作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

(和也が嫌っていたのは、……僕だったんだ)  ただ闇雲に近づこうとしていた。その強引さが、きっと和也の感情を逆撫でしたんだろう。それはわかる。もしも自分が和也の立場なら、やっぱり鬱陶しいと感じたろう。でも、そうすることしか出来なかった。今も、他に方法は見つからない。目の前に広がる溝の前で、いつまでも何も出来ず立ち竦んだままの自分を、どうやって動かせばいいのか、わからない。  和也のいない毎日。その名前すら、音に出来ない日々。あの日を境に、瑛は和也の気配を探ることさえ出来ずにいた。  それまでも、和也と顔を合わせないことは、当り前になってしまっていた。それでも、和也はずっと、どんなに遅くなっても家に帰っていた。帰ったからといって、何か話すわけでもなく、直行で部屋に入って朝まで出てこない。でも、それでも、和也の外泊は数えるほどしかなかった。  だから今も、和也はちゃんと帰っている。瑛はそう、信じていた。けれど、 「それ、どう言う事?」  加奈子の言葉に、瑛は自分の耳を疑った。  夕食も早々に片付けられたダイニングテーブルには、史人と加奈子と瑛が座っていた。 「和也が、学校に行ってないって、いつから?」  目の前の空席と、加奈子を見比べながら発せられる瑛の声は、低く鋭い。 「先週の、……水曜」  その日は既に、翌週の火曜になっていた。 「今日、和也の担任の先生から、電話があったの。風邪の具合は、如何いかがですかって……」 「風邪?」  続く史人の声には、僅かに苛立ちがこもっている。 「和也は、中学になってから、学校への連絡は自分でしてたから、多分、和也が言ったんだと思うわ」 「担任は、なんて?」 「中間考査の、時間割の変更だけで、特には……。お大事にって……」 「ちょ、ちょっと待って」  瑛の声が震える。加奈子が、和也の欠席に気づかないわけながい。一緒にいたら、絶対に気づくはずだ。それが、気づけなかったということは……。 「和也、もしかして、もうずっと、この家に帰ってないの?」  声もなくうつむく加奈子を、瑛は信じられないものを見るように凝視していた。  だとしたら、それが本当だとしたら、和也はもう丸一週間、行方知れずということになってしまう。 「なんで黙ってたんだ?」  史人が声音を緩め、優しく問う。 「だって、あの子、……瑛くんに、酷いこと言って……」  搾り出すように告げられた加奈子の言葉に、瑛が愕然とする。  あの日の和也を知って、加奈子が黙っているはずがない。自分に対しては、まだ気遣いがある。けれど、実の息子に対しては、きっと違っている。もしも、もしも、この予感が当たっていたなら……。 「まさか、加奈子さん、和也のこと、叱ったの?」  涙に潤んだ瞳が、瑛に向けられる。 「加奈子さん、そんなことしたら、和也はもう、此処には帰ってこれなくなっちゃうよ。なんで僕に言ってくれなかったんだ。なんで和也を責めたりなんか ―― 」 「瑛」  咎めるように名前を呼ばれて、瑛が言葉を途切れさす。加奈子が叱られた子供のように、小さくなっていくのがわかる。 「だって、どうすればいいのか、わからなかったのよ!」  加奈子の声が、震えだす。 「私には、どうしてあの子があんな酷いことを口にするのか、わからない。だってあんな子じゃなかったのよ。本当に、優しい子だったのに、どうして……」  両手で顔を覆って、本格的に泣き出してしまった加奈子の肩を、史人が抱きしめる。  あの日、史人は和也が食卓につかなかったことで、少なからず動揺してしまった。そして、帰宅しない和也を待つことで削がれてしまった眠気を取り戻すために、睡眠導入剤を飲んでいた。それは以前、史人が睡眠障害にかかった時にもらっていた薬で、今はめったなことでは飲まずにいた。けれどあの日は、翌日には必ず和也と話をしようと心に決めていた。