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 ランチシートを木蔭こかげに敷いて、瑛がボックスの横に備えられているフルーツナイフを取り出す。クーラーボックスを俎板まないた代わりに、その場でオープンサンドを手早く準備する。紙ナプキンの上に、なんの変哲もなかったバターロールがトマトやレタスに飾られて、いかにも美味おいしそうに並べられていく。 「小学校の、遠足みたいだね」  三角の紙パックの珈琲牛乳を片手に、オープンサンドを口にしながら、瑛が懐かしげに言う。同じようなことを考えていた和也は、口にしなくても想いが重なっているような気がして、その事がなんとなく嬉しかった。  食事の後、和也はランチシートにうつ伏せになって、問題集を開いていた。だんだん集中力が戻って、問題を解くペースがあがっていく。気づいた時にはクーラーボックスを机代わりに、和也は数式に没頭していた。五章に分かれている問題集。その一章の最後の一問でつまづいて、大きく溜息を吐き、ガシガシと頭をかく。 「それ、公式、違ってないか?」  不意打ちの問いかけに、和也がビクリとして身体をらせる。 「なっ、なっ、あんた、絵描いてたんじゃないのか!」  声がひっくり返ってしまう。だって、あまりにも顔が近すぎて。 「描いてたよ。今一区切ひとくぎりついたとこ。なぁこれ、やっぱ公式違ってるよ」 「えっ?」 「ちょう、待って」  言って瑛は自分の指定席になる切り株まで戻ると、ぴりぴりとスケッチブックを破いて戻ってくる。ランチシートの中央に膝をおって、スケッチブックを下敷きに、大きく十字線を引き座標を取って和也を見上げる。 「その問題のAの式のXは、4+2iでココになるだろう? だから……」  瑛の細い指先が紡ぐ黒線は、紙の上を滑らかに流れて、数字と方程式の複雑な放物線が広がっていく。その迷いのないペン先に、和也は最初驚き、次には感心して、最後には真剣になって瑛の講義を聞いていた。美術の教師の瑛が、数学が得意だなんて知らなかった。でも今、目の前で説明する瑛の教え方は、今までのどんな教師よりもわかりやすかった。 「で、この座標を求めるわけだから、ココに①の公式で、ココに②の公式。で、答はこう。違う?」  導き出された数字の下に線を引く瑛の声に、和也は慌てて問題集の後をめくる。答はもちろん、その下の説明書きで展開される公式までが全く同じだった。 「大正解」  心底感心したような声で、まん丸に目を瞠る和也に、瑛が照れくさそうに笑う。 「凄いな。めちゃくちゃわかりやすかった。もしかして、数学得意なのか?」 「得意なわけじゃないけど、嫌いじゃなかった」 「これ、嫌いじゃないってレベルじゃないだろ」 「そうかな?」 「そうだよ!」  勢い込んで言う和也に、瑛はにかんだように笑うと、やわらかな声で応える。 「美術の大学でも数学は受験科目に入っているからね。それなりに勉強した成果だろう。和也だって、すぐ解けるようになるよ」  そんなもんなんだろうか。とてもそうは思えない。けれど、今の和也にはそうとは言い切れない。そこまでの経験がない和也に、決め付けたような言葉は言えない。でも……、 「そうかなぁ。いや、これは半端じゃない……」  口元に指先を置いて、ぶつぶつ言う和也の肩を、瑛がポンと叩く。 「それよりさ、問題集、そこで一区切りだろ? そろそろ帰らないか? もう暗くなってきたから」 「あっ? あぁ、そうだな」  瑛に言われて見上げた空は、既ににしきの色が濃くなり始めていた。  その日はじめて知った、瑛の聡明さ。それは和也の不安定な「恋心」を刺激して余りあるものだった。  絵が好きで、絵の腕前も相当なものがある瑛。けれど今日見た瑛の、楽しそうに問題を解く姿は、どうしてか強烈に和也の頭に残った。