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 突然部屋にこもってしまった和也に、瑛は微かな不安を感じていた。  不意に掴まれた手首。あの瞬間の和也の瞳は、哀しいような切ない色をしていた。  和也はいったい、何に苦しんでいるんだろう。言ってくれればいいのにと思う。けれどどうしてか、知る事に怯える自分も居て、その怯えが和也に近づく事を躊躇ためらわせていた。  事あるごとに、何かが胸に引っかかる。それでも、あまり深く立ち入るべきじゃないと、心の中にいるもうひとりの自分が警鐘を鳴らす。瑛自身、深く他人に立ち入られる事はされたくない。でも、ひりひりと心にかかり続ける何かが、瑛を和也へと引き寄せていく。  和也は、何かを抱え込んでいる。それは確かだった。けれどそれが何なのか、瑛にはわからない。それが何かわからなければ、どうしてやる事も出来ない。話せずにいるなら、何かきっかけを与えてやらなければと思う。和也が話せる「きっかけ」を。  気をつけていないと、わからなくなってしまう。不安定な精神の心の磁場じばは刻々と変わって、やがて手が届かなくなる。夏は短い。残された時間は少ない。それでも、和也との繋がりを、失くしてしまうわけにはいかなかった。  夕方になっても部屋から出てこない和也に、瑛が声をかける。 「和也?」  ノックをしても応えのないドアを、そっと押し開ける。ドアの向こうには、瑛に背を向け、机に向かう和也がいる。 「和也?」  見慣れた振り向かない背中。けれどその背中に、出会った当初のような拒絶は見当たらない。むしろ酷く寂しそうな、人恋しそうな印象がある。意を決して近づく瑛に、和也はそれでも振り向かない。 「お昼、何も食べてないだろう? 何か軽いもの、こっち持ってこようか?」  不安な肩先にそっと触れると、和也の身体が大きく震えた。 「和也?」  ゆっくりと、和也が振り返る。和也の大きな瞳が、まっすぐに瑛に向けられる。何かを訴えかけてくるような必死な色が、その瞳には浮かんでいる。その瞳が何を言おうとしているのか、それがわからなくて、瑛の眉が微かに顰められる。  瞳に映る瑛の姿に、和也は一度目を閉じた。  きっと瑛は、家族のような優しさで、守ろうとする愛で、自分を見つめてくれていたんだろう。和也自身、瑛に対して、そんなふうに愛していけたらと思っていた。こんな情熱に感化されてしまうような愛情は、決して望んでなんかいなかった。けれど、制御しきれない恋情は、和也の中の何かを変えてしまった。劇的に。  静かに立ち上がった和也が、瑛を見下ろす。  そのはかりかねる瞳の色に、瑛は息を詰めて見入ってしまう。和也の潤んだ瞳に、何かが絡め取られていくようだった。  まっすぐな視線が交差する。視界を磨くように瞬く瞳が、お互いをじっと見つめる。互いの胸の中にある何かを探るように、答えを求めるように。  あとできっと後悔する。言わなければよかったと、死ぬほど後悔する。それでも、 「瑛、」  繋がりかけた絆は、このひと言で永遠に途切れてしまうかもしれない。それでも、 「俺……、人として、壊れてしまったのかもしれない」  この不安定で、危険な感情が、恋と呼べるのかどうかも、わからない。それでも、 「こんなの、おかしいって、ちゃんとわかってる」  わかっているのに、止められない。 「でも、もう、どうしようもない」  こんな気持ちは、初めてなんだ。 「俺、あんたのことが、好きだ」  唇を噛んで、瞼を閉じた。 「好き、……なんだ」  拳を握り締めて俯く和也を、なかば呆然と見つめながら、瑛は瞬きひとつ、出来ずにいた。  心に引っ掛かり続けた欠片が、パタパタと、ものすごいスピードで有るべき場所にはまっていく。瑛を不安にさせたピースが、瞬く間に、一枚の答えを描きあげていく。  冗談で、かわす事は出来なかった。笑って受け流すことも、出来なかった。