気乗りしない待ち合わせ場所へ向うのに、意味もなくのろのろと歩いていたはずが、母が電話口で言った時間より随分早く着いてしまい、和也は伏目がちに辺りを見渡す。すると視線の先に、予想通り約束よりも早く来ていた母が、どこかしょんぼりといった様子で立っていた。 肩が落ちた母の姿は、その小柄な身体がより一層小さく見えて、和也の胸になんとも言えない苦い気持ちが込み上げてくる。 せっかくのデートなのに、喜んだ顔をさせてやることが出来ない。それが自分のせいだと知っていても、どうしても良い顔が出来なくて、少しの間その場から母を見つめる。そんな和也に気づいた母が、控えめに手を振って、笑顔で近づいてくる。無言のままの和也に、少し先にあるレストランの看板を指差して歩き出す。 レストランのクロークにコートを預ける母を、和也は遠い風景を見るように瞳に映す。 母が今日選んだ洋服は、和也が前に好きだと言った淡いブルーのツーピースだった。けれど、薄紅色のシフォンのスカーフを襟元にあしらったその姿は、いつもの母とは違っている。ふんわりと薔薇色に染まった頬が、母を和也から遠い存在へと変えていた。 約束の場所に相手はまだ来ていないらしく、母とふたり隣同士で席に着く。顔を上げようとしない和也をちらちらと伺いながら、母がゆっくりと馴れ初めを語りだす。 「音羽さんと初めて逢ったのは、二年くらい、前になるかな……」 訊く気がしないと言って、一度も訊かずにいたふたりの出会い。それを、この土壇場になって無理矢理訊かされることに、和也はじりじりとした苛立ちを感じる。 「デパートでね、息子の就職祝いを選んで欲しいって、恥ずかしそうに聞いてきたの。買い物が、苦手なんだって」 けれどいまさら事を荒立てても、母を哀しませるだけだと思い、燻りかけた苛立ちをなんとかねじ伏せ、母の囁くような声音に耳を傾ける。 親子そろって教師をしているというその相手との、ありふれたきっかけが特別な出会いに変わったのは、それから一週間後。同じデパート内の書店で、財布を忘れてレジ前でうろたえていたその人に、声をかけたのが始まりだったと言う。頃は閉店間際。もう諦めるしかないという状況。それでも、手にした参考書から離れがたくしているその人に、母は数千円のお金を立て替えてあげたんだと続ける。思いがけない展開に、その相手は何度も何度も頭を下げ、その翌日ふたりは夕方のレストランで待ち合わせをしたんだ、と。 「音羽さんの息子さん、……アキラくんって言うんだけど、あのね、すごい偶然なんだけど、アキラくん、和也の学校にいるのよ」 「えっ?」 母の意外な言葉に、和也が思わずというように顔を上げる。 「私もついこの間、聞いたの。先生だってことは知ってたけど、まさか和也と同じ高校だなんて思ってもいなかったから、ビックリしちゃった」 言って可笑しそうに笑う母の顔を、和也は呆気に取られたように見返していた。 ずっと「優等生」で通してきた和也にしてみれば、これから敵対する相手が、自分の高校の教師だなんて、とんでもない大事だった。自分はこれからどんなに頑張っても、相手に良い印象なんか残せそうも無いのに、いったいどんな顔をして「そいつら」に逢えばいいのか、まるでわからなくなってしまう。なのに母は、そんなこと気にも留めないといったふうに、なんでもないことのように言う。ビックリしたなんて口にしながら、その表情に驚きなんて見当たらない。むしろ「とっても素敵な偶然」とでも思っているような口ぶりだった。 母は、今一瞬の和也の動揺に気づいていない。多分、気づこうともしていない。今、母の頭の中はきっと、これから逢う「そいつら」のことでいっぱいなんだ。 その確信は、和也を脱力させる。瞬時に芽生えた恨みがましい気持まで、肩の力と一緒に抜け落ちていった。 (おとわ、あきら?) 軽いパニックを早々に追い払って、和也は今聞いたばかりの苗字と名前を、頭の中で繋ぎ合わせる。 (音羽、あきら?) ひらがなに漢字を当てはめて、自分の記憶を掘り起こす。 (音羽あきら、晃、明、……瑛……) 適当に選んだはずの「瑛」という文字が、和也の思考にポツンと立ち止まった。 「すいません!」 はっとして、視線を上げる。 「ずいぶん待ちましたよね? 申し訳ないです!」 