くからね。ご飯も豚肉もタダでたらふく食べさせているよ。住居もタダで住まわせているからね。うちは福利厚生が万全だ。私は笑顔で彼らを支配しているんだ。強制じゃないよ。しかし彼らは私に洗脳されている。私の命令には逆らえないようになっている」 「命令って? 怖いわね。まさか私を支配しようとしているんじゃないでしょうね。私はね、どんな信仰からも自由なの。無信仰なのよ。神様大っ嫌い。私を支配するのは私なの。誰の命令も受けないわ」 「へぇ、それにしては彼氏と泥沼にはまっているように見えるけどね。あなたは自分という牢獄に囚われているんですよ。あなたは自分が自由にならない。自分とはね、飼いならさなければいけないんですよ。豚を飼うように賢くね。自分というだだっ広い荒野に草を育てて豚を飼うように自分を飼うんですよ」 「豚扱いか、ひどいわね。あなたは何でも豚に結びつけるんじゃないの? 毎日豚まみれになっている証拠よ」 「ははは。そういえばそうかね。だが私はあくまで経営者だ。労働者じゃない。経営者の頭で豚を見ている。ぶひぶひいう豚の面倒を見ているのは従業員だ。彼らはまさに豚にまみれているよ。一日中ね。社長室には決して入れさせない。業務命令はスピーカーから流れるようになっている。彼らが私に接する時は風呂で体中きれいに洗ってからにしている。だがね、うちの豚舎は近代的に洗練されている。一昔前とは大違いだ。でもね、餌代が馬鹿にならないんだ。本当に豚は一日中食っているからね。限界を知らないんだ。豚には食いすぎるということがないんだ。食ったら食っただけ肥えるだけだ。肥えた豚は出荷されるのも知らずにわき目も振らずに食って食って食いまくり栄養をつけ良質の豚肉になっていくんだ」 「あなた、それだけ豚を殺したら、生まれ変わったら豚になるわよ。そして人に食われるんだわ。もし人に生まれたとしてもひどい畸形になるわ」 「あれ、あなた仏教徒なの? ヒンズー教か、よく知らないけど、さっき、無宗教だって言ったよね、あなた無宗教の意味がよく分かってないな。無宗教とはねこの世が無意味っていうことで、死んだら無になるっていうことを骨の髄まで理解してなきゃならないんだよ。生まれ変わるなんてたわけたことを言っているようじゃ無宗教とは言えないな」 「あら、話のたとえよ、私だって死んだら灰になるだけだってことはよく理解しているわ。心なんて脳の機能だもんね。心が死んでも存在するっていう人いるけど笑えるわ。脳が灰になれば心なんて消えてなくなるのよ」 「あなたね、この世は実体のない夢のようなもんだということが分かりますか。存在と無は決して相容れないもんなんですよ。物理学者の馬鹿どもが無から存在が生まれることを受け入れると発狂するから、無にいろいろと新たな解釈をしているでしょう。でも無は無なんですよ。何もないのが無なんだからね。時間も空間も法則も何もないのが本当の無であって無から決して存在が生まれたりしない。だから今、存在しているように見えるこの世は夢なんですよ。だから私、面白くってね。人々があたかも本当に存在しているように振舞って憲法やなにやらをこしらえて検事や弁護士が裁判なんかして社会を作っているのが愉快でたまらなく思えるんですよ。物理学者だってね、生物学者だって、何でもいいけど科学者っていうのは、この世という存在の亡霊を研究してますけどね。究極のところは分かるはずないんだ。『何故?』という問いにはね。生物学者がね、細胞を初期化したって騒いでノーベル賞をもらったりしているけど、そんなの細胞が元から持っている性質を発見しただけでしょ。その辺に転がっている石を拾ったようなもんだ。そんなんでノーベル賞か、安易な世界だね。くだらない。良質の豚を育てる方がよっぽど難しいし社会に貢献している。幹細胞が世の中を変えるっていうのは分かる。でも世の中変えてどうするんだ。どうしたって人は死ぬんだ。亡霊のようなこの世はいずれ消えるんだ。ふっとひと吹きかけただけでシャボン玉が壊れるようにね」 「へぇ、養豚業者がそんなこと考えるんだ。豚を飼うだけじゃないんだね。私だってこの世がどうなろうと知ったことじゃないわ。あと何十年かで死ぬし子供を残すつもりもないしね。私がこの世に存在した証なんて跡形もなくなるわ。もともとそんなもんなんてないしね」 「それはいい、子供は産むべきじゃない。あんたの業をそのまま受け継ぐんだからね。この世は苦しみに満ちている。そんな世に可愛い子供を産もうなんてね。人は何のために生まれ、何のために生き、何のために子供を残し、何のために死ぬのか、何も分かっていない。馬鹿な動物さ。その辺の黴菌と何ら変わりない。霊長類が笑わせる」  加藤は運転席でげらげら笑った。それに何十年も生きないさ。  そのうちに車は養豚場に着いた。  