和也の、思いつめた響きに、何をどう返せばいいのか、まるでわからなかった。  どくどくと、鼓動が走り出す。瑛の身体が、小刻みに震えだす。  ―― 俺、あんたのことが、好きだ  鼓動に埋もれた鼓膜の奥で、和也の言葉が繰り返される。 「……瑛」  俯いていた和也が、視線を上げて、瑛へと一歩踏み出す。思わず、瑛は身体ごと、後ずさっていた。 「瑛」  呼びかける和也の瞳が、傷ついたように揺れた。  その瞬間、瑛の頭の中が、真っ白にショートした。瑛が、震えながらゆるゆると首を振る。泣き出しそうにゆがんだ瞳が、和也から引き剥がされ、和也に背を向け走り出す。慌てて後を追う和也を、一度も振り返らずに、階段を駆け下り、そのまま外へと飛び出していく。 「瑛!」  降りしきる雨に、和也の呼ぶ声が、掻き消されていく。  鬱蒼うっそうと茂る緑が、雨粒にあおられていた。 (和也が、僕を好きだなんて、そんな、そんな事が……!)  顔に吹き付けてくる飛礫つぶてをかわしながら、瑛は駆ける。嵐の中を。 (どうして?)  問いかける空に、闇は折り重なり、雷鳴がくすぶり始めていた。  瑛が向かったのは、翠玉の森の奥、大樹の林。和也の知らない裏道を抜けて、切り倒された大木のうろに身を隠す。この場所を、和也は知らない。この場所なら、和也に見つからない。  震える指先で携帯電話を取り出し、着歴の一番上を選択する。 『瑛?』 「おじさん!」  電話の向こうから聞こえた荻原の声に、堪えに堪えていた涙が、どっと溢れ出す。 『どうした?』 「おじさん、僕の事、迎えに来て。お願い。今すぐ迎えに来て!」 『瑛? どうしたんだ? 泣いてるのか?』 「そんなのどうでもいいから、来てよ!」  今まで一度も聞いた事のない、瑛の感情的な声。荻原が、すっと声を落ち着かせる。 『今、何処にいるんだ?』 「別荘の近く。大きなうろのある木。憶えてる? その中……」 『わかった。すぐ行く』  荻原の返事を確認して携帯を閉じ、瑛は涙を噛み締める。握り締めた携帯が、ぶるぶると震えて、瑛の手から滑り落ちる。枯れ草の上で、点滅する着信が誰からなのか、見なくてもわかる。 (和也!)  決して応える事の出来ない名前が、瑛の胸の中で苦く弾ける。ずっと感じていた、曖昧だった不安の正体に、瑛は身動きひとつ出来ずにいた。  弱った心に、冷たい雨。瑛の意識が、刻々と薄れていく。いったいどれくらいの時間が過ぎたのか、遠くからぱしゃぱしゃと、草地を踏みしだく音がする。 「瑛!」  洞全体を明々と照らし出す懐中電灯に、瑛は残り僅かな意識を吸い取られていく。そのライトの向こうには、荻原がいる。そう信じて目を閉じる。足元に落ちるライト、伸ばされる指先、力強く引き寄せられた腕の中に、瑛は身体を預ける。ほっとする体温に、頬を寄せる。 「……おじさん」  力なく呼びかける。 「早く、僕を、此処から連れ出して。和也から、遠ざけて!」  辿り着いたぬくもりに、きゅっと縋りつく。 「僕は、和也を駄目にしてしまう。……駄目に、してしまった」  瑛の頬を、涙が伝い落ちていく。 「和也はこれから、たくさんの人に会って、たくさんの人を好きになって、好かれて、自分らしく希望に満ちた人生を、歩んでいけるはずだったのに……」  たどたどしく途切れながらも、瑛が必死で言葉を繋ぐ。 「それなのに、僕が、必要以上に近づいて、……取り返しの、つかない事を……」  言葉がとうとう、涙で途切れる。その時、瑛の身体にまわされた腕に、いっそう力がこめられた。今にも消えそうな意識の中、瑛はそのぬくもりに、必死に縋っていた。 「瑛!」  遥か彼方から聞こえる呼び声は、闇の中へと、吸い込まれていった。  あっというまに見失ってしまった瑛の影に、和也は別荘に戻り、瑛の携帯を鳴らしていた。何度かけても繋がらないリダイヤルを解除した瞬間、荻原から連絡が入った。電話の向こうで荻原は、「一刻も早く見つけ出してくれ」と、畳み掛けてきた。口頭で確認した場所に和也が駆けつけ、荻原が追いついたのは、それからすぐの事だった。  