そのために、充分な睡眠をとることを優先させた結果だった。けれどその安易な判断が、決定的な亀裂の瞬間を見逃すことになってしまった。その上史人は、その決意さえ守れていなかった。  父という存在そのものを受け入れられずにいる和也に、突然現れた自分が、いったい何を言えばいいのか。生徒たちの悩みを聞いてやる事とは、根本的に違っている。けれど、いきなり馴れ馴れしく近づくわけにもいかない。かといって、他人と同じ距離を保ったまま話したところで、何の解決にもならない。  ぐるぐると同じ場所を回り続ける思考回路。答えの出ない問答は、史人の判断を狂わせ、和也に対して必要以上の遠慮を生んでいた。顔を見せない家族の居場所を確認する。そんな当たり前のことさえ、口に出せないほどに。 「わかった。わかったから、とにかく、ふたりとも落ち着いて。過ぎたことはもうどうしようもない。とにかく、心当たりを探してみよう」  史人の言葉に頷くことも出来ずにいる瑛に、史人が問いかける。 「瑛、お前、学生名簿持ってないか?」 「名簿?」 「あぁ、和也くんの学年の分だけでもかまわない。なんとか入手できないか?」  それは、決して無理なことではなかった。けれど、それを手に入れようとしたとき、瑛は和也のクラスの担任に、自分と和也の関係を明かさなければいけなくなる。  和也は単純な引越しとして、学校に届出をしていた。そして瑛も連絡先の変更届だけで済ませ、今はまだ、ふたりが兄弟だということを知っている人はいなかった。和也は三年で、もうすぐ受験で。自分と関わりがあるのはこの一年だけだった。だから、むしろ今は、特別な関わりを知らせて回る必要はないと、そう判断してのことだった。史人も加奈子も、和也の了解を得るまで、心からの祝福をもらえる日まで、入籍を待つつもりでいた。  それが、こんな形で打ち明けることになるなんて。そう思うと、瑛の胸の中は苦いもので満たされる。けれど今は、そんなことにこだわっている場合じゃない。なんとしてでも、和也の居場所をつきとめなくては。 「わかった。和也の担任に聞いてみるよ」 「待って!」  頷いて携帯を取り出した瑛に、加奈子が懇願するような声を出す。 「待って、瑛くん。電話しないで!」 「加奈子?」  史人が驚いたような声を出す。 「先生には、言わないで!」  和也が自分のために、より良い生徒でいようとしてくれていた事。その事を加奈子は痛いほど知っていた。だから今、こんな時期に家出しているなんて、もしも知られてしまったなら、和也が誠意をこめて過ごして来た毎日まで、壊してしまう。それはなにか、取り返しのつかない事のように思えた。 「和也の、連絡先。携帯。私、電話するから」  あの日から、加奈子は一度も和也に電話をしていなかった。担任からの連絡の後も、なにかしら胸に詰め物をされたような感覚に、和也の携帯を鳴らせずにいた。けれど今は、どうか出てくれという一心で、和也の携帯を鳴らしていた。  けれど身勝手な願いは、無機質な機械音に鎖される。途切れた呼び出し音が、留守番電話サービスに繋がる。 「和也? お母さんです。この伝言聞いたら、お願いだから、連絡ください。何時でもかまわないから。待ってます」  震える声音を何とか抑えながら、加奈子が伝言する。加奈子が電話を切るのと同時に、史人が問いかける。 「和也くんがよく立ち寄ってた場所とか、親しい友達とか、何か思い当たることはあるか?」  史人の抑えた声音に、加奈子が視線を向ける。 「以前もらった、部活の名簿なら、あると思うわ」 「じゃ、それ、見せてくれる?」  即座に言って腰を浮かせる瑛を、史人が押し留める。 「いや、待て」  今にも立ち上がりそうな瑛が、史人を見下ろす。 「和也くんが学校に行ってないとしたら、部活の友達の家に泊まり続けるのは、無理があると思わないか?」 「だって、じゃ、どうするんだよ!」  初めて聞く、瑛の叫ぶような声音に、史人と加奈子が驚いたような視線を向ける。 