小百合は案内されて部屋に入った。眼前に富士山が見える、絶景だと思った。別の窓からは豚舎と見られる建物が離れた場所にあった。友人に携帯しようとしたが圏外になっていた。  しばらくしてドアをノックする音が聞こえた。加藤と研二が部屋の前に立っていた。 「こちら、研二君、勉強家でね。三浪してまで医者になろうとしているんだ。偉いね。受かる見込みもないのに」  小百合は研二を見て、若いな、あどけないなと思った。社会のこと何も知らないんだろう。これから経験して苦しむんだろうなと思った。でも医者になれれば患者を治すという目的があるから案外悩まないのかもしれない、専門馬鹿でずっといられる。患者に感謝されればそれなりの存在意義があるかもしれない。そうだ、自分の存在に悩まないのが一番だと思った。  研二は加藤の言葉に傷ついた。加藤という人は真面目なのかふざけているのか分からないところがある。そういう人間は自分の短い生涯では見たことがなかった。愛想はいいが心の奥に底知れるものを抱えているような気がした。心の姿は目に映ると信じていた。加藤は自分の目を見て話すことはあまりないが、時折、見つめる時は何か心の底をえぐるような眼差しだった。殺意といっていいか分からないが、それと似た何かを感じとれた。  加藤は小百合に豚舎を見学するかと言った。小百合はまっぴらご免だと言った。 「あなた、これから毎日おいしい豚肉をたらふく食べられるんですよ。豚の生きている姿を見ておくのもおつじゃないですか。私はね毎日、豚に供養をしているんですよ。石碑だって立てているしね。でも私が豚を殺しているわけじゃない、殺しているのは出荷先だ。私は生まれてこのかた豚肉を一切れも食べていないんですよ。豚肉に限らず動物の肉っていうものをね。子供の頃は可哀そうだと思って食べられなかった。もちろん給食の肉を噛んだだけで吐き出してしまうほど体が受け付けなかったせいもあるけどね。涙が出るほど嫌いなんだ。肉っていうのがね」 「豚肉屋のくせに情けないわね。あなた殺してないって言っても間接的に殺しているのよ。それも大量にね。豚には神様がいないだろうから何だけどいたら呪われるわよね」 「あなた、そんな事を言い出したら人間はみな間接的に豚を殺している。当たり前にね。前にテレビで食レポというのを見て、若い清純そうな女性がにこにこ笑って豚肉のステーキを食ってやがった。あいつらみんなただで食ってるんだろう。卑しい奴だ。豚にたかる蠅みたいなもんだ。女っていうのはみんなそうだ。矛盾の塊だ。いまに嫌っていうほど説明してあげるがね。女の喘ぎ声と悲鳴は区別がつかない。女は嫌といいながら男を誘って惑わす。入れてほしいくせに股を閉じる。結局、男の前で大股を開くんだけどね。性器が入ったら自分から腰を振ってぶひぶひ言いながら喘ぎ声ともつかぬ悲鳴を上げる。下卑た存在だ。今日はこの辺にしてあげるがね」 「あなた女のことでトラウマがあるんじゃないの。女からしたら男だって同じようなものよ。はあはあ言って喘ぎながら大汗かいて腰を振って女の中に精子を吐き出すのに懸命になっている。馬鹿みたい。だから互いに誤解しあい、憎しみあいながら生きていくしかないんだわ。そうねぇ、豚を見に行こうかしら。気が変わったの。案内してくれる」 「もちろん、私が愛する可愛い豚を見に行こう」  加藤と小百合は豚舎に向かった。彼女は辺りに豚の臭いがしないのを訝った。加藤はそれは最新式の防臭システムを備えているからだと言った。しかし豚舎の扉を開けるとむせ返るほどの豚特有の悪臭が満ちてきた。 「うわー、嫌だわ、体中臭くなっちゃう。服も汚れるわ」 「大丈夫なんだよ。よく大きな大学病院で特殊な風を受けて無菌状態になってから無菌室に入るじゃない。あれに似た装置が出口に備えられているからね。臭いに特化した機能も付加されている。あの中で五分いれば何の臭いもしなくなるよ。従業員には使わせないがね。私とお客さんだけだ、使えるのは」 「へぇー、そうなんだ。でも早くここから出たい。肥えた豚がぶいぶいいっているだけじゃないの。何頭いるの、見当もつかないわ」 「見た通りの数さ。今日のバーベキューでどの豚食いたい?」 「みんな同じに見えるわ。区別なんてあるの?」 「どれも最高級の豚さ。うまいぞ、肉汁が。噛むと滴るようだぜ」 「あら、豚肉を食べなかったんじゃないの? あなたの話はあまり信用できなさそうね」 「ふふふ、いいんだ、いい加減な人間だからね、私は。まああなたには栄養つけて静養して帰ってもらうさ。あなたが帰りたい時にね。これまで自分で『帰りたい』と言った人はあまりいないがね」

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