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 暗い海にぼんやりと、月の光が落ちていた。  煌々と照らされる砂浜を、和也はひとり、とぼとぼと歩いている。素足に触れる砂は、踏みしめる度にきゅるきゅると、哀しく啼く。遠くに見える水平線が月の雫を煌かせ、蒼白く光る銀色の道が、遥か彼方まで続いている。  ―― 此処は、どこだろう?  ぼんやりと巡らせた視線の先に、人影を見つける。  ―― ……瑛?  夜目にもそうとわかる細い影が、波打ち際に座り込んでいる。寂しそうに小首を傾げ、憧れを見つめるように月を見上げている。 「瑛」  呼びかけた和也の声が、闇に溶けていく。  振り向かない瑛の姿が、うつろに、ただうつろに澄んでいく。群青の空には、怖いくらいに輝く月ばかり。薄く、甘く、儚く透ける、ほっそりと華奢な肢体に、銀色の波飛沫なみしぶきがうちつける。 「瑛!」  呼び続ける和也の目の前で、瑛はゆっくりと立ち上がり、夜の海に向かって歩き出す。 「どこに行く気だ! 瑛!」  瑛の足が止まる。空ろなままに振り返った瑛の瞳に、夜の月が浮かんでいる。何も映さない瞳。空洞のようにとらえ処のない心。瑛の世界が、内へ内へとひるがえっていく。 「瑛、行くな」  閉じていく、瑛の世界。 「行かないでくれ」  懇願する和也の瞳に、瑛の濡れた足が映る。小さなさざめきが、やがて大きな波に変わって、瑛の影を、一瞬にしてさらっていく。 「瑛っ!」  渾身の力で瑛に向かったはずの身体。飛び起きたのは、床の上。薄青い闇に火花が散って、頭の奥に激痛が走った。 「……痛っ!」  首筋を、冷たい汗が伝い落ちていく。 「……夢……?」  自分に問うように、呟く。  いつの間に眠ってしまったのか、隣には酔いつぶれた荻原がいる。飲みなれないブランデーは、和也の意識を悪戯に煽っただけで、心地良い酔いは訪れなかった。  鈍く痛む頭を抱え、和也は静かに立ち上がり、瑛の部屋に向かう。昏々と眠り続ける瑛の枕元に椅子を引き寄せ、しばらくの間、じっとその寝顔を見つめていた。  すると薬で眠っているはずの瑛が、苦しげに眉を寄せた。 「……和也……、ごめん……」  瑛の、人形のようなまなじりから、涙が零れ落ちる。  不意に、堪らない何かが胸に込み上げて、瑛の寝顔が瞬く間に潤んでいった。無意味な水が、なんの価値もない水が、和也の目から溢れ出していく。投げ出された冷たい指先。その細い指先に指を絡めると、意識の途切れた指先が、力なく握り返してくる。その頼りなさに、和也の涙が搾り取られていく。  さっき見た夢の場面が、瞼の裏に蘇える。波に浚われた瑛の心が、散り散りになって、ばらばらになって、消えていく。握る指先は冷たすぎて、瑛がこのまま、菫色すみれいろの闇に、溶けていってしまいそうな気がする。 「瑛……!」  呼びかける自分の声の、その情けなさに、なおさら涙が溢れてくる。  若すぎて、未熟すぎて、相手を思いやる事も出来なかった自分が、瑛を救えるなんて思えない。自分は、瑛が望む言葉、望む行動、その全てを気づいてやる事すら出来ない、無知で無力な子供でしかない。それでも、今は……。  瑛、おまえを壊してしまいたくない。不安定なその心を、支えてやりたい。瑛がもしも許してくれるなら、もう一度、最初から、色んな事を試してみたい。諦めず、他人に振り回されず、ふたりにしか見つける事が出来ない答えを探してみたい。  瑛の指先を握り締め、泣き続ける和也の背に、雨上がりの朝陽が射し込んでいた。  翌日になっても目覚めない瑛に、荻原は点滴を処方し、一度病院に戻ると言って別荘を後にした。残された和也は瑛に付き添いながら、その目覚めを待っていた。  点滴が終わりに近づくのを確認して、荻原に教えられたとおりに針をぬいて、サージカルテープを貼る和也の腕に、冷たい指先が触れた。