PYG
その6

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 養豚場に着くと小百合を監禁した建物に車を横付けして藤田アナを抱きかかえて部屋に入った。そして横たわった彼女をしばらく見ていた。何という清純そうな顔をしている。スタイルも均整がとれていて魅力的な体だ。やがて飽きると彼は平手で彼女を叩いた。起きないので何度も叩く羽目になった。やがて彼女は眼を覚ました。 「うぅ、ここはどこ? あなたは誰なの?」  彼女はおびえた声で言った。 「ここは『加藤養豚場』で私はそこの親父だよ。あなたがおとなしくしてればここから出してやるんだけど無理かもしれないな。あなたは泣いて騒ぐだろうし助けを求めるだろう。それはちょっと困るんだな。静かにしていれば富士山の絶景を見ながら露天風呂に入り、たらふく豚肉を食べさせて、この世の極楽を味あわせてあげるんだけどな」 「あなた、こんな事してただじゃ済まないわよ。私をここから出して帰して。大騒ぎになるわよ。今だって局内では騒ぎ出しているかもしれない」 「あなたの行方は分からんなぁ。ずっとここにいてもらうよ。夕方は毎日バーベキューで豚肉のステーキが振舞われるよ。新鮮なジューシーでとろけるような豚肉さ。あなたに食レポしてもらおうかな」 「……ここから出してくれるの?」 「あなた次第さ、騒がないって約束してくれれば養豚場の敷地内に限り自由な生活をしてもらうよ」 「ここにいるのはあなた一人じゃないわよね」 「そうさ、増減はするけど数人の人がいて働いているよ」  純子は押し黙った。しばらく静かにしていればいい。この男は外へ出すかもしれない。そうすれば……。 「地上の極楽はどこにあるっていったら、ここにあるのさ。人間は本来、食って寝ていれば幸せなはずだからね。それに加えて富士山と露天風呂があれば何もいらないだろう。健康で文化的な生活を保証するよ」  加藤はそう言ってドアから出て行った。  純子の心の中は不安でざわめいていた。今、何時頃なんだろう。上の方にある窓から日差しが差し込んでいる。出社していないことで自宅に電話しても連絡付かない状態だろう。もっと時間が経てば大騒ぎになるだろう。だけど今はどうすることもできない。同僚の顔が次々に浮かんできて彼女は泣いた。とめどなく流れる涙は美しい顔を濡らした。彼女はそれから数日、焦りと動揺の中で過ごした。それでも腹は空いてくる。三度三度食事は運ばれた。最初は手をつけなかったが、数日たって熱々のステーキを前にすると心が揺れながらも一口食べた。おいしい、今まで食べたことのない豚肉だと思った。それから毎日、食事を食べた。ステーキばかりじゃない、和食も野菜料理も出された。体力を付けなければと彼女は思った。逃げ出す時のために。  そしてついにその時が来た。 「藤田アナ、純子さんって呼ぶね。おとなしくしていたからこの建物から出してあげる。夕食はいつもバーベキューでステーキなんだ。今、焼いているよ」  加藤はドアを開いた。純子は開いたドアに突進して外に出た。駆けながら周囲を見ると五メートルくらいの塀が広大な敷地に張り巡らされている。バーベキュー場の周りには人が数人いる。彼らに助けを求めれば何とかなるだろう。彼女は彼らに接近して大声で叫ぶように訴えた。 「すいません! 私は藤田純子と言います。アナウンサーをしています。ここに誘拐されて閉じ込められました。救出して下さい、協力して下さい」  彼女は男たちの服をつかんで、助けて下さい。助けて下さいと言った。すると彼らはその手を振り払い彼女の体を強く押した。彼女は後ろへ倒れそうになった。彼女は頭の中に疑問符がついたまま次々と男たちに駆けよって助けて下さいと言った。