「このまま放っておく気? このまま何もしないで、ただ待ってる気? そんなの耐えられないよ!」 「瑛」 「加奈子さん。加奈子さんだって耐えられないだろ? そんな、ただ待つだけなんて、こんな気持ちでじっとしてるなんて、僕には出来ないよ!」 「瑛!」  強い声音で呼びかけられて、瑛は自分の口元を抑え、脱力して座り込む。宥めきれない感情が、瑛の身体を震えさせる。 「ただ待とうなんて誰も言ってないだろ? ちょっと落ち着け。まずは心当たりを出し合って、それから行動しよう。学生たちの溜まり場なんて高が知れてるだろ? いくつか候補を絞って、僕たちが探しに行こう。な? それでどうだ?」  子供に言い聞かせるような史人の声音に、思わず涙腺が緩みそうになって、瑛は歯を喰いしばる。こんなにも追い詰められた気持ちになったのは、初めてだった。たったこれだけのことで泣きそうになっている自分が、信じられなかった。  史人が通う高校と、瑛と和也が通う高校は、同じ路線上にあった。史人の通う高校のほうが開けた場所にあった関係で、学生たちがよく集まる場所は史人の方が詳しいようだった。選択教科の担当という気楽さから、それまで生徒達の動向を気にかけたことがなかった瑛は、学生たちが放課後どんな場所に遊びに行くのか、全くと言って良いほど知らなかった。史人の問いに曖昧な答えしか返せない自分の無頓着さが、同じ教師として情けなくなってくる。 「和也くんは部活で忙しくて、今まではほとんど遊ぶって事がなかったんだろう?」  史人の問いかけに、加奈子が頷く。 「だとしたら、遊びなれた友達か知り合い。そんな人が近くにいる可能性があるな」  史人の言葉に、視線が集中する。 「和也くんの事だから、まさか制服で遊び歩くような間抜けなことはしていないだろう。だとしたら、私服で繁華街にいる可能性もあるわけだ」  上背のある和也が、遊びなれた風を装ってスーツ姿でいたなら、不思議なほどネオンが似合ってしまいそうで、その想像が瑛の眉を顰めさせる。 「とりあえず目立った繁華街を、瑛の高校を中心に当たってみよう」  今はもう、それしか方法はなくて、加奈子の顔が不安げに曇る。 「加奈子は此処にいて、和也くんからの連絡を待っててくれ。そして連絡があったらすぐに、僕の携帯を鳴らしてくれ」  力なく頷く加奈子に、瑛が優しい声音で呼びかける。 「加奈子さん」  泣き出しそうな瞳が、瑛に向けられる。 「さっきはごめんね。でも和也のこと、もう叱らないでやって。和也はきっと、口に出さなくてもいろんな事、後悔してると思うよ」 「瑛くん」 「今の和也には加奈子さんしかいないんだから、加奈子さんが手を離しちゃったら、和也、ひとりぼっちになっちゃうよ」  俯く加奈子の涙が、ぱらぱらと零れて散った。  玄関の外、大通りに続く道すがら、早足で歩きながら史人が瑛に声をかける。 「瑛」  叱られる事を覚悟して、無言で史人を見上げる瑛に、史人が不思議なほど優しい笑みを見せた。それは、これから続く言葉の予想が出来ないくらい、穏やかな表情だった。 「お前があんなふうに感情的になるのを、初めてみたよ」  思わず、ぴたりと瑛の足が止まる。予期していた動きだったのか、史人もその場に立ち止まる。 「胸に詰まるものがあるなら、吐き出してしまったほうが良いぞ。でもな、それは出来れば僕に吐き出して欲しい。まだ言いたい事が、あるんだろう?」  史人の促す優しさが、やんわりと胸に沁みて、瑛は泣き出してしまいたいような気持ちになる。 「和也はいつも、学校では、笑っていたんだ」  瑛が心から憧れた、青い青い、尊くさえ感じた清々しさ。 「それがこの家では、僕の前では、いつも難しい顔だけで、でも、そうしている事に、和也自身が疲れてるような気がするんだ」  刺々とげとげした印象しか見せない外側と、強がりで隠した寂しそうな内側。どんなに冷たい言葉を口にしても、和也には憎みきれない何かがあった。