はっとしてベッドに視線を移すと、ぽっかりと目覚めた瑛が、和也を見つめていた。 「……和也?」 「うん」 「和……也?」 「うん。……そうだよ」  窓の外には夏の光が溢れていた。  翠緑すいりょくの空気をまとった陽射しが、天空から振り落ちてくる。瑛の指先が、離れていく。和也を見つめていた瞳も、すっとそらされ、瑛が窓の外に視線を向ける。 「喉、渇いただろう? 何か冷たいもの、持ってこようか?」  眩しすぎる陽射しに、瑛は辛そうに顔を歪め、ぎこちない仕草で瞼に掌を置く。 「瑛?」 「……おじさん、は?」  絞り出した声は、掠れている。 「いま病院に戻ってる。でも夕方には、またこっち、来てくれるって」 「……病院?」 「うん」  目を閉じて、掌で瞼を覆ってさえ、さえぎる事の出来ない陽射しが、瑛の瞳を焼いていく。瞼の奥が、熱く滲んでいく。そして、瑛は胸の内で呟く。「どうして?」と。  連れて行ってと言ったのに。和也から遠ざけてくれと、そう言ったのに。全ては終わってしまったはずだった。逃げ道は全てとざされて、もう何も残っていないはずだった。なのに、どうして今、和也が目の前にいるんだろう?  徐々に覚醒していく意識。その意識は、瑛に絶望だけを突きつけてくる。  深く物思いに沈んでいく瑛に、和也は戸惑いながらも、ただじっと待っていた。瑛の言葉が聞きたくて、瑛の声が聞きたくて、ただその時を、待っていた。 「和也は、男が好きなわけ?」  けれど、待ち続けたはずの瑛の言葉はあまりにも唐突で、和也は応える事が出来なかった。瑛の、目頭を覆っていた手が、ぽとんと布団に落とされ、瞼がゆっくりと持ち上がる。 「和也が言った、「好き」の意味は、そういう事だよね?」  開かれた瞳はやたら遠くに置かれていて、とても自分に向かって話しかけているようには見えなかった。 「だったら僕は、頷く事なんか出来ない」  再び閉じられる、蜜色の瞳。 「出て行って、くれないか」  力ない拒絶。和也の目の前には、血の気の失せた指先が、投げ出されている。  瑛の言葉は、和也の恋情を正面から否定している。けれどそれは、和也にとっては、覚悟の上のこと。すっと息を吸い込み、気持ちを落ち着けて、瑛の手を取る。瑛の薄い肩が、ピクリと揺れた。 「俺は別に、男が好きなわけじゃない」  静かに、静かに、瑛の言葉を飲み込む。 「瑛が、好きなんだ」  瑛の瞳は外に向けられたまま、和也を振り向こうとはしない。けれど握り締めた指先は、まだ和也の手の中にあった。 「瑛、こっち向いて」  瑛の指先が、ぴくんと動く。 「俺の話し、ちゃんと聞いて」  瑛の長い睫毛が、瞬く。  蒼褪めた頬が、やわらかそうな唇が、ちりちりと震え、瑛の指先が、和也の手から逃れようとする。その事に気づいた和也が、抗う指先を、ゆるく捕らえ続ける。どうしても放されない指先に、瑛が諦めたように力を緩める。瑛の唇が、何かを探すように薄く開かれる。 「僕が、好きだなんて、そんなこと、有り得ない」  あまりに小さな呟きに、和也は瑛の口元に耳を寄せる。それに気づいた瑛が、僅かに身体をひいて、今度はしっかりとした口調で言い切る。 「和也は、なにか、勘違いしてるだけだよ」  そして、覚悟を決めたように細いおとがいを上げる。 「でも、それは、和也のせいじゃない」  瑛の口元に、冷ややかな笑みが浮かぶ。 「和也は、男が好きなわけじゃないんだろう? だったら、もしも僕が、到底男を受け入れるようなタイプじゃなかったら、和也がそんな気持ちになることはなかったって事だよね?」  少しずつ鮮明になっていく、瑛の声音。  「だとしたら、これは全部、僕のせい、なんだよ」  けれどその瞳は、決して和也を見ようとしない。 「変な気持ちにさせて、悪かったよ。それは謝る。