相手の言葉に反応するつもりなんて、さらさらなかったのに、和也は上げてしまった視線を外せなくなる。 小走りで駆け寄ってきた男性は、ひょろりと長身の身体を折り畳むみたいにして頭を下げていた。そして中腰のまま、顔だけあげて、仕方なさそうな表情で、しきりに瞬きを繰り返している。 「大丈夫ですよ。私達も今ついたばかりですから。ねっ、和也?」 さっと立ち上がった母にいきなり名前を呼ばれ、勢いにつられて頷きそうになった頭を、顎をひいて押さえつける。 「瑛の車で来たんですけど、渋滞に巻き込まれちゃって、本当にすいません」 またぴょこんと頭を下げる男を、和也はまじまじと見つめていた。 高校の教師だと聞いたときから、真面目一辺倒の、落ち着いた人物を想像していた和也は、その予想とのギャップに面食らっていた。茶色がかってふわふわと波打つ髪を混ぜながら、ペコペコと頭を下げている目の前の男は、教師と言うよりはまるで保父さんみたいな印象で、優しそうと言えば聞こえはいいけれど、頼りないことこの上ない。こんな男に、どうして母がと、思わずにいられなかった。 「僕から指定したくせに遅れてくるなんて最低だよね。ごめんね」 柔和な眼差しが、すっと流れるように、和也に向けられた。 「ほら、和也。立って」 座ったまま動こうとしない和也の背中を、母がポンと叩く。 「あっ、いいですよ。席について、ゆっくり話しましょう」 「すいません」 恐縮している母が、なんだか可哀想に思えて、和也が渋々ながら立ち上がる。 「はじめまして。佐伯、和也です」 視線を伏せたまま、ボソボソと名のる。 「音羽史人です。加奈子さんにはお世話になってます」 「そんな、お世話なんて、とんでもない」 笑いあうふたりの、親密さをうかがわせる雰囲気を煩わしく感じ始めたとき、斜に流した視線の先、史人の肩口で、白い小さな顔がにっこりと笑った。 「はじめまして。瑛です」 史人の陰にすっぽりと隠れていた、ずいぶんと線の細い、悪く言えば軟弱そうな身体が、すっと前に出る。高校生にしては長身な和也より、目の位置が低い。 「君は僕のこと、知ってる?」 問いかける声音が、まるく、やわらかく途切れる。 「僕は、君のこと知ってるよ。でも、今日は教師と生徒なんて堅っ苦しいのは無しにしよう。兄弟ってことで、よろしく」 そう言って、微笑みかける瑛から、和也はあからさまに顔をそむける。 何もいまさら、こんな不貞腐れた態度を取るつもりはなかった。でも、当たり前のように向けられる好意が、どうしようもなく鬱陶しい。こっちの気持ちなんかお構いなしな能天気な会話が、我慢できない。 「えっと、じゃ、とりあえず、席に着きましょうか?」 気づまりな沈黙をかき消すように、史人が明るく言う。 通路側に立っていた瑛が、するりと和也の目の前の席に落ち着く。瑛の動きにつられるように加奈子と史人が、そして少し遅れて和也が座ると、待ちかねたウェイターが早速というように、飲み物を準備していく。 「和也くんにはジンジャーエールを御願いしてあるんだけど、それでよかったかな?」 斜に視線を向けたまま、和也が頷く。和也以外にはシャンパンを選んだらしく、見た目にはそっくりな、気泡を弾く飲み物が、背の高い細いグラスに注がれる。 「乾杯、しましょうか」 史人の言葉で加奈子と瑛がグラスに手をかける。無視できるほど冷たくなりきれない和也も、視線を落としたまま、緩慢な動作でグラスに手を伸ばした。 「じゃ、初めての四人の食卓に、」 「乾杯」 史人の音頭のあと、三人が手にしたグラスを、目の高さまで上げるだけの乾杯のしぐさをするのを横目に、和也がグラスを置く。テーブルには、お上品に盛りつけられたオードブルが並べられていく。 「素敵なお店ですね。ここにはよく来るんですか?」 ウェイターが立ち去るのを待って、加奈子が問いかける。 「いや、僕もまだ二回目なんだ。この間、瑛と来て、感じが良かったんで……」 言葉を途切れさせて、史人がポリポリと頭を掻く。 「父さん、ほんとうはこんな洒落たトコ、苦手なんだよね?」 「そうなの? そんなふうには見えないけど」 「今日のために一生懸命選んだんですよ。僕は付き合わされて大変でした」 からかうように言う瑛と、「それバラすか?」