男たちは「うぅっ」と唸りながら彼女をはねのけた。 『何なの、これはいったい! 何故?』  彼女は座り込んでしまった。彼らは共犯者なのかという絶望が頭をよぎった。周りを見渡した。他の男たちとは明らかに違う様子の若い男が目に入った。彼女は立ちあがり彼に近づいた。 「ねぇ、助けて下さい」彼女は半信半疑で聞いた。 「……僕に聞かれても……。僕には何にも出来ない。力がないんだ、役立たずの人間なんだよ。僕も帰してもらえないかもしれない」 「えぇ、何を言ってるの。どうかしているわ。外との連絡は取れないの?」 「携帯はつながらないんだ。もう諦めたよ」  研二はため息をついた。彼がここに来てから、知らない間に人が二人いなくなっている。あの人たちは帰ったのだろうか。彼は流されるままに毎日を送っていた。もう勉強にも家族にも世の中にも辟易していた。あんなところに二度と帰りたくない。彼の心は真綿で首を絞められるように加藤の支配下にあった。もうどこにも行きたくない。 「一緒に逃げましょう。急いで、目を覚まして!」  彼女は彼の袖をつかんで揺すった。しかし彼は揺すられるままになっている。 「どうかしているわ、ここは監獄なのよ、生きて出なければならないの」  彼女は説得した。しかし彼は顔を背けた。どうすればいいのか、彼女はまたしゃがみ込んだ。ステーキの芳しい匂いが鼻をつき、腹がぐぅっと鳴った。  彼女は加藤の横に一人の女性がいることに気付いた。今まで眼に入らなかった。彼女に駆けより、助けて下さいと言った。だがその女は白目をむいていて純子の言葉が聞こえているのかもどうかも定かではない。 「うえぇっ」と女は呻き体を震わせた。  この人たちを頼れない。どうすればいいの、どこから逃げればいいの。彼女は立ちあがり門に向って駆け出した。頑丈そうな門だ。鍵らしきものはない、電子キーか虹彩認証システムか。彼女は無理と知りつつも扉を叩きながら大声で助けを呼んだ。何の返答もない。彼女の心を絶望がよぎった。居場所がない、私の居場所はここではない、テレビカメラの前よ。あの世界に戻らなきゃ。  すると加藤がゆっくりと純子に歩み寄った。 「分かったかい。自分の現状を。諦めるしかないな。ステーキを食ってまたあの建物に戻るんだ」 「嫌よ、戻るわけないじゃないの。あなたの指図は受けないわ。今頃私を大捜索している。大変なニュースになっているわ。ここもやがて警察が来る。時間の問題よ」 「へぇ、警察ねぇ、来ないだろ、こんな山奥に。来たって適当に応対すれば中にも入って来ないよ。警察も忙しいからねぇ。まぁ、一回くらいは来るかもしれないけどね。全国民が注目している事件でも全国をもれなく探せるわけじゃないからね。何年かかるんだろうね」  彼女は加藤を睨みつけた。彼はあくびをしながら言った。 「まぁ、ご勝手に、その辺で地べたに寝ればいいよ。食事はあの建物の中にしか運ばないからね。飢えて死んでも知らないよ。今は春だけど夜はけっこう冷えるんだ。体を壊さないでね。楽しみがなくなるから」  彼女は門の下に座り込んだ。意地でもあの中に入らない。入ったら最後、それこそ出られなくなるわ。彼女は夜が明けるのを待った。あぁ、職場の皆さんは心配しているだろう。無事に帰らなければ。頭を不安が駆け巡った。視線を上にあげると天空は星々で覆い尽くされていた。東京ではこんな星空は見られない。  朝日で目を覚ました。いつの間に眠ってしまったのか。あれほど緊張していたのに寝てしまった。彼女は不覚を恥じた。豚の鳴き声が聞こえる。でも豚特有の臭いはしない。建物は彼女が閉じ込められていた場所を含めて五棟あった。何かあのサティアンを思い起こさせた。敷地内には木々が生い茂り、殺風景ではなかった。人の気配がない。腹がまたぐぅっと鳴った。胃酸が逆流するようで気持ちが悪い。どうしたらいいのか、彼女は考えを巡らせた。だがどうすることも出来ない、待つしかないのか。上空をヘリコプターでも飛んでくれればいいのだが。何の手がかりもないだろうに、富士山の方まで来るだろうか。うかつだった。あの柔和そうな笑顔に騙された。深夜だったのだから警戒しなければならなかった。タクシーで帰ればよかった。でも最終のバスで帰ることは何回かあった。反省会やら、残業やら、雑用で新人クラスのアナウンサーは忙しいのだ。  彼女は立ち上がって辺りを探り始めた。人っ子一人いなかった。建物の入り口は施錠されていて開かなかった。昼中歩き回って疲れ果て夕方になると再び元の門の下にうずくまった。するとしばらくして豚の鳴き声がする豚舎らしき建物から男が出てきた。彼女は駆け寄っていった。 「あなた、テレビのニュースで見たでしょう。大事件になっているでしょう。お願いだから私を逃がして」  男は何も話さずに振り払った。 「ねぇ、あなたも共犯になるのよ。捕まったら刑務所行きよ、何年も出られないわ、あの加藤という男に騙されているのよ、自首すれば罪は軽くなるわ」 「おい!」と後ろで鋭い声がした。 「甘いな、つくづく甘いんだ、けっけっけ。刑務所で何年かすれば出られるって。刑務所はな、死刑になるために入るところだ。誘拐なんてちゃちなことで私が満足するとでも思うか? 行き着くとこまで行かなきゃならないんだよ、こういうことは」  加藤が強い口調でしかも笑いながら言った。  男たちが何人も建物から出てきてバーベキュー場に向かった。彼女は取り残され泣いた。  それから二週間余りが経った。彼女は門の下でふらふらになっていた。頭の中に浮かぶのは食べ物のことだけだった。飢えていた。あそこへ行けば食べられる、そのことだけが強迫観念のように頭の中に渦巻いていた。彼女は夢遊病者のようにゆらゆらと歩き始めた。入ってはならない、いや少しくらいいいだろう、また出してもらえる、という考えが薄れゆく意識の中で争っていた。彼女は建物の前に立った。すると入口が開いた。焼きたてのステーキの匂いが漂ってきた。彼女はたまらずそこに入った。すると突然、扉が閉まった。彼女は振り向いた。しかし何も考え付かなかった。建物のいつもの場所に豚肉のステーキが何枚も置かれていた。彼女は駆け寄りむしゃぶりついた。ひどい空腹の後に肉を詰め込んだので少し吐き気を感じながらも食べに食べた。一息ついて彼女は寝た。しばらくして起きると建物の奥の方に扉があるのに気付いた。あんな扉あっただろうか、扉を開けると目の前に富士山がそびえ、大きな露天風呂があった。出られると思って駆け出し十メートル走るとガラスに頭をしたたか打ちつけた。この湯気にも関わらず曇らないガラスが前方を遮っていた。彼女はガラスを叩き、その辺にある桶なんかをガラスに投げつけた。しかしガラスは傷一つ付かず、びくともしなかった。彼女はまた茫然とした。彼女はふと自分の臭気を感じた。もう何日も風呂に入っていない。湯気に湿ったから臭いが湧き出てきたのだ。耐えきれなくなった彼女はガラスの端から端まで歩き、人目がないのを確認すると、服を脱ぎ、露天風呂に飛び込んだ。しばらく温まるとシャワーと鏡のある所まで泳いで行った。お湯からあがるとタオルに石鹸を泡立て体をごしごしと洗った。特に汚れた性器と肛門をよく洗った。  きれいになった体で再びお湯につかった。温かさが身にしみる。満腹になり目の前の富士山を見ていると瞬間的に幸福感を味わった。あの飢えと不安が嘘のようだ。そしてすぐに我に帰った。あれは現実なんだ。

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