瑛が数学を選択しなかった理由は、絵のほうが好きだからだったんだろうか。それとも他に何か理由があって……。  些細な事が気にかかる。でも、聞けない。だけと、知りたい。胸が、……痛くなる。  それからというもの、食事も忘れて描き続ける瑛に、和也が昼食を差し入れるのが日課になっていった。最初の頃こそ近づく和也に気づいて笑顔を向けてくれたけれど、彩色さいしょくの段階になると、和也が声をかけるまで応える事がなくなった。 「食事、持って来たぞ」 「あぁ、ありがとう」  ふっと現実に戻されたような感じで、瑛が言う。その時になってやっと、瑛は和也の存在に気づくようだった。けれどそれも束の間、和也が作った不慣れなサンドイッチを口に含みながら、その瞳は捕らえようとする対象に向けられたまま。何がしかの感想があってもいいとは思うのだけれど……。 「美味うまい?」 「うん」  慣れてしまった、上の空の返事。その無心さに、苛立つ気にもなれない。  ひとりで旅行していた時は、いったい昼食はどうしていたんだろう。こんな感じで写生していたら、まともに食事を取っていたとは到底思えない。そんな過ぎてしまった日々の事まで、気にかけてしまう和也だった。  それから数日後、一枚の絵が仕上がった頃合ころあいを見計らって、和也は思い切って瑛を誘う。近づこうと思いながら少しも進展しそうにないふたりの距離を、なんとか縮めたくて。 「なぁ、一回くらい、外食しないか?」 「何? 僕の料理、もう飽きちゃった?」 「そうじゃなくて、此処らへんのレストランって、美味いんだろう? 俺、一個も行けてないんだけど」  少しだけ嫌味を含んだ瑛の返事に、和也がむっとしたように言う。 「冗談だよ。僕もそろそろ外食してみたいなって思ってたから、このまま行こっか?」  頃は三時過ぎ。まだ夕食には間がある時間に、ふたりはゆっくりと湖畔を巡り、別荘地の近くにある瀟洒なレストランに入った。燦々と輝いていた陽は傾き、オレンジに色づき始めている。テラスに通されたふたりは何を話すでもなく、沈みかけた夕日を見つめていた。山影に吸い込まれていく太陽の後を追いかけて、葡萄ぶどう色の薄闇が、ふたりを静かに包み込んでいく。 「絵、仕上がったんだろう?」  ぽつんと問いかける和也に、瑛が意外そうに応える。 「よく気がついたね」 「そりゃ後ろから見てたら気がつくさ。これでもタイミングはかってたんだからな」 「タイミング?」 「外食の」  あぁ、と納得したように頷いて、瑛が和也を見つめる。 「和也さ、別に僕に付き合わなくていいんだよ。好きな場所で、好きな時間に、好きな事をすればいい。そのための休暇なんだから」  なんとなく牽制けんせいされたような気がして、和也が眉を顰める。和也の表情の変化に気づいた瑛が、声音を緩め、言葉を続ける。 「悪い意味じゃないよ。なんかさ、毎日ランチ持ってきてくれて、それは嬉しいんだけど、でも負担になるような事はして欲しくない」  どきりとする。和也自身、それを負担だとは思っていないけれど、瑛にとっては迷惑だったんだろうかと、そうかんぐってしまう。 「俺が、邪魔だった?」  沈んでいく和也の声音に、瑛が慌てたように取り成す。 「だからそうじゃなくて、和也の勉強時間が、」 「俺が、好きでやってるんだって言ったら?」 「和也」 「俺はやりたくてやってる。そう言ったら?」  自分の声が、少しだけ感情的になっている事に気づいて、和也はそっと深呼吸をして気持ちを落ち着ける。 「せっかくの避暑地で、ずっと部屋にこもっているのが嫌だったんだ」 「だったら、」 「でも、俺、ここら辺ってよく知らないから、あそこに行ってた。でも、邪魔だったら、やめる」  瑛の言葉をさえぎって、聞きたくない結論を、自分で口にした。だったらやめて欲しいと、突き放されるのが怖かった。 「だから、邪魔だなんて言ってないだろう?」  ふーっと瑛が細く息を吐きだす。瑛も、少し緊張してこの話をしているようだった。テーブルに置いた指先が、組み返られる。 「和也はいま受験生だろ? 勉強に集中できると思って誘ったけど、なんだか余計な事に気を回させちゃってるみたいで、悪いなって思ったんだよ。邪魔だとか、そんな意味じゃない」  ちらりと視線を上げる和也を、瑛は優しげに笑んで見つめる。 「とりあえず、あの場所では一枚仕上げたから、明日から湖畔でも描こうかなって思ってるんだけど、和也も来る?」  げんきんなもので、そのひと言で和也の表情がにわかに明るくなる。 「うん」 「じゃ、明日は僕がランチ作るから、それ持って新しい場所行こう」 「うん」 「晴れたらだよ」  喜びいさんで頷く自分はきっと、小さな子供と変わらない。瑛だって、まるで子供をあやすような口調くちょうで言葉を投げかけてくる。  でも、それでも構わなかった。和也が持っていたはずのプライドは、瑛の前で日増しに小さくなっていた。その理由はいっぱいあったけれど、そんな意地みたいなものよりも、今は瑛の言葉のほうが嬉しかった。  その夜、瑛はシャワーを浴びた後、寝付けないままにベランダの椅子に腰掛けていた。深夜をすぎた時間。和也の部屋の灯りはもう、ずいぶん前に消えたようだった。  和也の変化を、複雑な想いで見つめていた。初日はギクシャクしていたふたりだったけれど、二日目くらいから和也の態度ががらりと変わった。その理由はわからない。けれど、妙に人懐っこく、子犬のような感じで瑛の周りにじゃれ付いてくる。  和也と、仲良くなりたいと思っていた。それはもちろん、今も変わらない。けれど、唐突に近づき始めた距離に、今度は瑛が戸惑っていた。  何かが変わり始めていた。その変化を瑛はつかめない。もともと瑛はひとりに慣れすぎていた。母の居ない家庭。帰宅の遅い父。そして人見知りな自分は、他人と深く関わり合う事が怖かった。自分の内面を、他人にのぞかれたくなかった。だからいつも、寂しい時は荻原の家に行き、荻原と一緒に過ごす事が多かった。  そんな瑛にとって、自分から積極的に相手に踏み込んだのは、和也が初めてだった。  勝気そうな厳しい目つきに、整って痩せた身体。利発で近寄りがたいとまで思っていた和也は、胸の奥にずっと大きな傷を抱えていた。その傷を、癒したいと思った。その痛みをやわらげてやりたいと思った。だから闇雲に近づいて、暗闇でうずくまっていた和也を無理矢理光の中へと引きずり出した。  その事を、間違っていたとは思わない。それはきっと、和也にも必要な事だったんだと、今も思っている。けれど、和也との距離が縮まるたびに、瑛は何かにおびえていた。何か大きな間違いを見落としてしまっているような、そんな不安を感じていた。  翌日、和也は避暑地に来て初めての、雨の朝を迎えた。  窓を叩く雨粒が、せっかくのピクニックの計画をふいにする。がっかりして、元気なく部屋のドアを開けた和也は、次の瞬間、びくりと身体の動きを止めた。  ベランダの窓際に、瑛が立っていた。思わず、息を潜めて見入ってしまう。  パタパタと簀の子を叩く軽い水音が、聞こえる。窓から吹き込む風が、瑛の亜麻色の髪を、さらさらと揺らしている。流れるような仕草で、瑛が雨の雫に手を差し伸べる。雨樋あまどいを伝って落ちる雨だれに細い指先をかざし、零れる雫が肘を伝って流れていくのをじっと見つめている。白銀の光を抱いて煌く雫が、瑛の指先をかすめ、ぽたりぽたりと落ちていく。長い睫がかげる透き通った横顔が、絹糸の雨に染め上げられて、淡く滲んでいく。  瞳に映る何もかもが薄墨うすずみ色に霞んで、まるで一枚の水墨画のように静かに美しく、和也の全てを吸い込んでいく。 「和也」  どれくらいそうしていたのか、瑛が呼びかけるまで、和也は指先ひとつ動かせないでいた。 「おはよう。