と脱力する史人のかけ合いに、加奈子の楽しそうな笑い声が重なる。緩やかに進んでいく会話の隅で、和也は出てくる料理を機械的に口に運んでいた。 ちらちらと盗み見る、テーブルの向こう側の見知らぬ顔。その顔は、慌しい初対面の印象を、少しずつ拭い去っていく。改めて見る史人の容姿は、穏やかに整っていた。品よく着こなされた焦げ茶色のスーツが、悪意や狡がしっこさを感じさせない、人の良さそうな笑顔に信頼感を補足している。そしてその隣で、同じように人好きのする笑顔を振りまく瑛は、ふたりを見守るような視線を向けていた。紫に近い紺のスーツに、淡いレモン色のタイ。その清潔そうな身形が、ほっそりとした容姿によく似合っている。 きっと、誰もが好感をもつような親子なんだろう。似たような声質の、柔らかで耳触りの良い音を聞きながら、ふと、そんなことを思う。彼らのまっすぐに向けられる瞳に、媚や諂いを探すのは難しい。ただ正直であろうとするような、真摯な気持ちばかりが伝わってくる。 彼らはきっと、本気で、自分達と家族になりたいと、そう思っているんだろう。ひねた見方をしている自分でさえ、そう思ってしまうのだから、相手に好意を持っている母が彼らを信じてしまうのは、仕方のない事のように思えた。けれど、「当然」だと思ってしまう自分が苦々しくて、和也は眉を顰める。 「和也?」 俯いたままの和也を気遣うように、瑛が呼びかける。その潜められた優しさに、和也の胸の奥にある理不尽な憤りが反応した。 「馴れ馴れしく、呼ばないでもらえますか」 ギロリと瑛を睨みつけ、和也が鋭く言う。 「家族ごっこがしたいなら、俺抜きでやってください」 一瞬にして、テーブルの上の空気が凍った。それでも、和也の冷たい言葉を正面から受け止めても、瑛の視線は逸らされなかった。一ミリのずれもなく、まっすぐに和也を見つめてくる。 その逸らされない瞳が、和也の神経を逆撫でしていく。胸に充満したきな臭い感情が、今にも爆発しそうに膨れ上がって、和也は無言で立ち上がると、膝に置いてあったナプキンを乱暴にテーブルの上に放って、靴音も高くその場を後にした。 一瞬の沈黙の後、加奈子が椅子を鳴らして立ち上がる。 「ごっ、ごめんなさい。いっ、今、連れ戻します」 ほとんど泣きそうになっている加奈子を、瑛が止める。 「待って。加奈子さん」 これまで何度か対面している瑛の、親しみのこもった呼びかけに、加奈子が中腰になったまま瑛を見下ろす。 「僕が行きます」 「でっ、でも!」 「今日は僕に行かせて。和也と話してみたいんだ」 言って立ち上がると、テーブルに手を置いたまま動けずにいる加奈子の肩をつかんで、席に着かせる。 「父さん、車頼むね。僕は和也と一緒に電車で帰るから」 ポンと車の鍵を史人に向けて放る。投げられた鍵が、史人の掌でチャリンと弾む。 「了解」 史人の承諾に笑顔を返して、瑛が出口に向かって歩き出す。その後姿を不安そうに見つめる加奈子に、史人が優しく話しかける。 「瑛は今日の会食、ずっと前から楽しみにしてたんだよ」 「えっ?」 くるんと振り返る加奈子に、にっこりと笑いかける。 「和也くんは、理想の弟だって言ってたからね」 加奈子の瞳が、驚いたように瞠られる。 「僕もね、今日初めて和也くんに逢って、瑛のその言葉の意味が、なんだかわかったような気がしたよ」 史人の、嬉しそうにも見える表情に、加奈子が小首を傾げる。 「自分の気持ちを、誤魔化すことをしない純粋さって言うのかな。まっすぐな怒りって、久々に見せられたような気がするよ」 和也の表情を思い出しているのか、史人が少しだけ遠い目をする。 「最近の子は、嫌なことや苦手なことを誤魔化すのが上手いからね。それをやられちゃうと、こっちはどうしていいかわからなくなる。だから、ちゃんと自分の気持ちを口にしてくれる和也くんに、僕はきっと、ほっとしているんだと思うよ」 加奈子の瞳が、見る見る潤んでいく。 「和也くんにとって僕らはまったくの他人なんだから、いきなり踏み込んだら反発されて当然だって、加奈子だって思ってただろう?」 とうとう堪えきれず、加奈子の涙が零れる。 「大丈夫。今日は初めの一歩だ。ちょっとずつ、近づけて行こう。時間は山ほどあるんだから」 人差し指と親指で僅かな隙間を作って加奈子に見せながら、史人は身振り手振りを使って明るく話し続ける。