意識を失くしてしまった瑛を別荘に運び込んで、荻原が治療する。「死にたい」「僕なんか、いなきゃ良かったんだ」とうわ言を繰り返す瑛に精神安定剤を投与し、荻原がリビングへと移動した時、リビングの真ん中には、濡れた服のまま、真っ青な顔をしてうずくまっている和也がいた。 「君も着がえて、シャワー浴びてきなさい。そのままじゃ風邪どころか、肺炎になっちゃうよ」  言ってタオルを投げかける荻原を、和也は振り返らない。きゅっと膝頭を握り締め、頑なに顔をあげようとしない和也の前に、荻原が膝をおる。 「和也くん?」 「俺の、せいで……」 「なにがあったかは知らないけど、これは、君のせいじゃない。これだけは、確かだよ」 「嘘だ!」  荻原の言葉に、頷けるはずもなく、和也が思いっきり首を振る。和也の鼓膜には、自分から遠ざけてくれと懇願する、瑛の声だけが残っている。 「俺が、勝手な事ばかり言うから、……だから……」 「和也くん、きっかけは君だったかもしれない。でもね、此処まで瑛が追い詰められたのは、君一人の責任じゃない」  涙に潤んだ瞳が、やっと荻原を見つめる。 「とにかく、シャワーを浴びてきなさい。ちゃんと説明するから」  立ち上がった荻原に、ぐいっと腕を引っ張られて、無理矢理立たせられた和也が、とぼとぼとバスルームに向かう。その背中を見送って、荻原は往診鞄おうしんかばんに入れてあった真新しいブランデーを取り出す。グラスに注ぎ込んで、一息にあおる。食道を、熱い塊が滑り落ちていく。じりじりと焦げるように、胸底が痛む。その痛みをやり過ごして、もう一杯。今度は氷を入れて、その場でめるように口にする。 荻原は、瑛の秘密を和也に話すべきか、逡巡しゅんじゅんしていた。  瑛の、あまりにも大きすぎる秘密を、はたして打ち明けてしまって良いのか。迷いはある。けれど、今の瑛は、自分だけではとても支えきれない。でもだからといって、まだ十八歳にしかならない和也に、話してしまっていいんだろうか。  何か大きな運命のようなものが、自分の掌に落ちてきてしまったような気がして、荻原はもう一度、グラスに残ったブランデーを、一気に呷った。  和也がバスルームから出てきた時、荻原は氷と酒の入ったグラスを足元において、リビングの端に座り込んでいた。くっと飲み干されるグラス。乱暴に継ぎ足す仕草。酷く辛そうに見える荻原に、和也が近づく。 「おっ、暖まってきたか?」  少し酔っているような口調で、荻原が薄笑いで問いかける。頷く和也が、壁に寄りかかるようにして隣に座る。 「君も呑まないか? 少しは呑めるだろう?」  氷の入ったグラスを床に置いて、和也の足元へと滑らせる。 「高い酒なんだが、ちっとも美味くない。でも、暖まるぞ」  持ち上げたグラスから香る、濃厚な酒の匂いに、和也の眉が顰められる。それでも、勢いをつけて飲み干す。はじめて口にするブランデーに、和也が盛大にむせる。 「おいおい、上等じょうとうなブランデーなんだぞ。むちゃな呑み方するなよ」  宥めるように言って、咳き込んでいる和也の背中をさすりながら、自分も同じように一気に呷る。その姿を横目で見ながら、目尻に浮かんだ涙を拭って、和也が荻原に言う。 「もう一杯、呑んでいいですか?」  荻原が、手元のボトルから和也のグラスにブランデーを注ぐ。さっきよりは落ち着いた様子でグラスを口にする和也に、おもむろに問いかける。 「人の心に踏み込むには、勇気がいる。和也くんはこの意味がわかるかい?」  意味深な荻原の問い。問い返すように見つめる和也に視線を合わせて、言葉を続ける。 「一度足を踏み出したら、自分だけが苦しいなんてありえない。その上踏み出した足は、もう二度と、引き返す事は出来ない。聞いてしまったものを、聞かなかったことには出来ない。その覚悟が、和也くんにはあるかい?」  慎重に言葉を重ねる荻原に、和也は大きく頷いて見せる。荻原が今言おうとしている事は、きっと自分が知りたかった事だと、そう思って……。 