ご飯、出来てるよ」  何も気づかない瑛が、細い腕をさっと振るって、水を切る。 「和也?」  不思議そうに呼びかけながら近づいてくる瑛の、細い指先が、そろりと和也に伸ばされる。その指先が、腕に触れた瞬間、電流のようなものがぞくりと身体を駆け抜けて、和也は反射的に、瑛の手首を掴んで自分に引き寄せていた。 「? 何?」  きょとんと見上げてくる瑛に、かっと頬が熱くなる。 「あっ、手、あんまり冷たくて……」  弾かれたように手を離すけれど、言葉はしどろもどろになってしまう。それでも、瑛はそれを不自然とは思わないようで、 「あぁ、ごめん。いくら夏でも、起きぬけに濡れた手で触られたら嫌だよね」  なんて、申し訳なさそうに言う。そして、 「あったかいスープがあるから、それで勘弁かんべんして?」  にっこりと笑って言うと、和也に背を向け、階段を下りていく。  和也の掌には、瑛の細すぎる手首と、しっとりと濡れた肌の感触だけが残っていた。  テーブルには、フレンチトーストとポタージュが置かれている。赤いトマトが添えられたコールスローのサラダの横には、白いカップに注がれた珈琲。芳ばしい香りが、部屋を満たしている。  無言で椅子に座る和也に、瑛がどこかぽやんとした表情で、話しかけてくる。 「今日、駄目になっちゃったね」  黙ったまま見つめていると、白いカップを持ち上げて、そっと口付けるような仕草を見せる。それは単純に、珈琲を飲むだけの事だった。なのに、湯気に煙る薄紅に染まった頬、紅く色づく唇に、和也の身体の芯がどくりと熱を持つ。 「でも、雨って、好きなんだ」  物憂ものうげに潤んだ瞳は、窓の外に置かれたまま、和也に向けられはしない。けれど、耳元で囁くような、瑛の掠れ気味な声が、和也の熱を持った芯に、とろりと甘く絡みついてくる。 「なんか、やわらかいもので耳が塞がれてる感じがして、こんな風に静かな時間って、落ち着く」  窓の外は、銀糸ぎんしの雨。  雨音に閉じ込められた、ふたりきりの空間は、まるで世界中から切り離されたように静かだった。  朝食を終えて、部屋にこもった和也は、朝の一瞬の衝動に頭を抱えていた。  あの時、自分はいったい、何をするつもりだったんだろう。瑛の手首を掴んで、引き寄せて、どうするつもりだったんだろう。あんなふうに無防備な瞳を向けられなかったら、自分は、いったい。  ―― 何?  胸元から見上げてくる瑛の、黒目がちな瞳が、瞼から離れない。何気ない問いかけが、甘く鼓膜を浸して、何度も何度も繰り返される。  あのまま、抱きしめてしまいたかった。  雨に佇む瑛は、あんまり綺麗で、儚く見えて、そのまま雨に溶けて消えてしまいそうで、この腕の中に、閉じ込めてしまいたいと、本気で思った。  苦しかった。もう「友達」なんて、綺麗ごとは言っていられない。「友達」を、意味もなく「抱きしめたい」なんて、思うはずがない。今日、自分は明らかに、瑛に欲情よくじょうした。雨に濡れる白い肌を、伸ばされた指先を、眩暈めまいがするほど欲しいと思った。  恋情れんじょうは、日に日に膨らんでいた。  だって毎日瑛に会う。時折、触れる。まともにモノなんか考えられない。まるで集中できない。頭の中は寝ても覚めても、瑛の事ばかり、瑛の事ばかり。もう、自分を誤魔化す事は出来なかった。  ―― 人を好きになるって、どういう事? その先に、何がある?  そんな子供じみた問答は、息が止まるほどの衝動の前では、なんの役にもたたない。瑛が好きだ。瑛の前では、理性が保てない。瑛を前にすると、どうしようもなく走り出す感情を、止められない。  翡翠ひすいの森に、カチリと響く鍵の音。開かれた扉の向こうに何があるのか。それは和也自身にも、わからなかった。

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