史人の言葉が、加奈子の胸に静かに沁みていく。 和也と同じように、加奈子の心の中にも、今も癒されない傷がある。和也と同じ痛みがある。ちりちりと疼き続ける痛みはけれど、史人といると和らいだ。史人が持つどこかのんびりした空気が、加奈子にもう一度、家族を持ちたいと思わせてくれた。だからこそ、和也にもこの安らぎを感じて欲しかった。史人の優しさが、きっと和也の傷も癒してくれると、そう信じていた。 自分の願いを胸の内で繰り返しながら、加奈子は涙を飲み込んで、史人を見上げる。史人ももう、それ以上は何も言わなかった。けれど無言のテーブルの上は、信頼しあった者同士にしか出せない、穏やかな空気に満たされていた。 クロークを素通りしてしまった和也のコートを手に、瑛は雑踏を掻き分け和也を探していた。 程なくして、小雪まじりの瑛の視界に、和也の寒そうな後姿が映り込んだ。少年らしい伸びやかな肢体が、その日は小さく縮こまって、窄められた肩が痛々しく、瑛の瞳に映る。 「和也」 先刻と同じように、瑛が呼び掛ける。きっと、無視される。そう覚悟しての呼びかけだった。けれど予想外に和也はゆっくりと立ち止まった。少し癖のある真っ黒な髪に、粉雪が纏わり付いている。 「風邪、ひくよ」 手にしたコートを差し出すと、ひったくるように取り上げて、迷惑そうな視線を瑛に向ける。けれどそれも一瞬のことで、和也はフイとそっぽを向くと、コートを羽織り、人通りの少ない、細い道へと入っていく。黙ったまま歩速を揃えてくる瑛を、振り返りこそしなくても、振り切ろうともしなかった。 人影もまばらな、街角の隅。ぽつんと灯った街灯にもたれて、和也が足を止める。 「あんた、……俺のこと、知ってるって言ったよな」 「……知ってるよ」 「どんなふうに?」 「……学校で、時々。和也は目立つから」 「優等生の俺、ってこと?」 「……そうだね」 和也の唐突な質問に戸惑いながら、瑛は慎重に言葉を選んでいた。 「じゃあ、芝居してる俺しか知らないってことだな」 なのに和也は、迷いながらの瑛の応えに、満足したように「くっ」と短く笑った。 「学校での俺は、多分素直で従順で、そうだな、優しい奴なのかもしれないな」 小馬鹿にしたような視線が、瑛に向けられる。 「でも、それはふりでしかない」 じっと見つめる黒い瞳を、瑛は身じろぎもせず、受け止める。 「俺は、自分が良い奴なんかじゃないことを知っている。だから優しいふりをしているだけなんだ」 和也の黒い瞳が、俄かにきつく、強い光を放つ。 「でも、あんたらに対しては違う」 鋭い視線が、瑛を見据える。 「俺は、あんたらを認めたわけじゃない。認めることが出来ない相手に、芝居なんか必要ないだろう?」 そして、勝ち誇ったように口の端だけで笑う。けれど、次の瞬間、 「和也は、優しいよ」 ふわんと軽く、ハスキーな声が、和也の言葉を否定した。 それは、喧嘩腰に口にした言葉に返されるには、あまりにも優しい音だった。その意外さに、虚を衝かれたように黙り込んでしまった和也に、瑛はひどく安心したような、素朴な笑みを見せる。 「自分のことを、良い奴じゃないって知ってる分だけ、人は優しくなれる」 やんわりとした表情のまま、瑛が下を向く。 「父さんの受け売りだけど、でも、僕も、そうだと思う」 しっとりと落ち着いた声で続けて、そっと視線を和也に向ける。 「だから和也は、きっと優しい人だって、僕は思ってるよ」 そう言って、目に垂れかかってきた前髪を、指先で軽く弾いた。 その時初めて、和也は瑛の顔が驚くほど整っていることに気づいた。レストランに居る時は少しも気づかなかったのに、淡い街灯の下にたたずむ瑛は、息をのむほど綺麗だった。 黒いトレンチコートに包まれた、ただ小柄としか思わなかった身体の線は、優美に均整がとれている。少し長めに整えられた、サラサラな髪からのぞく、くっきりと涼やかな頬から顎にかけてのライン、笑うと黒目だけになる切れ長の瞳、すっと通った鼻筋、ふくよかな唇は雪に濡れて紅く色づいている。そしてそれらすべてを包み込むミルク色の肌は、まるで粉化粧をほどこしたかのように艶やかだった。 