「俺が瑛の事を知りたいって思うのは、俺の我儘です。でも俺は、瑛の事が知りたくて、此処に来たんです。だから、もしも教えてもらえるなら、どんな小さな事でも知りたい。それがたとえ、瑛が望まない事だとしても」  和也の迷いのない言葉に、荻原が細く息を吐き出す。 「クラインフェルター・シンドロームって、聞いたことある?」  生まれてはじめて聞く言葉に、和也の眉根がよせられる。 「染色体は、知ってるよね。男なら「XY」、女なら「XX」。これは保険か生物の授業で習ったろう?」  記憶に残るその言葉に、小さく頷く。 「瑛の染色体はそのどちらでもない。女性型と男性型が混在する、「モザイク型」と呼ばれる型なんだ」  荻原の視線が、まっすぐに和也に向けられる。怯むことなく強い視線を受け止める和也に、荻原が重く口を開く。 「瑛は、医学上、男とも女とも言い切ることが出来ない。それを、クラインフェルター・シンドロームって言うんだよ」  それは、瑛が中学二年のとき。  史人の出張で、荻原のマンションに泊まっていた瑛が、ポツンと妙なことを口にした。 「僕さ、声変わり、まだなんだよね」  そして、何の気なさを装って、いたって平静な表情で瑛は荻原に問いかけた。 「それって、薬でなんとかならないのかな?」  けれどその顔色は、まるで紙のように白く、血の気の失せたものだった。  二次成長には個人差がある。だから荻原は、特に気に留めていなかった。でも、瑛はずっと、そのことで悩み続けていた。  それまでも、瑛は自分がまわりの子供たちと違っているということに、薄々気づいていた。その漠然ばくぜんとした不安は、はっきりと言葉に出来るものではなかった。ただ、普通とは違うと感じる事が怖くて、口にしてしまったらそれを認めてしまいそうで、誰かに確かめる事も出来ずにいた。それなのに、中学に入ってまわり全部が男臭く変貌していく中で、自分の存在は明らかに異質だった。その現実は、自分で自分を誤魔化せる限界を、超えさせた。  そして、出された検査結果の前で、瑛は「ふっ」と、苦く笑った。 「そっか。そういうことか。僕は、まともな男じゃなかったんだね」  皮肉に言い捨てた瑛の声を、荻原は今も鮮明に思い出せる。そして、深く息を吐き出した後、まるで軽い冗談みたいに付け足した。 「父さんには、内緒にしといてくれる? これは、僕の問題だからさ」  生まれたときから知っている瑛の身体の変調に、気づいてやれなかった罪悪感から、荻原はその言葉に頷く以外どうする事も出来なかった。この重い現実をどうやったら軽くしてやれるのか、そればかり考えていた。  そこからはじめたホルモン治療で、瑛は辛うじて男子としての二次成長らしきものを迎える事が出来た。けれど、性の自認は常に揺れていた。どんなに望んでも得られない、男としての自信が、瑛の自己認識を、日増しにゆがめていった。  荻原が説明する間、和也は手元のグラスをじっと睨みつけていた。  荻原から聞かされた、瑛の秘密。それは、和也が認識できる範疇はんちゅうを超える現実だった。けれど、自分が告白した瞬間の瑛の動揺。自分を責め続ける言動。その全てが、まるで抜け落ちてしまったピースのように、パタパタとはまっていった。 「俺は、瑛と自分は、兄弟のような友人になるんだろうと、思ってました」  それは、本当にそうだった。 「家族のように大切にしたいと、そう思ってました」  あの夜、瑛が自分を迎えにきてくれたあの日から、家族になろうと、仲良くやっていこうと、そう思っていた。 「でもその気持ちが、ある日突然、もっと熱いものに変わってしまって、俺は瑛に、……それを、押し付けてしまったんです」  何も知らずに、瑛の葛藤かっとうを欠片も理解しないまま、ただただ自分の気持ちを押し付けた。自分が苦しいばっかりに。 「俺の、せいで……」  口元を押さえて、涙を零す和也に、荻原がそっと問いかける。 「……瑛が、好きだった?」  涙に潤んだ大きな瞳が、荻原を見つめる。