だから、早く、馬鹿な勘違いに気づいて、元に戻ってくれ」  じっと黙ったまま、瑛の言葉を聞いていた和也が、掌に捕らえたままの瑛の指先を、ぎゅっと握り締める。 「それ、本気で言ってるのか?」  それでも和也を見ようとしない瑛に、畳み掛けるように繰り返す。 「瑛は、俺が、勘違いなんかでこんなこと言ってるって、本気で思ってるのか?」 「ああ、そうだよ。これが勘違いじゃなかったら、何だって言うんだよ。馬鹿馬鹿しい!」  捨てるような瑛の言い草に、かっと頭に血が上る。握っていた指先に力をこめて、和也がおもむろに瑛の身体を引き寄せる。 「和也!」  驚いて逃げようとする瑛を、無理矢理腕の中に抱きこむ。 「和也!」  投げやりな事ばかり言う瑛に、「もういい!」と言って背を向けられるくらいなら、あんな告白はしない。「好きだ」なんて、口にしない。瑛が好きで、もうどうしようもなくなって言ったのに、瑛は和也の言葉を軽々しく否定する。そんなに簡単に切り捨てられる想いなら、こんなに苦しんだりしない。 「だったら、嫌いだって言えよ!」  和也の言葉に、ピタリと瑛の動きが止まった。 「嫌いだって、顔も見たくないって、出て行けって、本気で言ってみろよ!」  告げる言葉とは裏腹に、和也の腕は、きつく瑛を抱きしめている。 「俺の目を見て、今はっきり言え!」  まるで懇願するような和也の声に、瑛の頭の中に火花が散る。  和也のきつくまわされた腕を、ありったけの力で引き剥がし、瑛がベッドボードまで後ずさる。慌てて二の腕を掴む和也に、燃えるような視線を向ける。  瑛の強い瞳を受けて、一瞬竦みそうになった指先に、和也は力を籠める。逃がさない。絶対に離さない。瑛の肩が、大きく波打つ。 「離せよ」  和也は黙ったまま、首を振る。 「離せって言ってるだろう!」  ただきつく、瑛の二の腕を握り締めたまま、和也は首を振る。哀しげにその瞳を潤ませながら、瑛を見つめて「嫌だ」と首を振る。  暴かれていく想い。少しずつ剥がされていく偽りは、まだじくじくと疼く傷の上の瘡蓋かさぶたのように痛い。無理矢理に剥がされる瘡蓋の下で、想いは逆流して、狂ったように渦巻いている。出口を求めて荒れ狂う感情が、僅かな亀裂をじ開け、今にも噴き出そうとしている。  ―― もう、もう……、限界だ……!  瑛が、クスリと笑う。 「……瑛?」 「和也が、そんな気持ちになるのは、僕のせい、なんだよ」  乾いた笑みを口元に浮かべたまま、冷めた声で、瑛が言う。 「僕が、まともな男じゃないから……」  瑛の長い睫毛の影で、蜜色の瞳が揺れている。 「だって和也、ゲイじゃないんだろ? ま、仮にゲイだとしても、僕のこと知ったら、きっと好きになんか、ならないだろうけどね」  瑛の、自嘲を極めたその言葉に、和也の張り詰めた糸が、大きく弾かれた。  和也の腕に今も残る、瑛の細い身体の感触。その頼りない重さ。瑛はずっとこの壊れそうに細い身体に、つぶされそうなほどの秘密を抱えて、生きてきたんだろうか。たったひとりの家族にさえ、真実を隠しながら。  和也の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。 「和也……?」  和也の涙に、瑛の顔から冷たい笑みが消える。抗う腕から力が抜けて、そっと和也の頬に触れてくる。 「なんで……、泣くんだ?」  本当に不思議に思うように、本気で戸惑うその指先を、和也が握り締める。 「なんでそんなふうに、自分をいじめるんだ?」  幼すぎる思考しか持てない自分が、瑛に言えることは少ない。 「なんでそうやって、なんでもかんでも自分のせいにするんだ?」  瑛の苦しみがわかるのに、何をどう言ったらいいのか、まるでわからない。 「瑛が悪いことなんて、ひとっつも、ないのに……」  瑛の事を知りたかった。瑛の全部を、好きになりたかった。 「俺は、瑛が好きだ」  けれど、その知りたかった真実が、瑛の心から多くの部分をもぎ取ったんだという事も、今の自分は知っている。