「知った風な口を利くな」 けれど、一瞬でも目を奪われてしまった歯痒さが、和也に辛辣な言葉を選ばせる。 「逢ったばかりのあんたに、何がわかるって言うんだ。あんたに俺の気持ちなんて、わかるわけがない。わかりっこない! わかったつもりになって、いい気になるな!」 叫ぶように言葉をぶつけて、和也はその場から駆け出した。呼び止める声は聞こえなかった。瑛の表情を確かめる余裕もなかった。何もかもがどうでもよく、むしろ何もかもを投げ捨ててしまいたいような感情が、和也の中で渦巻いていた。 和也の記憶を掠めた、「音羽瑛」という名前。和也がそれを思い出すのは、それほど難しいことではなかった。食事会の翌日、登校してすぐ、グラウンドに立った瞬間、和也はあやふやだった記憶を確認した。 瑛は美術の教師で、音楽を選択していた和也との面識は無かった。けれど、和也の記憶にしっかりと根付いたひとつの出来事があった。それは昨年の中高合同体育祭の一幕。新任教師の顔見せも兼ねた「借り物競争」でのことだった。 通常「借り物競争」と言えば鉢巻きやらゼッケンやら、生徒の備品が多い。けれど、和也が通っている学校ではその年の「新任教師の名前」が全員載せられる。私立の学校だから変動が少ないとはいえ、通常なら担当外の教師の名前を覚える機会は少ない。けれどせっかく同じ学校にいるのだから、せめて名前と顔くらいは一致させて欲しいという学校側の思惑が、その競技には組み込まれていた。 それでも、普段ならそんなに目立つこともない種目。けれど「音羽瑛」は、ひょんなことから全校生徒の注目を集めてしまった。それは自分を指名するはずの生徒が、スタート直後に盛大にこけてしまったからだった。 転んだ拍子に膝を擦りむいてしまった女生徒は、ちょっとの間動けなかった。それでも、よたよたと立ち上がり、涙をぽろぽろと零しながら走りだした。そして、コース上に一枚残った封筒を開けた瞬間、涙まじりの声で叫んだ。 「音羽先生!」 全校生徒の視線がいっせいに、教員席に集中する。さっと飛び出した瑛が、女生徒の前に駆け寄り、ぽんぽんと頭を撫でる。そして、本格的に泣き出してしまった生徒の手を取って、力強くゴールを指差した。 (いくよ!) 口が、そう動いたように、思った。 差し出された手をぎゅっと握り返して、生徒が涙を拭って走り出す。もう誰もいないグラウンドに、動く影はふたつだけ。「頑張れ!」誰かが叫んだ。「もうすぐだぞ!」敵味方関係なく、あちらこちらから、応援の声が飛び出した。ひょこひょこと覚束ない足元を、振り返り振り返り、瑛は笑顔を絶やさずに生徒を励まし続けている。 瑛が彼女に、何を話し掛けていたのかはわからない。けれど和也はその風景を眺めながら、無意識に笑っていた。まわりの級友たちも同じように笑いながら、ふたりを見つめていた。 「あれって、美術の担当かな?」 ふたりが張りなおされたゴールテープを駆け抜けた後、誰かが呟くように言った。 顔見せを念頭に置いた競技に、新任教師達は普段通りの格好で参加することが義務付けられていた。瑛は授業中に羽織っていると思われる、絵の具だらけの白衣姿で競技に参加していた。 「みたいだな」 言って和也が頷く。 「……なんか、良いな、……ああいうの」 「そうだな」 不思議に和やかな雰囲気に包まれた会場で、音羽瑛の名前は全校生徒の知るところとなった。 一方和也はというと、誰もが認める優等生として、校内で知らない者はいないほどの有名人だった。 佐伯和也の学力は、全国的な偏差値から言ってもかなりレベルが高く、学校が和也に寄せる期待は大きかった。その上、和也は中学の頃からバスケット部のエースとして活躍し、高校二年の新人戦では学校始まって以来の快挙となる県大会優勝を成し遂げていた。負けん気の強そうな精悍な顔つきは、やる事成す事人目を惹いて、文武両道の人気者は、生徒の間でもとりわけ目立つ存在だった。 そして瑛は、その優等生の仮面とは全く別な和也を知っていた。それは多分、誰も知らない、和也ですら憶えているかどうかあやしい、些細な出来事だった。けれど瑛は、ほんの偶然目にした和也の不器用な優しさと、少年らしい純粋さを、鮮明に憶えていた。
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