本当なら憎々しげな表情で言わなければいけない言葉を、和也はいつも泣きそうな瞳をして投げつけてきた。だからずっと、どんなに反発されても、近づくことを諦めずにこられた。 「和也は、帰りたがってる。本当は、帰る場所を欲しがってる」  届かないかもしれないと思うたびに襲ってきた、不安な寂しい気持ち。その中に、和也はいつも、肩を落として後ろ向きで佇んでいる。寂しそうに、小首を傾げて。 「僕は、和也が帰る場所を、つくってやりたい。それが余計なお世話でも、身の程知らずな思い上がりでも、僕はほんとうに、そうしたいんだ」  和也の、他人に弱みを見せようとしない人見知りな心は、誰よりも強く、誰かを求めている。きっと、今も。今、この時も。  瑛の言葉に頷いて、史人が歩き出す。歩調を揃える瑛を、振り向くことなく問いかける。 「難問の前に、選択肢は二つある。何だと思う?」  史人の問いに、瑛が史人を見上げる。 「逃げ出すか、気力を振り絞って立ち向かうか、そのどちらかしかない」  ちらりと見下ろす視線に、瑛が頷く。 「時と場合によっては、逃げるが勝ちってこともあるだろう。でもな、常に逃げを選択する者に、立ち向かう力はつかない」  瑛の視線はまっすぐに、史人に向けられている。 「お前はこの難問から、逃げる気はないんだろ?」 「もちろん!」  迷いのない返事が返される。 「だとしたら、もうやるしかない。打てる限りの手を打って、持てる限りの知恵を絞り出して、一緒に立ち向かおう」 「うん!」  瑛の力強い同意に、史人の大きな掌が瑛の頭をくしゃくしゃと混ぜる。 「自尊心の高い子で、父さんは嬉しいよ」  史人の手を振りはらって、瑛が憮然としたように言う。 「当たり前じゃないか。今気づいたわけ?」 「いや、知ってたよ。再確認、ってとこかな?」  暗い道なりに連なる街灯が、二人の影を明るく照らし出していた。  史人と別れ、瑛は学校の二つ先の駅にある繁華街で、和也の影を探していた。既に深夜の色合いが深く、ケバケバしいネオンが瑛の足元に反射する。 (和也)  胸の内で、呼びかける。 (和也!)  道路脇の暗い路地裏や、ゲームセンターのウィンドウに視線を走らせる。あてもなく、闇雲に駆け回っていると、そんなに広くもない街の小さな繁華街が、底知れない場所に見えてくる。  時間は刻々と過ぎていく。ネオンがひとつ、またひとつと消えていく。高校生と思えるような集団は、この街にはいなかった。手がかりひとつ掴めないまま、何も出来ない夜が明けていく。 (和也……。そうまでして、僕から逃げたくなったのか?)  そう思った瞬間、とてつもなく苦いものが胸からこみ上げて、瑛は近場のファーストフード店に駆け込んだ。まっすぐに洗面所に向かい、押し戻されてくる胃液を便器の中に吐き出した。その場に座り込んで少しだけ休むと、いくらか吐き気が治まってくる。なんとか立ち上がり洗面台まで歩き、口の中をゆすぎ、顔を洗う。おもむろに上げた視線の先、鏡に映った自分の顔のやりきれなさに、瞼を伏せた。  心許なく揺れる瞳。不安を抱えたままの顔色。無理に笑おうとしても引きって、上手くいかない。決して諦めないと、そう誓ったはずなのに、鏡の中の自分は、今にも泣きそうに顔を歪めている。 「馬鹿野郎!」  バンと水滴を撒き散らして、鏡を殴りつける。濡れた鏡が映し出す、ゆがんだ自分の顔を睨みつけ、濡れた顔を袖口で拭って、瑛は街に飛び出す。 思惑通りに、事は運ばない。でも、その現実に向き合わなければ、先には進めない。何もかも、自分で何とかできると思うのは傲慢ごうまんでしかない。人の気持ちは、現実はたいてい、思うようにはいかない。  でも今は、  傲慢でいい。我儘でいい。だって、そう信じていなければ、もう一歩も動けなくなる。 (絶対に、見つけ出す!)  強く心に言い聞かせ、瑛は明けかけた菫青きんせいの空を見上げていた。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません