PYG
その13

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 研二は警察の車で帰った。  母の妙子が心配そうな顔で迎えた。彼は少し疲れた様子だった。自室に入ると、頬杖を付いて考え込んだ。 『あの養豚場で消えた人たちは殺されたのだろうか。どこへいった。何故、僕を解放したんだろう。藤田アナの目撃者だと言うのに。彼女の必死な表情が頭から離れない。この問題を放置して医者になっていいのか。だいたい人の生死をどうでもいいと思っている人間が医者になれるのか。だが頭の中でどう思っていようと医者は医者の仕事をすればいいのだ。人を殺そうと思っている人間は無数にいるが、実行する人間は極めて少ない。実行しなければ罪にもならないし罰せられないんだ。不条理だ。イエスなら殺そうと思った時点で罰するだろう。イエスは人を愛した。しかし人に実に厳しかった。だから磔にされたんだ。人は矛盾の塊だ。人は矛盾を生きていくしかない』  しかし彼は体が小刻みに震えていることに気付いた。何なんだ、この震えは。彼はベッドに横たわった。だが震えは止まらなかった。俺の心と頭が矛盾している。真逆のことを考えている。だから震えているんだ。彼は混乱して頭を抱えた。黙っていればいい、墓場までこの秘密を持っていくんだ。誰のために? 自分のため以外にない。加藤を守るためではない、自分を守るためにだ。どうせあの空間では何もできなかった。誰も助けられなかった。いや彼は助けようとも思っていなかった。彼は無能と思われて人生を生きてきた。落ちこぼれが医者になるってよ、馬鹿にされ続けた。彼はしかし自分自身を無能だと認めることは出来なかった。しかし彼はこのことを含め、あらゆる場面で無能を露呈してきた。この過去を封印するのだ。封印したい。 彼は現実が見えていなかった。  彼はいつしか眠っていた。藤田純子が掴みかかってきた。助けて、お願い助けて! 彼の体を揺さぶった。この能無し、卑怯者。彼は体中に冷や汗をかいて目を覚ました。彼女の手の感覚が残っている。  彼はそれから毎晩、悪夢にさいなまれた。勉強どころではなかった。ベッドから起き上がって立ち上がるのも難儀になった。彼は再び引きこもり母親が料理を部屋の入口に置くようになった。這うようにトイレに行くと便座から離れられなくなった。食事も喉を通らなくなり肥満していた体は一気に二十キロ落ちた。神経が参っていることにも気付かなかった。そのままの状態で一カ月が過ぎた。彼は極度に疲弊し、体重はさらに減り、目が落ち窪んでいった。見かねた母が精神科に連れていった。彼は診察室に一緒に入ろうとする母を止めた。一人だけにしてくれ、そう言った。  温厚そうな医師だった。 「どうしましたか」  彼はいきなり机に突っ伏し泣いた。 「悪夢ばかり見るんです。もう一カ月以上も」 「どんな夢か、教えてくれるかな」 「夢じゃないかもしれない、亡霊です。亡霊が僕にまとわりついてくるんです」  彼はそういうと再び肩を震わせて泣いた。 「何が原因か分かるかな」 「僕が女の人を見殺しにしたからです。結果的にそうなってしまった」 「どういうことか話してくれる」 「助けてくれっていう女の人を僕は無視した。僕が救えば助かったかもしれない。僕は無能な人間だから何にも出来なかった」 「どんな女の人?」  彼は言葉に詰まった。黙りこくった。 「そのままでいいと思っている? あなたがそれを解決しなければ何も変わらないよ」  だが何も話さなくなった。  医師は彼の様子を見ていった。 「君は罪悪感を感じているかもしれないが、状況的に助けられなかったんじゃないの、あなたが全部背負うことはないと思うよ」 「僕は医者志望なんです。でも僕は人が死んでもいいと思っている。こんな僕が医者になってはいけない。もう何年も浪人しているし、こんな状態では来年も受からないかもしれない」 「あなたは本当に人が死んでもいいと思っているの、身近な人のことを考えてごらんなさい、おかあさん、死んでもいいの、あなたに心配して付いてきてくれたね」 「悲しむと思います。つらいと思います。でもそれも一年も経てば終わる」 「そうかな、僕は十五年前に母を亡くしたんだけどいまだに後悔して泣くことだってある。自分のせいで母は亡くなったんだと思っている。母は晩年、大病を患ってね、僕は学生の頃、大きな事故を起こしてね、それで母を悲しませ、周りにも大変な迷惑をかけた。償いようのない事故だった。でも大病が発覚する前まで、そんなに悲しませたことをすっかり忘れてしまい、僕はすごく母と仲が悪かった。毎日怒鳴り合っていた。ある日、お尻から血が出るのよって母は言った。僕は自分が若いころから痔を患っていて、時には和式トイレを真っ赤に染めてしまうことがあったから、痔だろ、大したことないよって言った。それから三カ月くらいして母は、前から血が出るのよ、と言った。僕はそれはおかしいと言った。母はいいのよ、と言って医者に行こうとしなかった。母は我慢してしまう人だった。自分さえ我慢すればって生きてきた人だった。戦争を経験した人だったからね。それから前から後ろから大量に出血した。さすがに医者に行ったが末期の直腸癌だった。僕は自分が殺した、と思った。母に対してつらく当たっていたことから母はいつも泣いていた。それで癌になったと思った。医学的にはストレスが直接、癌になるということは証明されていない。でもいつも一緒にいた僕が早く気付ければ母が手遅れになることはなかったんじゃないかと今でも思っている。いついかなる時もその後悔はあるんだ」  研二はじっと聞いていた。話は心に染みわたった。 「あなたがその女性を助けられなかったことは一生あなたを苦しめると思いますよ、今、話してくれれば苦しみは少しでも軽くなると思う。誰を助けられなかったのか教えてくれませんか。友人ですか、恋人ですか」  研二は決心したように言った。 「先生も多分、知っている人です。テレビに出ている人です……」  医師は静かに彼を見守っていた。 「あの人です。だめだ、言えない」  医師の目が光った。 「あなたが真相を明かすことしか状態は良くならないと思いますよ。あの人って誰のことです?」  彼は観念したように言った。 「……藤田純子アナウンサーです」  医師は頷いた。 「それは警察に連絡しなければいけなくなる。僕から電話しようか、自分で警察に行きますか?」 「自分で行きます」 「そう、無理なようだったら、僕の方から連絡するからね。今日中に行けますか。これを持って行きなさい」  医師は名刺を渡した。  彼は頭を下げた。 しかし、彼が連絡したのは加藤にだった。 「加藤さん、研二です。養豚場で藤田純子アナウンサーに会ったことを警察に言います。お世話になったのに申し訳ないです。葛藤しましたが限界です」 「いいんだよ、君を解放した時点でこうなることは覚悟していた。君には何の罪もない。しかし五日間待ってくれ。こっちも準備がある」  精神科の医師はその夜、彼が警察に行ったかどうか電話してきた。 研二は、行きましたと答えた。 彼はその五日間、苦しみ抜いた。時間が経つのが異様に遅く感じられた。相変わらず悪夢が彼を襲った。 五日間経って彼は最寄りの交番に行った。 「藤田純子アナウンサーを富士宮近くの『加藤養豚場』で見ました」  警官は驚き、医師に電話した。それを確認し終わると警視庁に電話した。すぐにパトカーが来た。彼は取調室に入り、証言した。刑事はそこに現在、他の不明者がいるかどうか聞いた。彼は分からないと答えた。  警察は迅速に緊急会議を開き、『加藤養豚場』に強制立ち入り捜査することを決定した。この情報はマスコミに流れた。  翌日の早朝、警察の部隊が『加藤養豚場』に到達した。各社の報道ヘリコプターや警察のヘリコプターがその上空を飛んだ。  報道ヘリのアナウンサーは興奮を抑えきれない声で伝えた。 「四か月前に消息を絶った藤田純子アナウンサーが富士宮の『加藤養豚場』にいたことが確認されました。これは都内在住の男性の証言によるものです。生死は不明です。異様な光景です。まるで要塞のように五メートルほどの塀が周囲を囲っています。警察の車両が何台も門の所に集結しています。大勢の警察官が門から周囲を包囲しています。交渉をしているのでしょうか、緊迫した雰囲気が続いています。藤田純子アナウンサーは四月十四日の夜に五反田駅付近で誘拐され富士宮市に向かったことが警察の調べで確認されています。警察の捜査はその後、行き詰まり、四か月の無情な空白期間を経てようやく犯人の逮捕に取りかかろうとしています。経営者の加藤正義容疑者は現在四十八歳、十四歳の時にこの養豚場に入り、三十年以上も豚を飼育してきました。そこで生産された豚肉は地域に行き渡っています。業者や消費者の評判はよく、良質の豚肉を提供してきたようです」  加藤の電話が鳴って「警察です。直ちに門を開けて下さい。他に人はいますか。開けなければ突入せざるを得ません」  加藤は自分以外誰もいないと答えた。門は開ける事が出来ないことを伝えた。  彼は来るべき時が来たと思った。準備は万全だった。 豚舎では二百頭の豚の群れが飢えて共食いを始めていた。加藤はナイフを腹に突き立てた。腹をえぐり、はらわたを出し、おかあさん、ごめ……ね、逝くね……、と言いながら飢えた豚の群れの中に飛び込んでいった。その十五分後、大型のスプリンクラーからガソリンが勢いよく降り注いだ。それと同時に点火装置が発火し豚舎は大きな炎に包まれた。 「あっ、動きがありました。豚舎と思しき建物から炎が噴き出しています。車両から梯子が多数下ろされ、周囲の塀から突入する模様です。大勢の警察官が内部に入っていきます。あっ、今、警察が門を爆破して突破しました。警察のヘリが敷地内に降りようとしています」  研二はテレビで中継を見ていた。なじみのある建物が映し出されている。加藤は自殺を選んだと思った。そう、あの炎の中で加藤は焼かれている。二百頭の豚を道連れに。  警察の消火は遅れ、建物は崩れ落ちた。その跡から豚の死骸と共に無残に食い散らかされて焼かれた加藤の死体が発見された。藤田純子アナウンサーは見つからなかった。焼け焦げた大型の粉砕機が発見された。その機械にこびり付いていた粉状の物質は鑑定の結果、人のものであると断定された。DNA鑑定には時間を要した。十人を超えるDNA型が解読された。その中のDNA型と藤田純子アナウンサーのDNA型が一致した。そして、豚舎の餌や水タンクからも同一のものが発見された。 世間は衝撃を受けた。解明された日、藤田アナの所属していた放送局は全員、喪服で放送を続けた。各地で自殺のニュースが相次いだ。 翌朝、研二の部屋の前に置いてあった夕食は手がつけられていなかった。妙子はどんどんと扉を叩き、どうしたのって言った。その声は叫び声に変わっていった。ようやく扉を破って入ると研二が首を吊っていた。 蠅が舞っていた。                 了  

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