だからもう、かける言葉が見つからない。 「瑛の全部が、好きなんだ」  馬鹿みたいに、同じ言葉しか繰り返せない。 「瑛が、男だって、女だって、かまわない」  でも、どうか信じて欲しい。 「そんなこと、俺には関係ないんだ」  だってこれが、これだけが、全て。  和也の言葉に、瑛の中の何かが、パリンと音を立てて壊れた。  ―― もしかして、……和也は、知っているのか?  幾重にも重ねられた薄絹の下にある、泥だらけの身体。足元を埋め尽くす腐った果実に足をとられながら、諦め切れない願いの為に、歩き続けたちっぽけな自分。そんな自分を。決して知られたくないと、誰にも知られたくないと隠し続けた、大嫌いな自分を。……和也は……。  呆然と瞳を瞠る瑛に、和也が囁くように問いかける。 「俺がゲイかって? そんなこと聞いてどうするんだ?」  和也の言葉に、瑛の身体が強張こわばる。 「お前ずるいよ。俺がゲイでも、そうじゃないって言っても、俺のこと突き放す気でいるんだろう? そんなの、答えられるはずないじゃないか」  和也の指先は、今も瑛の腕を掴んでいる。 「でも、言われてみてちょっとわかった。俺、その質問、答える事出来ないよ」  涙に濡れた瞳のまま、和也の顔に苦笑のようなものが浮かぶ。 「だって、俺、自分でもよくわかってないからな」  黒々と澄んだ瞳が、まっすぐに瑛に向けられる。 「瑛が、男でも、女でも、きっと好きになってた。そんな俺に、答なんかわからないよ」  ビックリするほど明るく笑って、瑛を見つめる。そして、 「俺は、瑛が好きなんだ」  一点の迷いもなく、はっきりと言い切る。 「瑛は俺に、何も言ってくれないから、俺は瑛の事を、わかっていないのかもしれない。けど、そんな事は、俺にとってはどうでもいい事なんだ」  求める想いの行く先を、指し示すように。 「俺は今、目の前にいる瑛が好きだ。もしも嫌いだって言われても、俺の気持ちは変われない」  和也の言葉が、瑛の胸の奥の窪みのような所に、すとんと落ちて、動かなくなる。  僕はいつも、願っていた。  僕の秘密を、僕が知ってしまったあの日から。  僕と言う存在が、あっというまに、消えてしまわないだろうかと。  それは死とか失踪とか、そんな形ではなく、僕と言う存在そのものの消滅。僕が生まれた事そのものが、消えて失くなればいいと思っていた。はじめから、この世にはいないモノとして、誰の記憶にも残らない。僕が居たという痕跡は、何処にもない。物語の作者が、登場人物をひとり削除するみたいに、僕の意識諸共もろとも、跡形もなく消えてしまいたかった。  ―― だって、誰にも知られたくない。  だから、嘘ばかりついていた。嘘をつくしかなかった。この身体が、ちりになって消えるまで、嘘をつきつづけるつもりでいた。たとえばもしも気が狂うならその前に、死んでしまうならその前に、自分で自分を、壊すつもりでいた。  ―― 僕は僕が、神様に見放された子供のようで、怖かったんだ。  瑛の視線が、落とされる。  長い前髪に隠された表情はわからない。けれど、薄茶の髪の隙間からぱらぱらと、雫が零れ落ちていく。 「僕は、もう、消えてしまいたかった」  顔を伏せたまま、震える声音で、弱々しく言葉を紡ぐ。 「でも、父さんを、ひとりにしたくなかった。だから、家族が、……欲しかったんだ」  瑛の素直な言葉に、和也がほっと息を吐き出す。 「勝手な奴」  不満を口にしながら、それでも和也の暖かな手は、瑛の指先を包み込んでいる。 「じゃ、俺と母さんは、お前の替わりってことか? どうりで一生懸命だったわけだ」 「……違う」 「どこが!」  強い声音は、それでも優しい。 「違うって言うんなら、言い訳してみろよ。聞いてやるからさ」  穏やかに言って、指先に力をこめる。 