切なげにゆがめられた瞳が、諦めたように閉じられた。 「……今も?」  この真実を知っても? そう問いかける荻原に、力強く頷く。 「男だとか、女だとか、そんなの関係なかった」  だって自分は、瑛を男と認めながら、それでも好きという気持ちを消せなかった。 「頭がどうかしてるんじゃないかって思っても、止められなかった。俺は、……瑛が、好きです。それは今も、少しも変われない」  沈黙する部屋に、天窓を打ち付ける雨の音が、ぱたぱたと響いていた。 「頭がどうかしてるなんて、……馬鹿な事を……」  荻原の声が、雨音に絡んでいく。窓を伝い落ちる雨だれが、涙の雫のように流れていく。 「僕はね、ずっと、それこそ今も、菜月の事が好きなんだ」  驚いたように顔を上げる和也に気づきながら、荻原の瞳は遠くに置かれている。 「物心ついた時からずっと、血の繋がった妹を、本気で愛していた」  荻原の視線は、思い出を追いかけるように、窓の外に向けられていた。  小さな頃から病弱だった菜月のために、医者になる事を決めて、菜月の身体を治してやりたい一心で、ずっと頑張っていた。けれど、瑛を生んですぐ、菜月の状態は急激に悪化していった。 「菜月?」 「お兄ちゃん」  暇を見つけては病室を訪れ、弱い息を確認しながら、毎日毎日、なんとかして助けたいと、菜月の事ばかり考えていた。けれど、いつか来るその時に向かって、時間という水は注がれていた。目の前の器はもう、あふれ出す寸前すんぜんで……。 「なにか、欲しいもの、ないか?」 「ううん……、いい」 「喉、渇いてないか? 水差しの水、冷たいのに変えてこようか?」 「お兄ちゃん」  荻原の言葉を遮って呼びかける、菜月の声は掠れていた。 「瑛、元気?」 「あぁ、元気だよ」  その瞬間、菜月はこの上もなく幸せそうに笑った。笑いながらこめかみを、透明な雫が零れ落ちていく。 「瑛、連れてこようか?」  小さく首を振る菜月の、紅い唇が震えていた。 「今、連れてくるよ」 「……お兄ちゃん」  微かに聞こえる呼び声に背を向けて、瑛を連れに病室を後にした。そのほんの一瞬の間だった。菜月の唇は紅く色づいたまま、まるで眠っているように見えた。 「菜月の葬式の後、僕は病院を休んで、現実感のない毎日を過ごしていた」  荻原の声は抑揚よくようなく、淡々と紡がれる。 「何もかもがついえてしまったみたいで、何もする気になれなくて、いっその事、このままこの場所で死んでしまおうかなんて、馬鹿な事ばかり考えていた」  自嘲的な笑みが、口の端に浮かぶ。 「そんな時、史人さんが、あのマンションに来てくれたんだ。史人さんの腕には瑛がいて、小さな指先を、僕に向かって伸ばしてよこした」  すっと馳せられる瞳が、淡く潤んでいく。 「菜月にそっくりな瑛に、指先を握られて、その時初めて、僕は泣いたんだ」  間接照明に照らされたふたりの間で、グラスの氷がカランと鳴った。 「もしも菜月が生きていたら、僕はもっと苦しんだかもしれない。それでも、この気持ちは変われなかったと思う」  薄く笑って、諦めたような表情をする。 「こんなことを話したら、聞いた人のほとんどが、僕のことを異常だって言うと思うよ。血がつながっている妹を好きだなんて、おまえ、おかしいんじゃないか? ってね」  物事の善悪や、幸不幸を決めるのは、雑多ざったな思念の片隅にある、常識と言う言葉。 「でも、間違いだって言われても、変えられるものじゃない。変えられるくらいの気持ちなら、誰も苦しんだりしない」  けれど、そんなものに縛られていては、真実を見誤みあやまる。 「人にはさまざまな生き方がある。それが正しいか間違っているか、そんな判断は、誰にも出来ない」  荻原の視線が、和也に向けられる。 「僕は今、和也くんが瑛を好きでいてくれることを、なにより嬉しいって、思ってるよ」

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