「でも、どんな言い訳も、俺の気持ちを変える事は出来ないよ」  瑛の手を、ぎゅっと握り締めて、はっきりと言う。 「だから、ちゃんと話そう」  瑛の肩が、ぴくんと震えた。 「そして考えよう。史人さんも一緒に」  瑛の顔が、弾かれたように上げられる。その視線を捕まえて、和也が力強く言葉を続ける。 「何にも言わないで、勝手に消えるなんて、そのほうがよっぽど残酷だよ」  ―― 諦めないで、なにもかもを。 「だってそうだろう? もしも瑛が変わってしまったとしても、それは外見だけのことだろう? 瑛の想いはあるだろう? 誰よりも、史人さんを大事だと想った瑛は、此処にいるだろう?」  ―― 俺たちはもう、夢に泣くだけの、小さな子供じゃない。 「でも、もしも、お前がある日突然消えたら、史人さんは、瑛そのものを失くしてしまうんだ」  死ぬという事は、一切が消えてしまうのと同じ。 「史人さんはきっと、瑛が何も言ってくれなかったのは、自分のせいだって、そう思うよ。気づいてやれなかった自分を、一生責め続けるよ」  問いたくても、答えが知りたくても、なにも返ってこないという事。その人がいたあらゆる時、全てが思い出になり、やがて忘れられてしまうという事。 「俺だって、そうだよ」  瞳に映る、瑛の顔が、ゆっくりと滲んでいく。 「もしも瑛が、俺に何も言わないで、突然いなくなったら、俺は一生後悔する。後悔して、後悔して、くそみたいな人生歩んでやる!」  泣きそうになっている自分を誤魔化すように、やけくそに言い放つ。 「だから、……死にたいなんて、二度と口にすんな」  けれど、堪え切れない涙が、ぽたりと落ちる。 「死んだりしたら、許さないからな」  泣き顔を見られたくなくて、和也が瑛を抱き寄せる。 「絶対に!」  堪えかねた嗚咽おえつを抱きしめるように、和也の腕が、折れそうなほどきつく、瑛の身体に回される。  和也の、鼓動が、聞こえる。熱い吐息が、瑛の肩に降り落ちる。和也の言葉のひとつひとつが、綺麗な雫になって、ぽたりぽたりと、瑛の胸の奥の窪みに溜まっていく。  かえらない卵を暖めるように、いくつもの諦めを準備していた。押し寄せるだけの現実に負けないように、何があっても傷つかないようにと、馴染なじんだ不幸にしがみついたまま。  その卑屈に歪んだ心を、和也の温もりが、包み込んでいく。 「……和也?」  瑛が小さく呼びかける。 「……ん?」  問い返される声音の、その優しさに、瑛の胸が締め付けられる。 「神様って、いると思う?」  搾り出された問いかけは、ずっとずっと、聞きたかった全て。 「神様が、もしもいるなら、僕は……、どうして此処にいるんだろう……?」  何のために? 何かを残すこともできない、中途半端な心と身体を抱えて……。 「神様ねぇ、そんなの、考えたこともなかったな」  思いつめた言葉を、和也が軽やかにさえぎる。 「いるのかな? いるかもしんないけど、俺には関係ない、かな?」  ぐすっと鼻をすすって、明るく続ける。 「だってさ、神様に頼んだからって、何もかも上手くいくわけじゃないだろう? やっぱさ、そこには努力とかいろいろあって、成功する奴もいれば失敗する奴もいる。それ全部、神様のせいにされたら、神様も迷惑なんじゃないか?」  鼻が詰まった声は情けない。 「俺は別に、無神論者ってわけじゃないけど……、でも、なにもかもを決めるのは、俺だって思ってる」  でも、言葉はにごりなく、何処までも澄んでいる。 「嬉しいときに笑うのも、哀しいときに泣くのも、頭にきたら怒鳴り散らすのも、」  そして、瑛の肩を抱く指先に、ぎゅっと力をこめて、言い切る。 「好きっていう気持ちも、決めるのは俺なんだ。神様じゃない」  和也の言葉が、瑛の身体の芯にぶつかって、砕け散る。どんな言葉も足りないほど、激しい何かで瑛を縛り付けていたものが、解き放たれていく。 「いまさら、だけどさ」  少しの躊躇ためらいの後、 「あんた、恋愛って、した事ある?」  和也が瑛に問いかける。 「俺、多分、本気の恋愛って、した事なかったような気がするんだ」  問いかけながら、答えは待たずに、 「なんかさ、情けない話しなんだけど、俺多分、初恋もまだみたいなんだよなぁ」  他人ひと事みたいに続ける。そして、瑛から少しだけ身体を離して、 「馬鹿みたいな話だろ? 自分でもビックリだよ」  照れくさそうに、笑って見せる。 「だから、さ。瑛の事、好きだって自覚した時、俺、自分でもどうすればいいのか、わからなかった」  初めて経験するときめきにうろたえて、わけもわからないまま走り出してしまった。 「正直、今もまだ、自分の気持ちがどれくらいのものなのか、俺、わかってないのかもしれない」  自分の感情なのに、その衝動の名前も知らないまま。 「でも、さ。ひとつだけ、はっきりわかってる事があるんだ」  そこまで言って、和也の黒い瞳が、すっと瑛に向けられる。 「俺、瑛に、理屈抜きで好きになってほしかった。男だとか女だとかっていう条件抜きで」  まっすぐな瞳が、真摯しんしな言葉になおさら力を込める。 「ただ、好きでいて、欲しかったんだ」  和也の黒い瞳に、瑛は意識ごと取り込まれて、指先ひとつ動かせずにいた。  何度切りつけても、瞬く間に自分の形を取り戻す水のようなしなやかさで、和也は繰り返す。自分を信じて欲しいと。一度繋いだ手は、決して離したりはしないと。和也のまっすぐな気持ちが、瑛の胸に詰まったままの言葉を、押し出そうとする。 「……僕は、」  この瞬間を、いつか後悔する日が、くるのかもしれない。他人と違う身体に苦しみながら、家族もつくれず、たったひとり取り残される自分に、いつか泣く日がくるのかもしれない。 「和也の事、……好きだよ」  それでも、ほんの少しの希望しかなくても、今だけは、 「でも、これは、恋愛感情じゃない」  夢見ることを、試してみたい。 「でも、それでも、」  人の心は変わる。決して同じ場所には留めて置けない。 「和也の気持ち、嫌だなんて、思ってないよ」  だから、和也がいつか自分から、離れていくとしても。 「だって僕は、和也に、嫌われてないって思うだけで、嬉しいんだ」  でも、それでもいい。今だけでいい。今は、和也の気持ちに応えたい。 「すごく……、嬉しいんだ」  今、目の前に、自分に向かってくる感情がある。自分の存在を、許してくれる人がいる。その事が、泣き出したいくらいに、嬉しいから……。 「充分だよ」  俯いてしまった瑛の手を取り、握ったままぽんぽんと、元気付けるように二度ほど弾ませて、和也が明るく続ける。 「ありがとう」  和也のひと言が、瑛の言葉に出来ない想いを、そっと汲み取っていく。  ―― ありがとう。  いまも鮮やかな、記憶の中の風景は、優しい合歓ねむの色に染まっている。  初めて和也を知ったあの日から、ずっと、ずっと憧れていた。その少年らしい、伸びやかな全てに。決して自分には持ち得ない、健やかな明るさに。自分に向けられる怒りでさえ、その真っ直ぐさがうらやましくて、眩暈がするほどだった。  和也に、嫌われることは辛かった。だから、和也には、知られたくなかった。けれど、その思いの強さと同じくらいの強さで、全てを話してみたくなる瞬間があった。和也の、透明な、素直すぎる心は、この真実をどう受け止めるのか、見てみたいと……。  遠く、エンジン音が、ゆうらりと、潤んだ世界をノックする。  きっと、荻原の車だろうと、そんなことを思いながら、近づくタイヤの音に耳を傾ける。軽いクラクションが、目覚めを誘うように、鳴らされる。細く長く響くこだまは、昔の映画で聞いた、いま旅立とうとする、汽笛きてきの音に似ていた。(了)

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